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古志吉信(生没年不詳)古志宗信の子。左京亮・玄蕃頭?。尼子氏に属して各地で戦うが、安芸郡山城攻撃の失敗により尼子を去って大内氏に降るが、やがて尼子に帰参した。
古志吉信は、父・宗信の跡を継いで出雲栗栖山城主となり、古志一族の惣領となっています。 天文9年(1540)、近江国竹生島明神遷宮に際し、尼子晴久の命て寄付奉納が行われることになり、これに吉信も寄付をしています。このとき記された『竹生島奉賀帖』にも「古志左京亮」の名があらわれています。 また、『尼子分限帳』には、足軽大将として「古志玄蕃頭、出雲国内・四千三百七十二石」と記されていて、これが吉信のことであると考えられます。 天文9年(1540)、気鋭の尼子晴久は、毛利元就の討伐を決定すると、叔父・国久に命じて備後方面に出兵しますが、吉信もこれに従って出陣したようです。 吉信は備後大場城を攻撃し、攻め落としています。この大場城は、かつて備後古志氏の居城であった城で、祖父・為信のときに毛利興元(元就の兄)によって攻め取られていたものです。 しかしこの備後路への攻撃は、毛利に属する甲立五竜城主・宍戸隆家などによって江の川の渡河を阻まれたため、尼子軍は撤退しました。 このため晴久は石見路からの攻撃を企画、吉信は晴久に従って富田城を発し、毛利氏の居城郡山城を包囲します。ところが戦いは遠来の尼子勢に不利で、翌年には大内氏の援軍が到来したため、尼子軍は総崩れとなって敗退します。 この敗北に、吉信は晴久の力量に疑問を覚え、三沢為清、三刀屋久扶らとともに山口の大内氏に誼を通じました。そして天文11年(1542)、吉信らの働きかけに応じた大内義隆は、大軍を率いて出雲攻撃を開始します。 ところが大内義隆は富田城を包囲したものの攻めあぐね、尼子軍に後方をかく乱されて兵糧輸送もままならなくなるなど、体たらくぶりを示します。吉信はこのため義隆にも失望、三沢・三刀屋らとともに尼子へ帰参してしまいます。 このために大内軍は総退却し、尼子軍の追撃を受けて命からがら山口に逃げ帰ることになりました。 その後、永禄元年(1558)ごろから、吉信の弟・豊信、重信が毛利軍との石見口での戦いに参加しています。吉信が家督を弟・豊信に譲ったのか、もしくは死亡したものか、ともかく以後は豊信が左京亮を名乗り、古志氏を率いたようです。 その後、永禄5年(1562)に本城常光が毛利氏方に寝返ると、古志氏も毛利に降礼をとって毛利家臣となったと思われます。
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あの辺りは大内、尼子どちらにつくか本当に難しい
ところですね。
とにかく強い方について、なんとか生き延びなくては
いけませんからね。
ぽち★
2008/11/15(土) 午後 7:01 [ - ]