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吉川興経(1508-1550)
吉川元経の子。母は毛利弘元の娘。千法師。治部少輔。宍戸元源の娘を妻とした。武勇に優れ、強弓の使い手だったが、尼子・大内の間にあって寝返りを繰り返し、家臣の信を失う。その後、叔父・経世らにより強制的に隠居させられ、従兄弟にあたる毛利元就の次男・元春が吉川家を継ぐ。最期は元就によって殺害された。 大永2年(1523)、父・元経の死により興経が吉川氏を継ぎ、当主となりました。しかし、興経はこの頃まだ幼く、祖父・国経が興経の後見役となりました。 大永3年(1524)頃になると、尼子経久が山陰から山陽に勢力を拡大してきます。吉川氏は地理的な位置、姻戚関係もあって大内氏から尼子方に転じ、おなじく吉川氏と姻戚関係にあった毛利氏もまた、吉川氏にあわせて経久に従います。 毛利氏はその後、大内氏との連携を深めて尼子氏から離れていきますが、国経の方針により、興経はそのまま尼子氏に従います。このため毛利氏と吉川氏は敵対関係になりました。 享禄4年(1531)、祖父・国経が世を去ると、以降は興久が吉川家の舵取りをすることになります。 興経は国経の方針を継承し、尼子氏の武将として大内・毛利と対峙、一方で姉妹を武田元繁の子・武田光和の室にいれたのをはじめ、安芸山県郡の山県光頼、石見の小笠原長雄の室にいれるなどして周囲をかためています。 天文9年(1540)、興経は尼子晴久の郡山城攻めに従いますが、翌天文10年(1541)、尼子軍は毛利救援に来た大内軍と戦い、大敗北を喫します。このため晴久は郡山城攻略をあきらめ、出雲に退散しました。 郡山城攻略の失敗によって、晴久の器量に危ういものを感じた興経は、出雲・石見の諸国人ら13名の連署をもって大内に通じ、出雲遠征を請いました。 さらに、興経は元就と連絡をとり、ふたたび毛利氏との連携を進めていきます。 天文11年(1542)、大内義隆は興経らの要請にこたえる形で山口を発ち、翌年天文12年(1543)に月山富田城を包囲します。 ところが大内軍は富田城を攻めあぐね、尼子軍の遊撃部隊によって糧道も寸断されて戦闘どころではなくなってしまいます。 この大内軍の体たらくぶりに興久は失望し、三沢為清らと語らって再び尼子方に帰参してしまいました。そのために大内軍は総退却を余儀なくされ、尼子軍の追撃を受けて命からがら山口に帰ったのです。 この興経の裏切りに怒った大内義隆は、天文13年(1544)、興経を捕らえてその領地を元就に預けました。しかし、毛利元就は姻戚関係から興経を助け、元就のとりなしによって興経は大内家に帰参、旧領に復帰します。 事なきを得た興経でしたが、このように去就の定まらない興経に、吉川家中は混乱します。 そして興経の器量を疑問視した興経の叔父・吉川経世や重臣・森脇祐有ら吉川家宿老たちは、ついに興経排除を決定してしまうのです。 天文15年(1546)、経世ら宿老たちは、毛利元就に対して、「いかなる命令にも服従する」「興経に隠居地を給与する」「反対分子を排除する」の三項目の誓約書を提示して、元就の次男・元春の養子縁組を申し入れます。 天文16年(1547)、元就は「興経は毛利氏領内に移住させること」「興経は周防(大内氏)に差し出さない」という条件を追加して、元春の養子縁組を承諾しました。 こうして興経は同年8月、毛利氏領内の布川(広島市安佐北区上深川町)に幽閉の形で隠居させられてしまったのです。 そして三年後の天文19(1550)年9月、元就は「謀反の疑いあり」として、熊谷信直らに命じて興経の居館を急襲します。 強弓をよくする興経を討つのは並大抵のことではないと考えた熊谷らは、事前に吉川家中でも剛勇で知られる豊島内蔵丞を興経のそばから引き離したうえ、興経の寵臣・村竹宗蔵を抱き込んで興経愛用の弓の弦を切り、佩刀の刃をつぶさせておきました。 熊谷らの急襲を受けた興経は、弓も剣も役に立たないのをみて、「これほど運が尽きたとは。まさに天がわれを滅ぼそうとしているのだ!」 とカラカラと笑うと、強力にものを言わせて潰れた剣を打ち振るい、押し寄せた敵兵を23人まで打ち倒します。 しかし興経が門外へ出たところで、村竹宗蔵によって背後から矢を射かけられます。重傷を負った興経はとり取り囲まれ、討ち取られてしまったのです。 元就はこのとき興経の嫡男・千法師をも殺害させ、その血脈を断ちます。これは、いまだ壮年の興経と千法師の存在が将来の禍根になると判断したのでしょう。 こうして興経は無念の最期を遂げました。 安芸・石見国境地帯に勢力を持った吉川氏は毛利一族となり、以後吉川元春は、小早川氏を継承した隆景とならんで毛利両川と呼ばれるようになったのです。 吉川興経は剛勇で知られ、とくに弓の腕前は鎮西八郎にも匹肩すると言われたほどでした。その卓越した武勇を武器に、種々の合戦で活躍しました。 しかし、若くして当主となったがゆえか、家中の統制をとることができず、結局はそのために一族にも裏切られた形で毛利に謀殺されることになりました。 興経自身の器量にも危ういものがあったのかもしれませんが、祖父・国経や父・元経が家中・一族の結束をかためずして死んでしまったのも原因でしょうか。 興経の死後、その墓には彼が生前かわいがっていた白犬がずっとうずくまり、じっとそこを動かず、とうとう七日目に餓死してしまったといわれています。
また、この墓の周囲には葦毛の馬にまたがった興経の亡霊があらわれ、これに行きあった者はことごとく頓死してしまったといわれています。 そこで人々は御崎大明神を建立し、興経の鎮魂としたと伝えられています。 |
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2005年09月28日
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当ブログで紹介した武将・人物たちの一覧です。
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吉川元経(1459-1522)吉川国経の嫡男。母は高橋直信の娘。治部少輔・伊予守。毛利弘元の娘を妻とした。有田合戦などで毛利氏とともに武田元繁を破るなど活躍。尼子氏が勢力を拡大するとこれと結んで大内氏と戦ったが、父・国経に先立って死去した。
吉川元経は、家督を相続して間もなく父・国経がに先立って死去しているため、どうしても「短命」なイメージがあります。 しかし、元経が家督を相続したのは50代後半から60代だったと思われ、程なく死亡していますが63歳まで生きており、長命とはいえないものの当時としてはけっして短命ではありません。 祖父・基経、父・国経があまりに長命であったために、比較すると短命に思えてしまうのです。 この元経は、永正8年(1511)8月、父・国経とともに船岡山の合戦に参加して功をあげています。船岡山合戦は室町幕府の実権をめぐって細川澄元と細川高国・大内義興らが争った戦いですが、大内義興はこのとき、中国・九州の勢力を動員して戦いに赴きました。この中に吉川氏や毛利氏、尼子氏などもいたのです。 このときに上洛していた勢力に、厳島神主家もありました。しかし、当主が病死したことで家督相続の内紛がおこり、安芸国は不穏な情勢となってしまいます。 そこで大内義興は、傘下にあった安芸分郡守護・武田元繁を帰国させ、安芸の争乱を鎮圧させようとしました。 ところが、帰国した元繁は自己の勢力拡大につとめるようになたっため、元経は毛利興元らとともにいそぎ安芸に帰国します。 元経が家督を継いだのはこの頃だと思われます。 永正12年(1515)、武田元繁は有田城を攻撃を開始しました。元経は毛利興元の援兵を得て有田城を救援、元繁の軍を撃退しています。戦後、有田城は元経に与えられたため、元経は小田刑部を城将としてこれを守備させました。 その後、毛利興元が死去して幼い幸松丸が毛利氏の家督を継承すると、永正14年(1517)、これに乗じた武田元繁が反撃を試みます。山県郡に侵攻してきた武田軍は、再び有田城を攻撃したのです。 このときも元経は毛利氏と協力して武田軍を迎え撃ちました。 数に勝る武田軍は手ごわく、元繁自身も猛将であったために吉川・毛利軍は苦戦しますが、武田家臣・熊谷元直を討ち、ついで突出した武田元繁を討ちとって大勝利を得ました。 これが毛利元就の初陣として知られる「有田合戦」です。 このころになると、出雲の尼子経久が山陰から山陽に勢力を拡大していきます。 元経は、叔母が経久の妻であるという関係もあって大内氏から尼子方に転じ、尼子氏に大内方の動静を報告する役割を果たします。そして、同じく姻戚関係にあった毛利氏を尼子方に結び付けようとつとめました。 そして大永2年(1522)、尼子経久の本格的安芸侵攻を前にして、元経は父・国経に先だって死去してます。
嫡男・興経はいまだ幼少であったため、その後吉川氏は国経が興経を後見していくことになります。 |
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後輩に、毎年夏休みになると島根から茨城まで自転車で帰るというなかなかチャレンジャーなやつがいるんですが、その道中での話です。 ある地点に、一つの電話ボックスがありました。 長距離、自転車での走行で疲れた後輩は、ちょっと休憩することにして電話ボックスのそばで自転車から降りました。 よく見るとその電話ボックスは電話線が繋がってない、使われていない電話のようです。 古い張り紙で「故障はこちらへ」と書いてあったので、後輩はなんとなく受話器をあげ、いたずら半分でかけたそうです。 どうやら「電電公社」時代の番号だったそうですが… すると、聞こえるはずの無いコール音が聞こえました。 そして、何回かのコール音のあと、誰か男が出たというのです。そして、こう言われました。 「あんた、掛けちゃ駄目!」 そして切れました。 後輩はもう一度かけてみようとしたそうですが、その後はナニをやっても電話がつながることはなかったそうです。
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