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「真田丸」とはご存知の通り、大坂冬の陣(1614年)で豊臣方の武将、真田信繁(幸村)が大阪城の南に築いた出城のことだ。
この真田丸の絵図は、今年7月に松江市で新たに見つかったもの。
「大坂 真田丸」と書かれたこの絵図は縦27.8センチ、横40.6センチほどの大きさで、松江市の男性が1953年に市に寄贈した絵画集「極秘諸国城図」(74枚)のうちの1枚という。絵画集を保管する博物館「松江歴史館」が今年2月に別の城を調査する過程で、絵図を確認した際、真田丸の絵図を発見したとのことだ。
絵画集の包み紙には作製時期を示すとみられる「元禄」(1688年-1704年)の文字が書かれていたということなので、これが事実であれば、これまで最も古い絵図とされていた、広島市立中央図書館所蔵の「摂津 真田丸」(1753年)よりも古いことになる。
右が「摂津 真田丸」絵図。 見比べてみると、全体的によく似ているが、異なる部分もいくつかある。
まず、「大阪 真田丸」絵図は「摂津 真田丸」と異なり、南側にある堀を「惣構(そうがまえ)堀」と記載している。
また、南側の堀に下るスロープ状の傾斜路や、周囲の崖の外側に堀が回り込む構造など、細部も記されている。
そして絵図の北側には「出丸 廿五(二十五)間程」と記載があり、さらに出丸の東側には側面を防御する「腰曲輪(こしぐるわ)」も描かれている。
この腰曲輪は「摂津 真田丸」には描かれておらず、「摂津 真田丸」の北側にあった小さな曲輪は、しっかりと防御性を持たせた出城だったことも推測できる。
この北側の出城の意味はいろいろ考えられる。
万が一真田丸の主郭が陥落した際に、この出城に籠って抗戦するためのもの。また、北側に敵が侵入した際に、北に位置する大阪城本城と連携して攻撃するためのもの、などだ。
これらを見るに、真田丸が独立性の強い出城であったように思われる。
いずれにせよ、大河ドラマ「真田丸」も好調であることもあり、このあらたに見つかった「大阪 真田丸」絵図は注目が集まることは必至だろう。
しかし、どうも松江市はアピール下手。せっかくいい材料があるのに、絵図が現在公開中であるという情報がどうもいきわたっているように思えない。
松平直政が真田信繁から投げ与えられたという「軍扇」の存在もしかり、もっとアピールすべきだ。
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2016年09月22日
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