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米子城の麓部にある湊山公園は、桜の季節の度によく行くのですが、米子城の本丸跡まで登ったのは高校生の時以来、20年ぶり以上になるのかな?
10年くらい前に登ったような気もしなくもないけども、そうならこのブログに記事をアップしているはずなので、とくに記録に残っていないことからして、やはり20年ぶりくらいなのでしょう。
と、いうわけで久しぶりに史跡について、一筆書いてみようと思います。
【名称】米子城 【別名】久米城、湊山金城 【所在地】鳥取県米子市久米町
【遺構】土塁、石垣、礎石跡、天守台、井戸跡など
【形式】山城(総石垣近世城郭) 【築城者】山名氏か 【築城年代】文明2年(1470)頃
今回は、山麓部、湊山公園の駐車場に車を止め、駐車場にほど近い登城路から山頂を目指しました。
いま現在駐車場や公園になっている部分は往時は中海の一部で、今回の登城口は船着き場があったところだそうです。
城主は船着き場からをくぐり、入城することもあったとか。また、付近には清涼な湧き水がわくところがあり、お茶を点てるときにつかわれていたという話もあります。
登城口からいきなりけっこう急斜面ですが、ちょっと上ると道が二股に分かれています。一方は二の丸跡へ続く下り道、一方は山頂部へと続く道。
本当は二の丸跡も見てたいところでしたが、そんなに時間がなかったのでとりあえず本丸を目指しました。
ちなみに、二の丸に御殿跡があって、城主の普段の生活の場だったようです。二の丸からさらに下ると大型の枡形小口が見られます。ここが大手口だったのでしょう。こちらは国道9号線からも見ることができます。
「内膳丸」はすぐ近くのようなので、ちょっと寄り道(右写真)。
けっこう広い郭跡で、樹木がなければ中海を見渡せるけっこう眺望の良いところであったものと思われます。
二重櫓数棟と武器庫が設置されていたそうです。
名前の由来は、中村一忠の家老である横田内膳正村詮が担当して構築したことによるそうです。
ちなみにこの横田村詮という人物、もともとは阿波三好氏の一族だったようですが、中村一忠・一氏父子に仕え、一忠亡き後は幼少の一氏を支えて現在の米子城を完成させ、また米子城下町の整備を行って現在の米子の町の礎を築いた人物です。
ところが、彼の政治手腕を妬む他の家臣のたくらみにより、暗殺されてしまいました。なんとも惜しいことです…
写真では少しわかりにくいですが、むかって左に小さな天守台、右側に大きめの天守台があります。
左の写真は山頂部にあった絵図ですが、絵図のように米子城には大小ふたつの天守があったようです。
大天守は、慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦の論功行賞で入場した中村氏の時代に建てられたもので、独立式望楼型4重5階の天守だったようです。
一方の小天守は、それ以前に出雲・伯耆を領していた吉川広家が作ったもので、独立式望楼型3重4階の建物。吉川広家は関ケ原当時、米子城を整備途中で、中村氏は、この広家の事業を継続する形で米子城を完成させました。新たに建てた大天守が完成後も、広家の小天守は「四重櫓」と呼んでそのまま残したようです。
現在残っていれば、国宝間違いなし、山陰観光の目玉になっていたであろうに…「鷹の爪団のSHIROZEME!」だって、米子城で開催されてただろうに…
まぁ、それはともかく、右の写真のように山頂天守台からの眺望は抜群で、往時に思いをはせることができます。
なお、米子城はもともと現在の国道9号線の南側、飯山に築かれた砦がもとになっているといわれています。
『出雲私史』によれば応仁・文明の乱のとき、尼子清貞が出雲に侵入してきた伯耆山名氏の軍勢を打ち払い、追撃したため米子に城を築き、そこに籠ったとされています。
戦国時代、引き続き飯山のこの砦が整備され、尼子氏などにより支配されてきましたが、やがて尼子氏が敗れて毛利氏の支配下にはいります。さらに豊臣秀吉の天下統一がなると、出雲・伯耆を拝領した吉川広家が、支配の拠点を出雲月山富田城からこの米子城に移すことにして整備をはじめますが、このとき国道9号線北側の湊山に主郭を移しました。
続く中村氏によって湊山の米子城が現在の形に整備され、飯山の旧米子城もそのまま湊山に対する出丸として、使用されたようです。
今日は、地元の有志(と思われる)の方々が本丸周辺の雑草を刈っておられました。登っていくと、みなさん気さくに挨拶してくださいました。
それだけ、地元の方に大切にされている場所なんだなぁ、と改めて感じた次第です。
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史跡探訪
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社殿を取り囲むように、小さな狐がいっぱい並んでいます。 見てまわっていたら、その中にカラス天狗っぽいのがまぎれているのに気付きました。 これはいったい何故? |

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このさい、さくらをつれてウン十年ぶりに天守にのぼりました。 子どものころにはさほど興味を持たなかった城内の展示物も、改めて見るとなかなかおもしろそうなものがありましたが……なんせさくら連れではゆっくり見る事もできず…… ま、またいずれ、ゆっくり見る事にしましょう。 さて、松江城本丸、天守のやや東南の隅に、「祈祷櫓」と呼ばれる櫓があったそうで、案内板が設置してありました。 この櫓跡にはもともと荒神を祭る塚があり、それを他所に移して櫓を作ったそうですが、櫓直下の石垣が度々崩れる怪異があったため、毎年この櫓で荒神を鎮める祈祷が行なわれるようになったそうです。「祈祷櫓」の名前はこれに由来するんですね。 また、この櫓に関連して面白い伝説があります。 京極氏が一代で断絶したあと、信州から松江に入った松平直政が、はじめて天守にのぼったときのエピソードです。 直政が天守最上階の「天狗の間」にはいると、怪しい白い人影が現れました。 人影は美しい女でしたが、鬼のような形相で直政を睨むとこう言ったそうです。 「この城は私のものだ!」 これを聞いた直政が、即座に 「あいわかった。それでは明日、このしろをそなたにくれてやろう」 と言うと、女はスーッと消えてしまったそうです。 直政は「コノシロ(魚の名前。幼魚はシンコ、コハダなどと呼ばれ、酢漬けなどにして食用とされる)」を用意させると三宝に置いて天狗の間に供えました。 翌日、直政が天狗の間にはいるとコノシロを載せた三宝はどこにもありません。 家臣たちに探させると、三宝が祈祷櫓で見つかったそうです。 この女は、築城のさいにムリヤリ人柱にされた女の霊だったのだ、と噂になりましたが、その後二度と現れる事はなかったそうです。 この話は松平直政の機転を示すエピソードとして語り継がれたそうです。 が、僕がこの女幽霊なら…… 「つまんねー駄洒落で誤魔化せるとでも思ってんのか、ゴルァッ!さっさと城をよこさんかい!」 ってキレますね。 まぁ、魚はありがたくもらっときますが(笑)。 |

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宮島といえば、鹿。 さくらが鹿に対してどんな反応を示すのか楽しみだったんですが、思いのほか怖がらず…… ちょっと残念(笑)。 また、宮島といえば厳島神社。 この神社は安芸一宮とされ、祭神は宗像三女神。 この三女神は古くから航海の神とされています。 そう考えてみると、なるほど、満潮時には水上に浮かぶように建つ社殿は、海神の宮にふさわしいですね。 しかしおそらくは、もともとは宮島という島そのものが神として崇められていたのでしょう。 この付近を航行する船はこの島を目印に航海を行い、自然と「神」として島が神聖視された。そして、やがて社殿が造営されたときに航海に関係の深い神がまつられるようになった、と考えるのが正解かもしれません。 さらに宮島といえば、戦国時代に「厳島の戦い」という西国の勢力図を塗り替える一大決戦が行われた地でもあります。 この「厳島の戦い」は、陶晴賢と毛利元就が戦った戦いです。 陶晴賢とは、周防の大名・大内氏の有力家臣。 大内氏は当時、今の山口県全域を基本領国として、石見西部、九州北部にかけて勢力をもった強大な大名でした。 晴賢は、大内氏の当主であった大内義隆を自害に追い込んで九州の大友氏から当主として大内義長をむかえ、大内氏の実権を握った人物です。 対して毛利元就は、後に中国地方のほぼ全域を支配する大大名になる人物です。 しかし、この当時は安芸・備後で勢力を拡大しつつあったとはいえ、まだまだいち国人領主でした。 『陰徳太平記』などの軍記によれば、陶軍は毛利元就の流した偽情報に惑わされて狭い島内に大軍を集結、そこを毛利軍が急襲したため、陶軍は大軍を生かす事ができずに壊滅した、とされています。 軍記のいうことなので実際の戦闘がどのようなものであったのか定かではないですが、陶晴賢がこの戦いで命を落とし、大内氏は一気に凋落したのは事実。 陶晴賢を失った大内氏は、毛利元就の侵攻を受けてあっけなく滅んでしまいました。 しかし… 宮島は、みるからに山がちな島で、とても大軍が展開できるような余地があるようには、どう素人目に見たってみえません。 「西国無双の侍大将、智も勇も人に越え」ると賞されたほどの陶晴賢が、はたして軍記に描かれているような愚を本当におかしたんでしょうか? 「厳島の戦い」の真相は、ぜんぜんちがうものだったのではないか……と、思えてなりません。 |

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戦国時代の民衆が戦争を前にいかにして財産を守ったかということを、城と民衆との関わりを主軸に解説したもので、なかなか面白かったです。 この本を読むまで僕の中では、城と言えばその地方の軍事拠点・政庁であり、権力者のためのものというイメージがありました。 ところがこの本によれば、洋の東西を問わず城には民衆の避難所が設けてあり、いざ戦争がおこると城主は民衆を城内に匿い、そのかわり、民衆は城主に対して労働力や金銭などを税として納めたのだそうです。 日本の場合も、相模の後北条氏の例では城内に避難所が用意してあり、民衆は戦時には城内に避難できるようになっていたようです。 そしてかわりに、民衆は城の修繕・改修の責務を負ったというのです。 民衆の避難所という観点で城をみた事がなかったので、この話は意外でした。 残念ながら具体例は北条氏の城しかありませんでしたが、北条氏の支配領域ではこのような城と民衆との関係は普遍的なものであったようです。 ところで、城といえば堅固な石垣で作られたものを思い浮かべがちですが、実は石垣が普及したのは戦国時代も末期の16世紀中葉以降だとされています。 まず佐々木六角氏の居城・観音寺城(滋賀県)で近世の城石垣の先駆ともいわれるものが築かれ、これが織田信長の安土城に受け継がれ、その後西日本を中心に広がっていったのだそうです。 しかし、関東地方では石垣に適した石材の産地が少なく、近世にいたっても石垣を持たない城がほとんどであったそうです。 石垣を使わない城とはどういうものかというと、山の緩斜面を削って人工的に急斜面をつくり(切岸といいます)、またそのさいに出た土を盛上げて突きかため、土居(土塁)を作って城の防御にあたる、ということになります。 こうした土の城は、ムリヤリ人間の手で地形をかえたものなので、風雨に弱く、定期的に補修しなければならなかったようで、この作業に民衆が駆り出されていたのです。 駆り出されていた、と書きましたが、本の北条氏の例ではかなりの程度、修繕は民衆の自主性に任されていたようで、強制労働というカンジではありません。 これはやはり、いざ戦争となれば城内に避難することが前提であったわけです。 自分が生き残るための城なのに、手を抜いては自分が危ないですからね。 具体例が北条氏しかなかったので他の地域では城が民衆の戦時避難所として機能していたかどうかはわかりません。 ただ、石垣の城が出現する以前はどの地域でも基本的に事情は変わらないと思いますので、城のメンテナンスはどこでもかなり頻繁かつ定期的に行われていて、その作業には民衆があたっていたことでしょう。 民衆にとっては忙しい農作業の合間を縫っての作業になるわけで、無条件で労働に駆り出されていては暴動がおきそうなものです。 そう考えてみれば、全国どこでも、民衆は城のメンテナンス作業を行うかわりに、戦時には城内に匿われていたと考えてもよいのではないのではないでしょうか。 そういえば、尼子詮久が吉田郡山城を攻撃したさいには、城方の毛利元就は領民を城内にいれて籠城したといわれていますし。 ところで、その吉田郡山城を攻撃した尼子詮久。 尼子詮久の居城といえば月山富田城です。 富田城址には現在、多くの石垣が残されていますが、城郭石垣の出現時期を考えれば、尼子氏時代の富田城には石垣はなかったのでしょう。 尼子氏が近江佐々木氏の流れをくむ関係から、もしかすると近江の先進的な城郭建築を取り入れて石垣を使っていた可能性も考えられなくはないですが、それでもごく一部に限られていたものと思います。 ともあれ、石垣があってもなくても、富田城の規模を考えれば城の維持管理には相当な人手が必要であったにちがいありません。 となればやはり、城のメンテナンスには領民が駆り出されていて、また、戦時には民衆は富田城内に匿われることが約束されていたにちがいありません。 しかしここで、疑問が浮かびます。 民衆は、富田城のいったいどこに避難したのでしょうか? 富田城内を歩いてみれば分かりますが、かなりの規模をもつ城とはいえ、ひとつひとつの郭(曲輪)はそんなに広くありません。 いや、広い郭もありますが、いずれも種々の建物が建っていたり、または軍勢集結の場と考えられる郭で、民衆が入る余地があるようには思えないのです。 まさか城主の居館に領民が上がり込むわけにはいきません。 富田城は実際に大内氏や毛利氏の攻撃を受けていますが、そのとき領民はどこに避難したのでしょう? ここで、ひとつ注意が必要です。 今現在の月山周辺の地形と、戦国時代の月山周辺の地形は同じではないのです。 富田城のすぐ脇を流れる富田川はもともとは現在の広瀬町の市街地を流れており、江戸時代におきた洪水により河道をかえて、現在の位置になったのです。 現在の富田川の位置には富田城の城下町が広がっていました。 また、現在は跡形もない郭がほかにも昔の絵図に描かれています(これとて江戸時代の想像図ですが)から、現在の城郭範囲よりもさらに外側に城郭が広がっていた可能性があります。 たとえばよく知られている消滅した郭としては、里御殿平と呼ばれる郭があります。 この場所は、今は周辺に作られた道路よりも低い場所に位置していますが、かつてはかなりの高さの土塁ないし石塁の上に作られていたそうです。 もとの市街地の高さが現在の富田川の河床ですから、それを考えれば納得できます。 里御殿平には、平時使用したとされる城主の居館があったと考えられるのでここに民衆が避難したわけではないでしょうが、他にも外郭があったとすれば、そこが民衆の避難所として使用されたのかもしれません。 また、越前朝倉氏の一乗谷城の例を考えてみると、一乗谷城の城下町はその名も一乗谷という谷間に作られていて、谷の入口には巨大な防壁が築かれていたといいますから、谷間の町そのものが城の外郭だったわけです。 富田城を見てみると、登城口のひとつ、大手にあたる菅谷口はその名も菅谷という谷になっていて、谷の入口は北側しかないため、入口を封鎖すれば敵は入り込めません。 ほかにも北麓に新宮谷、南麓に塩谷という谷間があり、同じように入口を封鎖すれば敵は入り込めません。 ただ、菅谷が富田城郭の一部を形成していることを考えると、一乗谷と同様に谷間を避難所として活用したとすれば、菅谷を利用したと考えたほうが自然かもしれません。 残念ながら、富田城外郭は私有地と化して田畑になっている箇所がかなりあって、おそらくそうした場所は発掘調査がなされていないことでしょう。 富田城の外郭を詳細に調査していけば、きっとイロイロ面白い発見があるにちがいありません。 |

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