山中御殿

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歴史人物列伝

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久々の「幕末人物帖」です。
2回目くらいから、『龍馬伝』に登場する人物を毎週ピックアップしていこうと構想してましたが、まぁムリでした(苦笑)。

さて今回は、『龍馬伝』でいよいよ暗殺者と化していく「人斬り以蔵」こと岡田以蔵をとりあげてみることにします。


【岡田 以蔵】(おかだ いぞう)(1838-1865)


「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡る空」

いきなりですが、これは岡田以蔵の辞世の句だとされています。
岡田以蔵は、「人斬り以蔵」と呼ばれ、幕末の四大人斬りのひとりに数えられた人物。
この辞世の句が、「人斬り」のふたつ名の持つ残忍なイメージとは、どうにも重ならないと思うのは、私だけでしょうか?
さらに以蔵は、浅学で粗野であったとされますが、この句からは教養と気品さえうかがえるように思えるのです。

●以蔵は足軽か

岡田以蔵は、土佐国は香美郡岩村(現・南国市)に郷士・岡田義平の長男として生まれました。諱は宜振(よしふる)といいます。
啓吉という弟がいて、のちに以蔵ともども武市半平太の土佐勤王党に加盟しています。

嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために、父・義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになります。
以蔵は父・義平からこの足軽の身分を受け継いだとされています。

土佐の身分制度では武士は上士と下士に大別されますが、郷士も足軽も下士にあたる身分です。
足軽は郷士より低い身分とされていますから、郷士である義平がわざわざ足軽の身分となり、それを長男である以蔵に継承させたというのは奇妙に思えます。そのため、以蔵が足軽を継承したというのは誤りではないかといわれています。

しかし足軽は上士との接触が多く、なにがしかの役付きに抜擢される例もあったため、義平がそれを狙って以蔵に足軽身分を継がせたのだ、という考えもあるようです。

以蔵は七軒町に住んだことから「七以」と軽蔑的に呼ばれていたことは田内恵吉(武市半平太の実弟)などの書簡から事実であり、抜擢を期待したのかどうかはともかく、やはり以蔵は足軽身分であったと考えるべきでしょう。
土佐は上士・下士の身分差別が厳しかったのはよく知られていますが、同じ下士のなかでも以蔵は差別を受ける立場だったのです。

●武市半平太と「人斬り以蔵」

そんな低い身分にあっては、立身するには自分をみがくしかないと考えたのか、以蔵は我流で剣の腕を磨いたと言われています。
その後、武市半平太に師事し小野派一刀流剣術を学びますますその腕にみがきをかけ、師である半平太からも一目置かれる存在となったようです。

安政3年(1856年)9月、武市半平太は剣術修行のために江戸に出ますが、以蔵は半平太の従者として同行を許され、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学びました。
また万延元年(1860年)には、半平太に随行して中国・九州で武術修行をしています。

その後、半平太は土佐勤王党を結成しましたが、以蔵も当然これに加盟しました。
半平太は土佐勤皇党を率い藩主を奉じて上洛、勤皇活動に邁進します。

以蔵はそんな半平太の指示のもと、土佐藩の下横目・井上佐一郎(半平太が暗殺させた土佐藩参政・吉田東洋暗殺の下手人を探偵していた)を皮きりに、半平太にとって邪魔な人物を次々と天誅と称して暗殺しました。
世間からは「人斬り以蔵」と呼ばれ、薩摩の田中新兵衛と共に恐れられたのです。

●以蔵の最期

ところが八月十八日の政変がおこり、勤王党は失速、半平太は土佐に戻りました。

しかし以蔵は土佐には戻らず、土井鉄蔵と名を変えて一人京都に潜伏しましたが、元治元年(1864年)6月頃、幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛を追放されたうえ、土佐藩吏に捕われ国元へ搬送されてしまいます。

土佐藩では、土佐勤王党の党員がことごとく捕らえられ、吉田東洋暗殺や京洛における一連の暗殺について、厳しい拷問を受けていました。
以蔵も例外ではなく、連日厳しい拷問を受けることになります。

以蔵が捕縛されたと知った半平太は、実家への手紙で「あのような安方(あほう)は早々と死んでくれれば良いのに、おめおめと国許へ戻って来て、親がさぞかし嘆くであろう」と書いています。
師として慕い、その手足となって暗殺という汚れ仕事をやってのけた以蔵に対し、これはあまりにもひどい言いようです…

半平太がこのように以蔵を冷遇した理由は、まぁ半平太自身に聞いてみないとわかりませんが、次のような理由がよく挙げられているようです。

1)以蔵が他の同志より身分が低く、教養が無いことに、差別的感情をもった。
2)以蔵が手がけた数々の暗殺が露見することにより、他の同志に累が及ぶ危機感を感じた。
3)以蔵が捕縛前に自刃してしまえばその露見が防げるにも拘らず、それを行わなかったことに対し怒りを覚えた。
4)“尊王攘夷・倒幕”を旨とする土佐勤王党に属しながら、“開国派・幕臣”の勝海舟らの護衛を行うなどしたことにより“剣術こそ強いが確固たる思想・信念を持たぬ者”として軽蔑した。

ともかく半平太は、以蔵の自白によって他の同志が危険に晒されるのを恐れ、自分に心酔した牢役人を通じて以蔵に毒を盛ろうとしたと言われています。
このとき以蔵は毒を飲んだものの死なず、半平太の仕打ちに怒って全てを自白したとされていますが、一方で半平太が毒殺を以蔵の家族に打診したものの強行に反対されたため、思いとどまったという話もあります。

どちらにせよ、以蔵は厳しい拷問によく耐えたものの、最後には要人暗殺について自白、慶応元年(1865年)5月11日に打ち首、晒し首となったのです。

●以蔵の人物

以蔵は性格が粗く、酒色を好んで同志からも疎まれていたとされています。
ただこれは、以蔵が足軽身分であるゆえに、同志たちから差別を受け、ために同志との折り合いが悪くなったとも解釈できます。
酒色に溺れたのも、このような現実からの逃避であったのかもしれません。
どちらにせよ、心の弱いところがあったのでしょう。

また、以蔵は浅学であるというのが一般的な解釈です。
が、実は以蔵は半平太の秘書的な役割も果たしていたと思われるフシがある、と何かで読んだ記憶があります。なんだったかわすれちゃいましたので、確かなことはいえませんが(苦笑)
ただ、これが事実であるとすれば、冒頭の辞世の句も納得できます。

さらに、先にちらっと触れましたが、八月十八日の政変以前に以蔵は坂本竜馬の仲介で勝海舟やジョン万次郎などの幕臣の護衛を行った、という話があります。
以蔵はこの時期から半平太をはじめ土佐勤皇党の仲間から孤立していったようですが、ひょっとすると、孤立したがために自ら勤皇党と距離を置き、幕臣の護衛を引き受けたのかもしれません。
そして、もし以蔵が教養豊かな人物であったとすれば、勝海舟やジョン万次郎から先進的な考えを学び取ったのかもしれません。ために、盲目的な攘夷を叫ぶ土佐勤皇党の仲間とは、ますます相容れなくなっていったとも考えられます。

このまま竜馬とともに勝海舟についていけば死なずにすんだかもしれませんが、以蔵はそれをしませんでした。
どうも、以蔵は師である半平太にヘンなところが似ていて、律義者だったという印象を受けます。

強い心を持たないのに律儀すぎた。以蔵の悲劇は、すべてここにあるような気がします。

坂本龍馬はメタボ? ケータイ投稿記事

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昨日、第1部が終了してますます目がはなせない大河ドラマ『龍馬伝』。

その主人公は当然ながら坂本龍馬です。


この坂本龍馬。

一般に「大男であった」といわれています。
しかし、実際のところどのくらいの身長・体重があったのでしょう?


現在残る着衣や、写真から推定すると…

身長:約173cm
体重:約80kg

……だそうです。


思ったより身長が低い気もしますね。
しかし、当時の一般な男性は160cmもあれば背が高いほうだそうなので、173cmは大男です。


が、それより気になるのは、体重のほう。

80kgですよ!?

173cmの身長なら67kgくらいが標準体重かな。
これが80kgだったらけっこうメタボちゃんですね〜。


ちなみに『龍馬伝』で坂本龍馬を演じる福山雅治さんは、身長180cm、体重71kgだそうです。

現在の感覚では、身長180cmは大男。
このへんは的を得てますね。
しかし、体重まで忠実に再現しようとすれば、90〜95kgくらいは必要かなー!

ぜひ、ましゃ兄には役作りのためにあと20kg増量してもらいたいものです(笑)

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昨年のNHK大河ドラマ『天地人』はかなり残念なカンジだったのですが、今年の大河『龍馬伝』はなかなか面白いですねー。
毎回楽しみに見ています。

面白いのですが、正直僕のイメージと違うなあ、という人物もいます。
以前に紹介した、龍馬の友人であった平井収二郎がそうですし、同じく龍馬の友であった武市半平太もそう。
ふたりとも、なんだか血の気が多すぎるんですよね……

で、今回はその武市半平太を紹介します。



【武市半平太】(たけち・はんぺいた)(1829〜1865)

武市半平太は、土佐潘の下士の中では最上位に位置する白札という身分の出身です。
以前にも紹介したように、土佐藩士は上士、下士とにわかれ、上士・下士の間には厳しい差別がありました。
その中で白札とは、身分としては下士(郷士)ですが、その当主は上士の待遇を与えられるという身分です。

また、半平太の妻・富子の実家島村家は、坂本龍馬の父・八平の実家・山本家(八平は養子として坂本家にはいった)と親戚であり、その意味で半平太と龍馬は遠縁の親戚にあたります。

さて、半平太は若年より文武に秀で、自身が道場を開いていました。
この道場には中岡慎太郎や岡田以蔵などの人物がおり、後の土佐勤王党の母体となります。

土佐勤王党とは、その名のとおり勤王を掲げて活動する政治結社で、半平太が党主となり政治活動を行いました。
半平太はその圧倒的なカリスマ性で下士を中心に200名近い血判加盟者を組織し、この力を背景に、下士でありながら土佐一藩を動かすのです。
半平太は、組織力こそが現実の政治を動かす有効な武器であることをよく知っていて、それを有効に活用できるだけの才能があったわけです。

一般に、半平太は攘夷に凝り固まった思想の持ち主であり、先進的な考えを持たなかったとされています。
『龍馬伝』劇中でも、攘夷を叫ぶ半平太に対し、土佐参政の吉田東洋が「アメリカ国は広大な海を越えて日本にたどり着いた。日本はそれができない。この一事を見ただけでも彼我の力の差は明らか」として攘夷の愚を説いています。
しかし半平太は下士という身分のせいで意見が採られないのだと、ますます攘夷に凝り固まるのですが……
これはドラマの話ではありますが、実際の半平太もおそらくは攘夷の急先鋒であったのだとは思います。
現在の感覚からすれば吉田東洋の意見が合理的で当たり前な考えですが、半平太は会話の中で「天皇」という単語が出るだけで涙ぐんだといわれるほどの激越な勤王家。
「尊皇」イコール「攘夷」であった当時、半平太に合理的な分析力があったとしても、攘夷の思想を変えることはなかったのではないかと思います。

実際に、半平太は合理的な考えの持ち主です。
組織力が政治に及ぼす影響を熟知していたのは土佐勤王党の結成・運営を見れば明らかですが、半平太はさらに、諸藩の連合による政治形態を志向していたのです。これにより土佐一藩のみならず、日本の政治を動かすことを考えていたわけです。
実際にその構想を実現させるために薩摩、長州、水戸などの諸藩有志と交わり、藩主を説得して上洛してからは諸藩のなかで主導的な役割を担おうと活動しています。

しかし、八・一八の政変により京の時流は公武合体へと一変、半平太にも帰藩命令が下ります。
帰藩した半平太は投獄され、切腹させられたのです。

半平太は土佐藩の前藩主・山内容堂を盲信していて、また「藩」という枠組みから抜けきることができなかった、遅れた男だという評価もあります。
一面、これは真実かもしれません。
が、半平太の政治構想は諸藩による連合政権の構築で、土佐藩という枠組みなくしてこの構想は有り得ません。
諸藩連合政権の確立がなければ日本は危うくなると考えた半平太は、一命を賭して一藩勤王を堅持しようとした、とも考えられるのです。

さて、僕の中で半平太は勤勉であり、常に冷静沈着というイメージがあります。まぁこのイメージは多分に司馬遼太郎の「龍馬が行く」の影響があるんですが……
後年、土佐藩の佐々木高行は半平太について、「武市はごく渋い男で、背は高く眼光人を射るような、いわゆる丈夫らしい人物だった」と言っています。
これをみても、どちらかといえば論理的に語る半平太像は伺えますが、語気荒い半平太像はあまり想像できません。
噛付くような勢いで声高に攘夷を叫ぶような、ドラマ『龍馬伝』の半平太像とは重ならないんですよね。

とはいえ、まだドラマははじまったばかり。今後の展開をみて評価を決めていきましょう。

昨日は聖バレンティヌスにちなむバレンタインデーでしたな。
聖バレンティヌスはローマ皇帝が禁じた兵士の結婚を祝福したために処刑された人物だそうで、そのために「恋人たちの守護聖人」とされているのだとか。
まぁ今回の記事とはなんの関係もないですが(笑)

さて今回は、坂本龍馬が修行した千葉定吉道場の若先生、千葉重太郎をとりあげてみましょう。

【千葉重太郎】(ちば じゅうたろう)1824〜1885

千葉重太郎、諱は一胤(かずたね)。
父は、坂本龍馬が剣術修行したことで知られる桶町千葉道場の道場主・千葉定吉です。
ということは、当然ながら北辰一刀流の剣客です。

では、重太郎の剣の腕前はというと、さほどでもなかったという説もあり、いやいやそうではなくて相当なものだったなどとする説もあり、まぁイロイロ言われているようです。

本当のところはどうなのかは分かりませんが、嘉永6年(1853年)に父・定吉が鳥取藩の剣術師範に就任して鳥取藩江戸屋敷詰となり、道場は重太郎に一任されています。
定吉の立場になって考えれば、わが子とはいえそれなりの腕前がなくては道場を任せたりはしないでしょう。
師範に実力がなければ門人に侮られ、道場は繁盛しません。本家筋にあたる玄武館道場が千葉道三郎の代になって衰退した例もあり、師範の実力が道場の盛衰に直結する時代であったということは間違いありません。
しかるに千葉道場は繁盛していますから、重太郎の実力は推して知るべし、ですね。

ドラマ『龍馬伝』では定吉がけっこう道場に出て来てますが、坂本龍馬が千葉道場に入門したときは、上記のような理由で道場は重太郎に任されており、龍馬に剣術指南をしたのは主に重太郎であったと考えられます。
まぁ、ドラマでも実際に門人に剣術を指導するシーンはほとんど重太郎でしたから、そのへんきちんと考証してあるのかも?

その後、万延元年(1860年)には重太郎自身も鳥取藩に仕官しました。
千葉道場のこともあるので、江戸詰めの藩士です。

そして、重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わる中で、勝海舟の開国論に反感を抱くようになったとされています。
当時は攘夷(外国勢力の排斥)思想が常識で、さらに千葉道場には尊皇攘夷をとなえる若い門人たちが多く集ったことから、重太郎もそれに感化されていたのかもしれません。

そして文久2年(1862年)、重太郎は龍馬を伴い勝邸を訪れ、これを暗殺しようとしたといわれています。
とけろが、肝心の龍馬が勝海舟に感化されてしまい、重太郎を止めたために暗殺は失敗におわります。

ともあれ、理由はどうあれ重太郎は坂本龍馬と勝海舟を引き合わせたことになります。
これによって龍馬は開眼し、維新回天へと突進むことになります。

さて、その後の重太郎はというと、後年の戊辰戦争で鳥取藩の歩兵頭として一隊を率いて出陣、活躍します。
維新後は鳥取県・北海道開拓使・京都府の官吏などの職を歴任、活躍しています。


ちなみに、重太郎の門人であり友人でもあり、妹さな子の許婚でもあった坂本龍馬。
彼が千葉道場で得た武芸目録は「長刀目録」です。つまり、ナギナタですね。剣術ではないのです。
現存する目録はこれだけなので龍馬の剣術の腕前は実際には分かりませんが、剣術の腕も確かで皆伝を受けていたが、目録は幕末の混乱で散逸したのだ、とも言われています。

事実はわかりませんが、龍馬は剣術道場の娘の許婚といわれたほどの男、やはりそれ相応の腕前はあったと考えていいかと思います。

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このシリーズも3回目を迎えることができました。
このまま続けていきたいもんですねぇ。
過去2回とも土佐藩士だったので、今回は目先を変えて、土佐藩士以外の人物から……ここはひとつ、ペリーをとりあげてみましょう(←いきなり外国人かい)。

ペリーといえば、黒船で来航し、日本に開国を迫った人物として知られていますが、それ以外のことは知らない人が多いのでは?
かくいう僕もほとんど知らないので、少し調べてみました。


【マシュー・ペリー】(1794〜1858)

マシュー・ペリーは、日本に小艦隊を率いて来航したことから分かるとおり、アメリカ海軍の軍人です。

このペリーの父クリストファーは私掠船の船長でした。私掠船というのは、戦争状態にある敵国籍の船舶を攻撃し、船舶および積荷を奪うことを許可された船のことで、言ってみれば公認の海賊みたいなものです。
この父の影響を受けたのか、ペリーの二人の兄、クリストファーとオリバーは二人とも海軍に入隊しています。
そして、ペリー自身も1809年に海軍にはいったのです。

とくに次兄オリバーは米英戦争中(1812〜1814)、エリー湖の戦い(1813)においてイギリス軍を打ち破った英雄だそうです。
米英戦争がどういう戦争だったのかは、本題からはズレるのでここでは触れませんが、とにかくペリーには偉大な兄がいた、というわけです。
では、ペリー自身は軍人としてどうだったのでしょうか?

ペリーは、1812年からはじまる米英戦争に、二人の兄とともに参加します。
その後、1833年、ペリーはブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にはアメリカ海軍初の蒸気船を建造します。
そして同年には海軍大佐に昇進、1841年にはブルックリン海軍工廠の司令官となっています。
以後ペリーは、蒸気船を主力とする海軍の強化策を推し進め、同時に士官教育にも熱心に取り組みました。

このように順調に出世しているところからみると、その手腕は確かなものだったのではないでしょうか。
また、蒸気船の配備を推し進めたことから「蒸気船海軍の父」と呼ばれるようになり、軍人教育に熱心だったこともかなり評価されたようです。

さて、1852年、ペリーは東インド艦隊司令官に就任、日本に開国を迫る任務を与えられます。
4隻の小艦隊を編成し、この年11月にバージニア州ノーフォークを出航したペリーは、翌年7月、浦賀に入港します。有名な「黒船来航」です。

この任務に際し、ペリーは事前に日本について研究して、「日本人は自分たちが世界一優秀な民族だと自負しているので、その鼻をへし折るような交渉の仕方が効果的だ」と判断したとか。
また、浦賀来航のさいに幕府に二本の旗を贈ったといわれていますが、一説にはこの旗は白旗で、「降伏か、開国か」を恫喝的に迫った、とされています。
こうした話からペリーの交渉態度は「砲艦外交」と称されますが、これらの話が真実であったかどうかは不明で、またフィルモア大統領からは砲撃は禁止されていました。
ともかく、この事件をきっかけに日本は幕末の動乱期にはいっていきます。

このときの幕府のあわてふためく様を皮肉って「太平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれたとされます。
「上喜撰」とは上等な日本茶のことで、覚醒効果が高いとされていました。
これを「蒸気船」とかけたわけですが、実際には来航したペリーの4隻の船のうち、蒸気船は2隻で、ほか2隻は帆船でした。

幕末の外国船舶といえば蒸気船、というイメージがありますが(僕だけ?)、じつは当時まだまだ帆船が現役で働いていたわけですね。
ペリーが蒸気船(外輪式フリゲート)2隻を小艦隊に組み込んだのは、日本にアメリカの進んだ文明を誇示する狙いももちろんあったのでしょうが、むしろアメリカ国内にその性能を示し、有用性を証明するのが主目的だったのだそうです。

ちなみにフリゲートとは、駆逐艦や巡洋艦などの戦列艦よりも小型・高速で、戦闘任務のほかにも哨戒、護衛などの任務をこなす軍艦のことを指します。

まぁともかく、このとき幕府は返答を保留したため、翌年ふたたびペリーは来航(このときは7隻の軍艦で艦隊を編成)、3月に横浜で日米和親条約を調印して任務を全う、7月には那覇に寄航して琉球王国とも琉米修好条約を締結しています。

帰国後は遠征記などを記し、1858年ニューヨークで死去しました。

ちなみに、晩年のペリーはヅラをかぶっていたそうです。
また、ペリーの威張った態度や、声が熊のような大声であったことから、「熊オヤジ」とあだ名されていたとか。
でも、熊の声って聞いたこと無いけど、どんな声なんでしょうねぇ??

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