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ところで樺太にいた日本軍は、アッツ島玉砕以降、それまでの対ソ重視から対米重視の防衛体制をとることが意識されるようになり、昭和20年3月21日に第五方面軍から正式に樺太では対米防御の防衛体制をとるよう指示が下されました。これにより、従来北部重点、つまり対ソ防衛体制であったのが南部重点と変わり、国境地帯の防御陣地は二個連隊で守るように出来ていたのが、一個連隊でまもることとなりました。
しかし、この命令が出る前年のソ連革命記念日のスターリンの演説では、日本を「侵略者」と名指しで非難し、20年に入ってから樺太でもソ連軍増強の兆候がみられ、方面軍からの対米防衛体制をとる命令を受けた後、3回にわたり、第八十八師団は対ソ防衛体制への転換を上申しています。でも、第5方面軍の判断は当時の大勢としては決して不自然なものではありませんでした。日本軍の最高司令部というべき大本営でもソ連の参戦時期について、統一した見解が出せなかったばかりか、20年5月からモスクワで連合国との講和の仲介をソ連に依頼する交渉が行われていたのです。また、同じソ連に対していた関東軍でさえ意見がまとまらず、ソ連参戦が翌年3月以降であってほしいという願望が予測に転じてしまった例もあります。 そのような情勢ノ中で、樺太での対ソ防衛態勢への転換が認められたのはソ連参戦直前の8月3日で、師団司令部は早速6〜7日にかけて各部隊長を集めて会議を開き、対ソ防衛体制への転換を指示しました。この会議のおかげで、国境地帯を守っていた歩兵第百二十五連隊の将兵は心の準備が出来たのです。 実はこの会議の後、第八十八師団の鈴木参謀長は350キロはなれた国境地帯から来た歩兵第百二十五連隊長の小林大佐の労をねぎらおうと、一席もうけようとしたのですが、小林大佐は虫の知らせで、断り、夜行列車に飛び乗り、部隊にもどりました。そして、連隊の幹部を集めて、対ソ戦準備への転換を伝達したのです。そのおかげで、8月9日のソ連参戦時に北部の海岸地帯にいた連隊主力部隊は国境陣地に入ることができ、8月11日のソ連軍の本格的侵攻に対処できたのです。 樺太の引揚者や兵士の戦後回想やそれを基にした出版物によると、ソ連軍は簡単に北緯50度線の日ソ国境を突破し、日本軍はなすすべがなかったというような記述が目立ちますが、これは大いなる事実誤認です。 例えば、国境の町、半田では約100名の陸軍・警察官の合同部隊が約30000名のソ連軍一個軍団の進撃を一昼夜くいとめています。また、国境地域にいた日本軍約3000名には、積極的戦闘禁止命令の解除命令が届いていなかったばかりか、その装備は旧式であり、数も不十分であったにもかかわらず善戦し、8月15日の段階で1番進撃できたソ連軍部隊でも16キロしか進めませんでした。 国境地帯の日本軍に停戦命令が届いた8月18日には国境の主陣地は無傷で、南下するソ連軍を挟み撃ちできる状態にあり、ソ連軍への攻撃開始の直前でした。局地停戦が成立した時、はじめてそのことを知ったソ連軍参謀は、「危ないところであった」ともらしています。しかも国境地帯の日本軍に停戦命令は届きましたが、その後に発せられた自衛戦闘命令は届いていないのです。歴史にifは禁句ですが、もし、積極的戦闘禁止命令や自衛戦闘命令が国境の部隊に届いていたら、停戦命令により、中止となった攻撃が実施され、ソ連軍の不意をつき、おそらく大打撃を与えることができたでしょう。もしそうだったら、真岡に上陸した部隊はこの方面に回されていたかもしれません。つまり、真岡郵便局の悲劇が防げたばかりか、さらに多くの老幼婦女子の北海道への緊急疎開が成功したことが考えられます。この緊急疎開は軍官民一体となって8月13日からはじまり、全島民の2割にあたる約8万人の住民が3箇所の港からあらゆる船を使って北海道へ避難できたのです。 これは8月23日にソ連軍より人員、物資の島外移動禁止命令がだされるまで続きますが、この命令が出された後の23日深夜、ソ連軍の哨戒網をかいくぐって、民間船2隻が約4000名の避難民をのせて大泊を出航、翌24日早朝に稚内に到着し、これが最後となりました。因みにこの出航に際し、船長は乗船者にソ連軍により撃沈される可能性を説明した上で、希望者をのせて出航しております。 一方海軍は、私が調べた限りでは8月21日以降、稚内から樺太に向かった艦船はなく、むしろ逆方向の本州に向けて移動をしております。 こうしてソ連は8月25日に主要都市の占領を完了させ、その後一方的に自国への併合を宣言、今日に到るまで、不法占領をつづけています。 こういう場でのお話としては、なんとも後味の悪い終り方ですが、皆さん、これがなぜか学校では教えられない現代史の一面です。この映画は細部には脚色がみられますが、大筋実話です。1945年夏、樺太で起きた事。このことは非業の最期を遂げた多くの人々のためにも忘れないで下さい。そして私達の傷みをはっきり言える関係をロシアとの間に築くことは、両国民が真の友人になる為に必要だと思います。 |
樺太における対ソ戦研究
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