|
古志重信(生没年不詳)
古志宗信の子で、吉信・豊信の弟。新十郎・因幡守・出雲守?。尼子氏に属し、尼子勝久の再興軍に参加したが、後に毛利に降った。また、足利義昭の近習となって織田信長の迫害を受けた義昭に随従して毛利に保護されたともいう。朝鮮出兵にも従ったが、関ヶ原合戦に敗れて毛利氏が防長二州に減俸されると、武士を捨てて帰農した。 古志重信は、戦国時代における古志氏最後の当主となります。 尼子晴久の時代には、長兄・吉信、次いで次兄・豊信が当主となったようです。重信は当初、兄に従って尼子氏に仕えましたが、その後、豊信の隠居もしくは死亡にともない、出雲古志氏の当主となったものと思われます。 重信には女子が数人おり、出雲大社の宮司家である千家宮内、北島貞孝、また上席家老である牛尾氏へと嫁がせるなど姻戚関係を結び、出雲における独自の地位を確立しています。 天文9年(1540)には晴久の吉田郡山合戦に従軍し、永禄元年(1558)ごろから毛利軍の石見侵攻が本格化すると、晴久に従って小笠原長雄の温湯城、本城常光の銀山山吹城などの救援に赴いています。 しかし、天文3年(1560)に尼子晴久が急死して尼子義久が当主となると、天文5年(1562)には毛利元就の攻勢が激化したために、古志氏は毛利の軍門に降ってしまいます。 重信はそのまま出雲の本領を安堵されますが、永禄12年に尼子勝久が尼子再興軍を起こすとこれに呼応したとされています。 その後の元亀元年(1570)2月、布部山合戦で毛利軍に敗れると土倉城に篭城、4月には吉川元春の攻撃を受けますが、奮戦して撃退しています。 しかし周辺の尼子方の城は次々と落ちて土倉城が孤立してしまったため、姻戚関係のあった出雲大社両国造から降伏を勧められ、やむなく毛利に降りました。 しかし『出雲佐々木古志系図』によれば、重信は若年の頃には一族と不和であったため、単身上洛して足利義昭の近習となったとされています。 永禄12年(1569)、将軍義昭の居館・六条館を三好三人衆が攻撃するという事件が起こると(六条合戦)、「一日の中に七度功名、首をとること七つ」という活躍を見せ、義昭から感状を受けました。 天正2年(1574)に義昭が織田信長によって追放されると、義昭に随従して毛利氏の支配する備後国の鞆へ下り、そのまま毛利氏に仕えて雲州の本領を安堵されました。 どちらの説が正しいにせよ、天正年間にはすでに重信は毛利に降っていたようで、山陰方面の経略に従事した吉川元春の指揮に従っています。 そして天正3年(1575)、山名氏政を推戴する但馬の有力国人衆が中国の毛利氏と「芸但和睦」を結んだ際には、重要な橋渡しの役割をはたしています。 また、天正6年(1578)年には毛利軍として尼子氏の篭る上月城攻撃に加わり、かつての盟友たちと戦っています。 天正8年(1580)には、織田信長の部将・羽柴秀吉の但馬平定に際して起こった水生合戦(城崎郡日高町上石)に出陣、一族の古志左衛門尉の討死にするなどの活躍があり、その合戦の勝利を賞した山名氏政の感状が古志重信に与えられています。 天正10年(1582)以降になると、毛利氏は配下の諸同族の土着化を奪い、その勢力を削減するという方針を打出します。古志氏にもこの圧迫が加わり、これに反発した重信の嫡子・豊長は、文禄元年(1592)、毛利氏によって暗殺されたといわれています。 しかし重信はその後も毛利家臣として忠勤をはげみ、文禄の役に際して輝元に従って出陣、渡海しており、『出雲佐々木古志系図』には「高麗征伐の時もまた軍忠抜群也」とあります。 そして慶長5年(1600)、関ヶ原合戦が起こったときも毛利氏に従って西軍となりますが、西軍が敗北したために、戦後、毛利氏は防長二州に削封されます。
このとき、長州へ移住するのを嫌った重信は、武士を捨てて帰農したと伝えられています。 |
全体表示
[ リスト ]



戦国武将の多くが、非業の死を遂げたなか、毛利に降伏して最後帰農し、穏やかな余生をまっとうしたことを願います。
2005/8/25(木) 午後 10:20
帰農したもの、主君に従ったもの、いずれもそれなりの苦労があったんでしょうね。生き残るというのもなかなか難しいものです。
2005/8/26(金) 午後 9:55
「毛利氏は配下の諸同族の土着化を奪い、その勢力を削減するという方針を打出します。古志氏にもこの圧迫が加わり、これに反発した重信の嫡子・豊長は、文禄元年(1592)、毛利氏によって暗殺されたといわれています。」
このあたりの記述は興味深く、読ませていただきました。
領土管理政策として、とても勉強になります。
ぽち★
2008/11/18(火) 午後 3:47 [ - ]