山中御殿

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池田屋事件

先日のNHK大河ドラマ「八重の桜」は、池田屋事件を扱っていました。
幕末モノドラマの、ひとつの山場というか、見せ場というか、ですねぇ。
 
 
さて、池田屋事件とは、元治元年六月五日(1864年7月8日)、京都三条木屋町の旅館・池田屋で集会をしていた長州藩・土佐藩をはじめとする尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した事件。
言わずと知れた、新選組の名を一躍世に知らしめた事件です。
歴史がこの池田屋事件を機に、大きく動き出したのはこれまた周知の事実。
 
 
「八重の桜」では、池田屋事件は新選組の暴走によって起こされたものだ、という描き方をしていました。
まず、桝屋の主人喜右衛門こと古高俊太郎を捕縛した新選組は、その古高より、尊王攘夷志士たちによる洛中放火計画を察知、会津藩に報告します。驚愕する会津藩の面々。
これを受けて会津藩主・松平容保は、京都守護職として諸藩に出兵を命じます。公用方の秋月悌次郎は、いたずらに志士たちを刺激することを恐れ、諸藩で足並みをそろえて包囲の上、投降を勧める策を献じますが、新選組は会津藩の指示に従わず暴走し、池田屋を急襲して志士たちを惨殺してしまったのです…
 
まぁそういうかんじで、このドラマでは池田屋事件を、ひいては新選組をも否定的に扱っているように見えます。
新選組に対する評価はこれからの描き方を見ないとまだなんとも言えませんが、とりあえず言えるのは……
 
…村上淳ではないな、土方は(笑)。老けすぎだし、ゴツすぎ。実際の土方歳三の写真とは似ても似つかないなぁ…
神尾佑の近藤勇はなんだか影が薄いし、降谷健志の斎藤一はどうも、こう、怪しすぎ(苦笑)
 
 
ドラマでは新選組の暴走が描かれていたわけですが、実際のところはどうなんでしょう?
 
まず、古高捕縛は事実。そして古高の口から洛中放火計画を得、会津藩に報告したのも事実ですが…
実は、洛中放火計画は以前から噂されていて、古高捕縛によってはじめて明るみに出たものではないのです。したがって、この計画を聞いて会津藩の面々が驚愕したというのは本来ありえない事。
ちなみに、長州ら尊王攘夷派の側には洛中放火計画に関する記録はなく、幕府側の記録にあるだけ。長州の桂小五郎が同志に宛てた書簡には放火計画を「虚説」としているものも存在するそうです。したがって、これは長州はじめ尊王攘夷派のイメージダウンを狙ったデマだった、という見解もあるそうな。
 
ただ、古高の桝屋から武器弾薬が押収されたのは事実のようで、「やっぱり放火計画はあった」という見解ももちろんあります。
 
しかし、当時在京中の土佐人の書信に「浪士申合の事」とされるものがあるそうで、これによれば、志士たちが焼き討ちを考えていたのは壬生の新選組屯所であった、というのです。計画では、この騒動に乗じて伝奏議奏へ願い出、長州の京都復帰を約させ、これがなれば中川宮を幽閉・会津にかわって長州が京都守護職となり、朝議を操って将軍に命じ、攘夷を決行する…というもの。古高のが自白したものも新選組の屯所の焼き討ちだったとすると、新選組は会津藩に対して危機を誇張して報告したことになります。
  
さて、事件の流れですが、会津藩は夜五ツ(21時頃)を集合時間と定めて出動を命じましたが、諸藩の動きが遅れ、実際に出動したのは夜四ツ(22時半頃)でした。
新選組はといえば、約束の時刻になっても諸藩が動かないのでしびれを切らして出動……ではなく、七ツ〜六ツ半(17時頃〜20時半頃)にはすでに御用改めをしている姿が目撃されているので、かなりフライングで動きはじめていたようです。
よく言われるのは、新選組は池田屋と四国屋の二手に分かれて出動した、ということですが、実際には志士たちの会合がどこで行われているのかは新選組も把握しておらず、新選組は会津藩の指示に従って、三手(近藤勇隊10人、土方歳三隊12人、井上源三郎隊12人)に分かれてローラー作戦で会合場所を探索していったようです。諸藩の兵も、出動後は同様にローラー作戦で探索を開始しています。ドラマのように陣を張って悠長に待っていたわけではありません。
 
そしてドラマでは、池田屋に到着した新選組は問答無用で志士たちとの斬りあいにのぞみ、斬り捨てていったように描かれていますが、新選組は少人数での突入となってしまったがために志士たちを捕縛できず、やむを得ず斬りあいとなった、というのが正解でしょう。
新選組が諸藩との集合時間を守って動いていたとしても、池田屋に行き当たったのが新選組であれば、やはり同じ結果となったと思うのです。
 
 
最後に、沖田総司の喀血について。
よく沖田が池田屋で労咳(肺結核)のために喀血し、昏倒したと言われます。「八重の桜」でも同様のシーンがありました。
しかし当時の人は、喀血するほど結核が悪化していた場合、1年そこそこで死んでしまう事が多いのです。直後の禁門の変をはじめ、その後も普通に活動がみられる沖田が、この時点で血を吐いたとは考えにくいと思いませんか?
沖田総司が周囲の人々からも認識されるほど病状を悪化させたのは、書簡や手記などの記録によると慶応3年(1867)ごろからであって、池田屋事件の3年も後です。この前年に松本良順が新選組隊士たちを診察したおり、労咳と診断された隊士がいましたが、あるいはこれが沖田であったのかもしれません。
 
池田屋での沖田の昏倒については、永倉新八の「新選組顛末記」に記されているのが最初だと思われますが、これはただ単に「昏倒」とあるだけで、喀血という記述はありません。猛暑のなかでの戦闘による熱中症等によるものか、あるいは別の病に起因するものかはわかりませんが、仮に労咳を患っていたとしても、すくなくとも周囲が気づき得るほど病状が悪化してはいない、つまり喀血するほどではなかった、と考えたほうが自然であると思われます。

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