全返信表示
毛利隆元、謎の急死 〜 晴久の呪い!?
歴史のお話
[ 村上真一 ]
2013/9/8(日) 午後 2:25
幕末人物帖(3) マシュー・ペリー
歴史人物列伝
[ ユダヤのアジア太平洋謀略 ]
2013/8/3(土) 午前 8:33
川副美作守久盛
歴史人物列伝
[ mak*h*nsh*nmak* ]
2013/6/30(日) 午後 9:22
川副美作守久盛
歴史人物列伝
[ mak*h*nsh*nmak* ]
2013/5/28(火) 午後 1:28
こんにちは!河副久盛の子孫です。河添と申します。河添は近江国神崎郡川副邑発祥の宇多源氏佐々木氏流で同属の尼子持久の子清定が守護代として出雲下向時に声をかけられ重臣として川副常重が同行致しました。川副邑は今の東近江市五個荘のうち宮荘町だったと思います。文献に宮荘には川副館があった。ということです。小字で川添、
川添川が古より絶えることなく流れています。常重も分家筋で一旗上げるべく出雲へ旅立ったんでしょう。約100年後に本家筋の川副兵庫之助は六角氏との戦いで北庄3人衆として戦死(1560年)出雲に到着した常重、久盛等の名前は川副から河副になっています。河副久盛が
美作方面に展開した時に壬生という地名に河副甚七郎の名前も見え美作の壬生には現在も河副さんの名前がいくつか見受けられるのは、興味深いです。尼子が毛利に滅ぼされた後1569年久盛死去。その子久信は出雲に残り弟等は1959年に讃岐国へ入国。生駒親正の家臣となりました。河添勝右衛門、河添三九郎、川副勝左衛門尉、河副久作が生駒親正が讃岐襲封時に高野山に参拝して残した(高野山文書)に名前があり勝右衛門、その子三九郎が直接の先祖です。
茶臼山城址(神名樋野)
史跡探訪
[ 語部 ]
2013/5/21(火) 午後 9:49
「あらかねの土にしては、すさのおのみことよりぞ起こりける。」(古今和歌集仮名序)
あらかねとは通常、土の枕詞であり、この文章は、
「(和歌はこの日本の)地においては須佐之男命の時から詠まれはじめた。」
となる。
しかし、出雲国風土記で意宇郡安来郷の地名由来には「スサノオノ命が、ここに来て、こころが安らかになった。だから安来とつけた。」あり定住を決めた発言とも読める。
記紀においてはヤマタノオロチを倒した後、稲田姫命をめとり「八雲立つ出雲八重垣妻篭めに、八重垣つくるその八重垣を」と日本最初の和歌を出雲で詠んで定住を開始したという。
古代より、鉄の産した安来の地のことを「あらかねのつち」=(新しい金属(鋼)を産する地)と訳せばあらゆることに説明がつくのである。
やくさんのインフルエンザ、うつったかも
出来事。








