日記

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  裏磐梯五色沼探勝路スノートレッキング
 裏磐梯高原は今、2メートルに及ぶ雪に覆われ、そこにある多くの湖沼群や木々は眠りから覚めなんとして、春を待ちつづけている。2月18日(日)その息吹を体感すべくスノーシューで少しだけ歩いた。主催は日本山岳会山行委員会一行24人のメンバーで、この日、福島県会津地方は大荒れの天候となり、ローカル鉄道がすべて運休となる中、首都圏から参加したメンバーは、とても歩ける天候でないと感じ取った。この日のトレッキングは次の日のイエローフォールの足慣らしでもあった。
 檜原湖畔の遊歩道入り口でスノーシューを付け、福島支部江花会員がツアーガイド役となり往復2時間の雪原と湖沼群を楽しんだ。
 時折ッ突風が吹き、雪煙を巻き上げる。

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今の時期、裏磐梯は白と黒の世界。しんしんと静かに降る雪、北西の強い季節風に吹き付けられる雪など一定ではないが、屹立する原生林の木々に着雪するのは風上側だけ。赤松の枝は風下側にだけ枝振りが伸びる。それほど風の強い場所でもある。

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 裏磐梯は、今から130年前の明治21年に磐梯山が大噴火し、我が国有数の湖沼群が形成された。檜原湖、秋元湖、小野川湖、曽原湖のほか毘沙門沼、深泥沼、弁天沼、ルリ沼、青沼など水を湛えた水面が五色に輝くことからその名で呼ばれ、春から秋にかけては人を惹きつけてやまない場所となってい。しかし寒冷多雪の厳冬期はスキー、ワカサギ釣り、スノートレッキングなど訪れる人も少なく(最近は外国人観光客が注目しているらしいが)、この日も数パーティと出会っただけである。



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ルリ沼は雪に埋もれたまま。展望台手すりもスノーシューの下敷きになっている。

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それでも沼の南岸はわずかに水面が見えていた。

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 樹木の西側に新雪が着雪し、蔵王のエビの尻尾とまではいかないが、雪交じりの強い西風が容易に想像できる。


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 ガイド江花氏の熱の入った説明に真剣な表情で耳を傾ける参加者。
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弁天沼の近影。

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 青沼と樹木の着雪。枝ぶりは東側に伸びているのがわかる。
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 青沼の水面は水温が高いのか少しだけ氷解していた。

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 春はすぐそこまで来ている
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 スノートレッキング終了後は、星野リゾートが経営する「裏磐梯レークリゾート」に宿泊。首都圏から参加の15人、新潟支部2人、福島支部7人が懇親を深めた。当夜は、冬季オリンピック競技・スピードスケート500m決勝が行われ、21時すぎ小平奈緒の金メダルが確定したこともあり、参加者一同感激。イエローフォール最高の前夜祭となった。


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裏磐梯イエローフォール トレッキング
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 日本山岳会山行委員会主催による裏磐梯イエローフォール・スノートレッキングを紹介します。絶好のトレッキング日和となった2月19日(月)、裏磐梯スキー場のリフトを乗り継ぎ、磐梯山噴火口の北斜面に冬の時期だけ出現するイエローフォールに到着。全員で記念写真に納まりました。

 下の画像は裏磐梯スキー場リフト頂上からの風景。奥の雪原が檜原湖、この時期ワカサギ釣りで賑わいます。我々の泊まったホテルと、スキー場ロッジも見えます。


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先頭はガイド役の江花(福島支部)さん。ここは銅沼(赤沼)の真上。凍結した湖面に2メートルの積雪があり渡り切ることができます。紺碧の空、純白の雪、そこに集う美しい女性がまばゆく映えました。

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銅沼を渡り切り、目の前に裏磐梯噴火跡の荒々しい稜線が迫ってきます。稜線の奥が沼の平で磐梯山山頂は画面右奥ですが、ここからは見えない。

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途中小高い稜線上で休憩。スキー場から銅沼を経てここまで約1時間
イエローフォールはもうすぐ。


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イエローフォールが見えてきた。我々と別のパーティが先着していた。

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ガイド江花氏と記念写真に納まるサブリーダー
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赤松の枝に架かる雪とその奥のイエローフォール

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 さらに全員で記念撮影画像を載せました。このあとそれぞれ「こ昼飯」(方言でこじゅはん=軽いおひるごはんの意味)を摂り、午前11時下山開始。

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再び銅沼(赤沼)を渡りスキー場リフトへ向かう

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深雪を踏みしめて下山する女性メンバー

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ことしは寒波続きでここ裏磐梯高原もかなりの積雪が見られたが、銅沼岸辺の陽だまりでは雪も解け始め、ミズゴケが輝いていた。春はすぐそこまでやってきている。
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       マッキンリースキー滑降特別番組ご鑑賞のお勧め
 植村直己さんをご存知ですか。1884年2月、アラスカのマッキンリーを単独で登攀中に行方不明となった伝説の登山家・冒険家です。そのマッキンリーはアメリカオバマ大統領時代「デナリ」と改名され、今でも魔の山として多くの岳人が憧れ、挑戦を続けています。そのナデリ山頂から最大斜度50度、ほぼ垂直の壁を滑り下りるという日本人登山家がいます。
    佐々木大輔 40歳
がその人で、本年9月にNHKが特集番組で放映しました。
 その講演会が12月2日に東京で開催され、実際に映像を見ましたが、なんとも開いた口が塞がらないどで、こんな日本人がいたのかと大いに感動してしまいました。 
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 ナデリ滑降には佐々木さんと2名の日本人山岳スキーヤーが挑戦したのですが、これをサポートするスタッフも、NHKカメラマンも一流の登山家で、彼らと佐々木さんたちが生と死のギリギリのところを乗り越えて成功させたと講演で語ってくれました。
 以下が滑降ルートです。
 
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 以下が、本年9月にNHKスペシャルで放映された60分番組のタイトルです。
 その再放送がありますので、年末のお忙しい時ではありますが、ぜひご鑑賞をお勧めします。
 再放映の予定は以下のとおりです。
   平成29年12月29日(金) 22:00から99分番組
   NHK BS1で全国放映
   撮影カメラ 4K ソニー製
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 6月から7月にかけて37日間取材
                                       以上

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         八十里峠秋色 古道探訪の山旅
 日本山岳会福島支部の古道八十里峠越を紹介します。109日、10日の2日間、新潟県三条市の吉ケ平から9人パーティーで入山、福島県只見町の叶津まで8里(約24kmを)歩きました。 八十里峠は風雲急を告げる幕末、長岡藩家老河井継之助が「八十里 腰抜け武士の 越す峠」と詠んだことで知られていますが、その歴史は古く、平安時代以前にまで遡ります。 下は入山前全員で記念写真
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 平家の覇者平清盛が京都で権勢をほしいままにしていた時代、清盛に反旗を翻した後白河上皇の息子高倉宮が追われ、取り巻きを連れて、上州沼田から檜枝岐〜会津田島、楢原、大内〜只見〜と逃避行を続け、越後山脈に奥深く八十里峠に隠れ住んだという言い伝えがあります。これらにちなむ地名や遺跡が奥会津各地に見ることができます。
 水芭蕉で有名な尾瀬は、高倉宮に随行した尾瀬三郎大納言という公家がいて、今の尾瀬沼あたりで息絶え、檜枝岐集落に埋葬されたとの言い伝えがあり、公家姿の尾瀬大納言の大きな像が村内土合公園に建立されていることでも明らかです。「遥かな尾瀬」の名もここに由来すするらしいのですが。
 さらに会津・大内宿では高倉宮の霊を祭った「高倉神社」をご神体とする「半夏祭」が毎年厳かに執り行われています。高倉宮は会津・大内宿に滞在した後、駒止峠から只見にいたり、叶津から越後山脈奥深くの八十里越え(八十里峠)に入り込み、そこの「空堀」に住み着いたとされますが、その後の消息は明らかではありません。
 只見町の識者・歴史家によると、越後と会津を結ぶ八十里峠は平安時代以前から「塩の道」として開削され、最も栄えたのは江戸時代で、徳川幕府直轄の道普請職人が入り、荷駄の通行ができる峠道に仕上げたとのことです。 この峠道を世界遺産として登録できれば、と一所懸命に江戸幕末時代まで人々が行き来した「八十里古道」の発掘と調査に本腰を入れている只見町鈴木章一さん(日本山岳会員)から熱いお話をお伺いすることもできました。
 今回の八十里越えは高倉宮伝説と史実がないまぜになってとても意欲が掻き立てられました。以下我々の辿った明治新道を画像を中心に紹介します。下の画像はかつて吉ケ平集落としてさかえた八十里峠入り口です。
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守門川に架かる橋を越えると峠山道となる

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昭和20年、吉ケ平は峠の衰退で集団移転で山を下った。その墓地がきれいに刈り払われて、昔日の面影が残されている。イメージ 4

さあ八十里越えスタート 午8時30分

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 雨生ケ池(まおうがいけ)との分岐「馬場跡は標高420m。 左が雨生ケ池、右が八十里峠道。最初の目標は「椿尾根」を通って「番屋乗越」まで

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最初の登りはジクザクに切られていて、しっかり刈り払われ真新しい道標も設置されている
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徐々に道が険しくなるが、ここは秋の実りが我々を歓迎してくれた。なんといっても紫アケビがたわわに色付き今は伸びきってしまっているが太いぜんまいの葉が茂っていた。

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                                   全員手に持ってるのは紫アケビ
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椿尾根は標高735m 10:50到着。天候は晴れ 気温は暖かく汗ばむほど
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最初の難所番屋乗越到着は13:30。標高は895m。紅葉にはまだ早く、碑はそう遠くないむかしに設置されたと思われる。河原で洗われたツルツルの花崗岩。同じような碑がこれから先遺跡に設置?されていた。
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番屋乗越からは立派な峠道が続く。しかしこの後すぐ八十里峠で最も危険なトラバースとなる。イメージ 17
谷側は灌木帯で物の見事に数百メートール切れ落ちている。道は粘土質、しかも水分が多く滑りやすい。おまけにザイルの展張もなく、かなりの時間を費やした。
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見た目よりははるかに切れ落ちている。切通しの跡はなく、ただの急斜面

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15:30、ブナ沢を過ぎ少し登ったところがかなり幅広で平らな峠道、しかもブナの大木のトンネル状になっていた。水場まで(ブナ沢)近く、ここを幕営地に決定し、テント4張りを設営した。 イメージ 47テント設営後早速夕食準備。

 沢水の音が心地よかった。当然担ぎ上げた食料とアルコールは明日の荷物軽減のため各自胃袋満杯まで押し込んだのは言うまでもない。
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JAC(日本山岳会)福島支部の旗を中心に記念撮影(山行2日目朝)
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ブナ沢の幕営地を撤収して午前6時、第二日目スタート。空堀に向け出発
07:00「空堀跡」に到着。ここは別名[御所跡]とも呼ばれ、高倉宮一行がここに住み着いたとの言い伝えがある。しかし、考えてみると空堀跡地の広さは50m×50m位の広さしかなく、しかも会越国境の山の中、水は豊富にあるにしても食料調達方法ど疑問は残る。
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07:00、空堀で朝食を採る。下は「空堀小屋跡」の復元工事か?小屋の土台石、測量調査の縄張りが目立った。
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 空堀碑の前でコーヒーを飲みながら、高倉宮、河井継之助、往時の人々がどのような思いで峠を越えたのか考えた。荷駄を引き、戸板に乗せられて(河井)、塩や乾物を背負って歩く姿が去来した。

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 空堀からの峠道は、一部そのまま残されてはいたが、荒廃が進み、倒木に覆われ、田んぼのようにぬかるんだ道が連続した。下は空堀からすぐの水平道で、とても歩きやすかった。だがすぐに悪路が現れてくる。.

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 えぐられた沢、水量も多く鉄砲水となった場合は渡渉困難となる。そんな沢が連続的に我々を迎えてくれた。とにかく峠道全体で沢が多い。数十メートル進んでまた沢越えの連続であった。
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 八十里で最も標高の高い「鞍掛峠」への道標(木製)
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08:10、鞍掛峠手前の「殿様清水」着。小さな枯沢の中からコンコンと清水が湧き出ている。その碑の前で記念撮影に収まる女性メンバー。
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09:15、「鞍掛峠」着。標高951m、峠頂上は広場になっている。荷駄を下ろし、鞍を外して掛け、馬を休ませた峠ーという意味が込められているのか。ここからは浅草岳から連なる烏帽子山の絶壁を見ることができる。紅葉も始まっていたが、本来のあの燃えるような色ではなかった。
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  9:10、鞍掛峠山頂広場で休憩。ここより高い峠道はなく、あとは水平道と下りの連続となる。今から150年前、鞍掛峠は戊辰戦役での戦いの場であった。越後長岡藩の山本帯刀(山本五十六連合艦隊司令長官の義父)が薩長軍と対峙した場所ともいわれている。この峠を河井継之助はどのような思いで越えたのか。ここから只見蒲生(終焉の地)までは、1日の道のりだ。
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真剣に山行記録を執っているいるのが清野氏。氏は2012年、日本山岳会福島支部のカラコルム6千m未踏峰登攀隊長を務めた。徹底した菜食主義者で「キリンも像も葉っぱしか食わない。」が持論の山屋です。厳冬期の飯豊が大好き。
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今回写真を担当した氏家さん。千葉県から参加。無類の酒好き
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     峠道にはいたるところになめこ、オリミキなどいっぱい
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10:00頃から雨となる。10:20見晴らしの良い「小松横手」に至る。その名の通り赤松が一行を待っていた。下はその碑。イメージ 39
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 小松横手から30分、田代平の左脇道をとおり、10:55田代平分岐点到着。ここを右に下ると六十里峠(国道252号線へのエスケープルート)となるが、我々は直進し木の根峠を目指す。この分岐が唯一携帯電話が使える地点。
 
 10:55木の根峠到着。山頂が新潟県と福島県との県境となる。会越国境が正しい表現か?ここが八十里峠の分かれ道。今まで越えてきたのはいわば一本道であったが、ここから先只見に向かっては明治新道(通行可)、明治中道(通行不可)、古道(不可)とばれる3つのルートがある。幕末までは今言う「古道」のみであり、河井継之助が鉄砲で撃ち抜かれ、戸板に乗って峠越えしたのは古道である。
 その古道に厳然と遺構は存在するが今は放置されたままで、地元只見町の識者である鈴木章一(日本山岳会員)氏らが発掘と復活の活動に取り組んでいる。
 下は明治中道(右)、古道(左)の碑。画像左上かすかに白地に朱書きの「八十里古道入り口」の道しるべが見える。だがその先は灌木に覆われ入り込めない。
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    木の根峠乗越で記念撮影。雨が時折強く叩いていた。画像左端に立つ氏家氏と二番目の石井さんが挟むような形で「茶屋跡」の碑が立っている。
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 我々が出発しようとしたとき、日本山岳会員(首都圏所属)長谷部さん案内の「文化庁史跡発掘調査班ご一行」 と鉢合わせた。文化庁による史跡調査の目的や現状は不明なるも、福島県関係者など総勢15名ほど、筆頭が文化庁本庁調査官と言っていた。イメージ 43
 木の根峠乗越には「峠の茶屋」があった。その碑の前で記念撮影。
 12:00、昼食後出発。ここからはひたすら只見・叶津に向かってダウンヒルと思いきやそうではなかった。水平道の連続で、ぬかるみに悩まされ、沢を越え、倒木を潜り抜け、天然なめこやキノコに目もくれず歩を進めた。
             「茶屋跡」の碑を囲んで記念撮影
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画像縦にできずご勘弁を。最後の遺構「松ヶ崎の祠」13:30着、見通しよい場所。
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 16:35国道289号線の大麻平(おおまだいら)到着。八十里峠越えのフィナーレとなった。マイクロバスで迎えに来てくれた菊地さん、青柳さんと合流。
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 会津と越後を結ぶ塩の道、新潟県の旧下田村から福島県只見町・叶津まで約八里。その険しさは八里が八十里に思えるほど長く感じられることから「八十里峠」の名がついたと言われている。
 戊辰戦争から150年、長岡藩河合継之助の軍勢1200人が西軍との戦いに敗れ、天保古道を通って会津に逃れた。八十里峠は会津と越後を分ける「木の根峠」を起点として只見に4里、越後に4里の道のりである。豪雪、急峻な地形のため、莫大な補修費と人足を必要とした。このため明治に入って2度の付け替え(コース変更)がなされ現在通行できるのは明治新道(明治27年開削)のみで、今回我々は「木の根峠」まではほぼ河井継之助が辿った天保古道を歩くことができた。だが木の根峠から先只見までの明治新道は古道とはまったく別の峠道である。木の根峠から先の古道に眠る多くの遺構や道標を見ることはできなかった。八十里峠を歩いたといっても越後側から木の根峠までの半分でしかない。
 峠道を喘ぎながら歩を進め、何気なく見下ろすと 国道289号線の建設工事が急ピッチで進められ、数年後には日本海と太平洋が数時間で結ばれる。この時代のギャップを感じながら歩いたそんな八十里越えでした。  
 只見町鈴木章一さん、長谷部忠夫さんご協力ありがとうございました。 
                                          渡部展雄 記                           
 メンバー 石井洋子、三瓶恵子、佐藤憲子、清野義美、佐藤一夫、渡部展雄、土    屋信夫、氏家光政、熊谷鶴三  サポート菊地道彦、青法〃 以上日本山岳会福島支部所属      






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 日本山岳会(略称JAC)福島支部の平成29年度事業として進めてきた吾妻連峰・一切経山登山道(東斜面:スカイライン霜降から一切経山頂まで)の整備は、9月4日(月)の活動によってほぼ再開削にこぎつけた。
 このルートはJAC福島支部初代支部長伊藤弥十郎氏らによって開かれ、昭和40
、50年代の登山隆盛期を境として、その後入山者も少なくなり廃道状態になった。
 しかしベテランの登山者や地元の愛好者、高校OB山岳会などこのルートを知る人たちから「廃道にするのはさみしすぎる」との思いが湧き出て、JAC福島支部でも
前支部長(大谷)、吾妻山の会前会長(清野)らが中心となって7年前ころから整備に乗り出した経緯がある。今年度は6月10日に続いて今回が2回目の整備となった。
 一切経山のガス噴出に伴う入山規制が今年解除となったこともあり、福高山岳部OB会メンバー、庭坂居住の阿部さんらが中天狗の分岐から一切経山までの登山道に入り、そこにJAC福島支部も加わって、ようやく再開通の目途がつきました。
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 取り付けられていた道標は、中天狗から一切経山への分岐を示すもの。
長い年月支柱はクマザサに守られ倒壊しないで立っていたが、横板に書かれた道標は判読できないほどで、応急的にひもで縛りつけた。


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下の写真は、分岐から一切経山にいたる回復させた登山道。両脇のクマザサがいっぱいに覆いかぶさっていたが、福高山岳部OB会によりきれいに刈り払われ立派な登山道が復活した。

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ホームセンターで購入した丸木杭を地中30センチくらいに打ち付け、赤布をそこに縛り道しるべにした。降雪の圧力に耐えるように、平たん地、大石の下などに設置。

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ルート上にある通称ラクダのこぶ地点。
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参加者7名の昼食風景。この日は久しぶりの晴れ。
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9月3日(日)は吾妻小舎にJAC会員が集い毎年恒例の「吾妻小舎納涼会」を開催。主人高橋さんの手料理とアルコールで大いに語り合った。石井女史は日本酒に強く、この夜たしなんだうちでは「花泉・辛口」が一番と、ほぼ一人で平らげた?
しかし、翌日の登山道整備ではやはり一万元気がよかったと感じました。


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ラクダのこぶから福島市内方向を見下ろす。左上に信夫山、眼下はスカイライン。
間もなくここも紅葉の季節を迎えます。

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