歴史問はず語り

日本史と世界史にまつわる不思議について語る倉西裕子のブログ

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  昨今、NHKのプログラムや新聞記事などで、蘇我氏は百済と親しかったとする説が定説のごとくに語られているようです。しかし、本当に蘇我氏は百済と親しかったのでしょうか。

 欽明十三年(五五二)に百済聖明王から我が国にもたらされた仏像は、宮中において祭ることができなかったために、蘇我大臣稲目宿禰が、その仏像を譲り受け、その邸宅を寺となして祭っています。また推古元年(五九三)に、蘇我馬子宿禰は、百済僧によって受戒されるとともに、善信尼らを学問僧として百済に留学させています。こうした点から蘇我氏親百済説が唱えられていると考えられますが、ことに六世紀末から七世紀初頭となってきますと、蘇我氏は、以下の点からは、むしろ親新羅派に属すようになっていたと推論することができます。

 第一に、大宝蔵(だいほうぞう)殿(でん)の北倉(ほくそう)に戊子年銘釈迦三尊像(ぼしねんめいしゃかさんぞんぞう)という蘇我氏が造顕した仏像があることです。この仏像の光背には四行四十八文字からなる造像記が刻まれおり、「戊子年十二月十五日」「嗽(そ)加(が)大臣」と見えることによって、「戊子(つちのえね)」の年の推古三十六年(六二八)に、蘇我大臣(蘇我大臣蝦夷か?)が造ったことが、はっきりしています。仏教美術の様式学から見れば、この仏像は、新羅を経由して伝わっていた北朝様式の仏像なのです。新羅の仏教美術は北朝様式、百済の仏教美術は南朝様式という明らかな違いがありますので、蘇我氏の造顕した仏像が北朝様式であることは、蘇我氏と新羅との親しい関係を示唆しています。

 第二に、崇峻元年に建立された蘇我氏の氏寺、法興寺には、推古十三年になって止利仏師によって造られた丈六仏が本尊として安置されますが、今日、「飛鳥大仏」と呼ばれているこの仏像も、北朝様式の仏像です。飛鳥大仏を作った止利派の作風は、北朝様式なのです。

 第三に、西暦六四五年に乙巳の変をおこして蘇我宗家を滅亡させた中大兄皇子(後の天智天皇)が、その父帝の建立された寺院が百済大寺で、遷宮された最後の宮が百済宮であること、また自身の百済救援事業に象徴されるように、明らかに親百済派であることです。天智天皇と蘇我氏の間には、親百済と親新羅のコントラストを認めることができるのです。

 このような点から、殊に七世紀に入ると、蘇我氏は親新羅の立場を明確にしていたのではないかと考えられるのです。七世紀初頭に中国大陸では、唐が成立してきます。東方積極策を画した唐は、新羅と同盟を結んで百済を挟撃する計画を立てます(高句麗を攻めるために、百済を橋頭堡として確保するため)。このため、百済と新羅が決定的に対立する状況が発生したのです。六世紀においては、倭国内で百済と新羅は仏教派を形成しており、両国間の対立よりも、神仏の対立のほうがより重要な対立問題となっていました。しかし七世紀という激動の時代を迎えて、我が国の皇族、豪族たちは、安全保障、ならびに外交政策上の立場から、親百済、もしくは親新羅といったように、それぞれ軸足を定めなければならなくなったのです。

 拙著『救世観音像 封印の謎』(白水社 二〇〇七年)は、こうした奇奇怪怪の七世紀の内政・外交問題について論じています。ご興味がありましたなら、ぜひご一読ください。

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蘇我入鹿については天智天皇の百済との外交に絞るという勢力と蘇我入鹿の全方位外交との間の争いという説もありますね。
百済にとっては悪夢なので入鹿暗殺に及んだということのようです。

古い記事にコメントして申し訳ありません^^

2013/1/14(月) 午後 3:40 [ Garland ] 返信する

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