歴史問はず語り

日本史と世界史にまつわる不思議について語る倉西裕子のブログ

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 弥生時代、三世紀の我が国についての記録である『魏志』倭人伝に登場する女王・卑弥呼については、枕詞のように「邪馬台国の女王」という表現が、よく用いられています。

 「邪馬台国の女王」と表現してしまいますと、卑弥呼は邪馬台国という一ヶ国の女王であったといったイメージを帯びてしまうことになり、多くの人々が、卑弥呼は邪馬台国の女王であると信じているかもしれません。しかしながら、『魏志』倭人伝をよく検証してみますと、以下の点から、卑弥呼は、「邪馬台国の女王」ではなく、「女王国の女王」であると表現したほうが、より史実を反映したものとなる可能性が見えてきます。

 第一に、『魏志』倭人伝では、卑弥呼を女王として擁立して纏まっていた倭諸国三十ヶ国を総称する場合は、「女王国」、もしくは「女王」という表現が用いられています。

 第二に、「邪馬台国」という用語は、「至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」という文章のなかの一箇所のみしか用いられていません。

 第三に、「至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」という一文をよく検証してみますと、邪馬台国は、女王・卑弥呼が、居住していた倭諸国三十ヶ国の一国と解釈するほうが、より蓋然性がありです。倭諸国三十ヶ国を今日の都道府県に擬えるならば、邪馬台国は、首都の東京であるということになるでしょう。

 第四に、『後漢書』でも、「邪馬壹國」が出てまいりますが、「大倭王居邪馬壹國」と表現されており、ここでも、「邪馬壹國」は、盟主が居していた場所とされているのです。

 このような点から、邪馬台国は倭諸国三十ヶ国の統合を象徴する都であったと考えられるのです。古代の都といいましたならば、「大和(やまと)」であることは、言うまでもありません。仮に、「邪馬台国」が「やまと」と訓じるのならば、今日の奈良県が、古代の都であって、古来「やまと」と称されてきたことと合致することになります(ただし、『日本書紀』では、「大和は国のまほろば、…」と詠じた日本武尊の有名な「国しのびの歌」が、日向で詠まれたことになっていることが、気にかかる点で、首都の所在地問題は、やや複雑に推移したとも推論できます)。

 いずれにせよ、固定観念にとらわれず、卑弥呼を「女王国の女王」として考えてゆくことで、弥生時代の実像は、より明らかとなってくるのではないでしょうか。

 追記:最新の拙著『吉備大臣入唐絵巻 知られざる古代中世一千年史』(勉誠出版、二〇〇九年)にて、弥生時代の我が国の様子についても論じてみました。ぜひ、ご一読いただけましたならば、幸甚でございます。

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「大倭王居邪馬壹國」は「やまと=邪馬台国」が統属する範囲を「おおやまと=大倭」と理解します。

その邪馬台国の王宮と思われる大型建物が出土しています。
騒がれている纒向の建物遺構ではありません。

http://yamatai.sblo.jp/category/776681-1.html

2009/12/4(金) 午後 6:14 [ kus*gak**oto ] 返信する

Kus*gak*otoさん
kus*gak*otoさんのいう「おおやまと=大倭」は、卑弥呼を擁立していた倭諸国30ヶ国のことなのでしょうか。また、「その邪馬台国の王宮と思われる大型建物」は、どこから出土したのでしょうか。

2009/12/9(水) 午後 4:57 [ 倉西裕子 ] 返信する

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倉西さん、こんにちは。
[投馬国と奴国の戦いと投馬国出雲説]・[卑弥呼と邪馬台国連盟]等々、楽しく読ませていただきました。私のブログのジャンルを選択する時、文化・・歴史を選択したら倉西さんのブログを表示し、読ませていただきました。

2012/9/22(土) 午前 10:58 [ totoro ] 返信する

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あああああああー 削除

2013/6/9(日) 午後 5:02 [ おおおお ] 返信する

source88さん
source88さん。文献を無頓着に引用しているわけではありません。ご指摘の点も含め、資料を十分に検証したうえで、自論を展開しております。記紀と中国資料が表面上対応していないことは、むしろ記紀の信ぴょう性を証明するためのヒントとなっているのです。この点につきましては、記紀の史料としての信ぴょう性につきましては、拙著『日本書紀の真実 紀年論を解く』、『「記紀」はいかにして成立したか 「天」の史書と「地」の史書』、『源氏物語が語る古代史 交差する日本書紀と源氏物語』などで論じておりますので、ぜひご一読いただきたくお願い申し上げます。

2013/12/21(土) 午前 7:40 [ 倉西裕子 ] 返信する

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倉西さま先日は失礼しました。著書を読まずに、上のブログだけを読んでコメントしたので、削除しました。とりあえず「‘本書紀の真実」「記紀はいかにして成立したか」を読みました。
『魏志』倭人伝では、「至邪馬壹國女王之所都」と引用され、『後漢書』では、「大倭王居邪馬壹國」と引用されていますが、「壹」と「臺」と別字の原文です。
貴方は、その文字について史料批判をされて引用記述されているのか不明です。さきのコメントはその事を指摘したのですが、不明です。
後漢書では、邪馬臺國です。「邪馬台国」ではないようです。
ですから、古田武彦の「邪馬台国はなっかた」を熟読されて、史資料批判後に、言葉を記述されているのだと思ったのですが。
「壹」と「臺」との引用見解が知りたいと思ったのですが、このことはどの著述で書かれていますか?知りたいのですが。
貴方の´△涼書は、初めから「ビルトイン」された定説の揺るぎない砂上の上に論証されたかの様に感じました

2013/12/24(火) 午前 3:20 [ soure88 ] 返信する

source88さま
「壹」と「臺」は別字であり、なぜ、『後漢書』と「魏志倭人伝」において異なっているのかといった点につきましては、『後漢書』は「魏志倭人伝」より後に成立していますので、『後漢書』の撰者が、「壹」を「臺」と書き間違えたというのが定説です。しかし、「壹」と「臺」は書き間違えではないようであり、いくつかの仮説を提起することができます。たとえば「大倭」が、漢よみで「たい」とよめまることが原因であるのかもしれません。現在、この点につきましても研究しており、いずれ成果を発表したいと考えております。

2013/12/24(火) 午前 9:10 [ 倉西裕子 ] 返信する

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倉西さま。「聖徳太子と法隆寺の謎」を読んでいます。貴方の紀年の120年ずれは、そのように解析すればそうなのでしょう。が、史書はそのように記述する企画で作ったのかな?というのが、率直な感想です。まだ私の読み込みが不足しているんでしょう。
↑で「ビルトインされている定説を」と書きましたが、著述文章の各所に引用諸書を番号で示されていますが、それらの書が同じような諸書を説明解釈に示しているようです。
で、各当箇所が定説を生む原因なのでしょう?そして、結論は謎のままとされているようです。続きます。

2013/12/29(日) 午前 2:00 [ soure88 ] 返信する

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↑でも「壹」を「臺」と書き間違えたというのが定説ですと書かれて、すぐ後で、それを否定する仮説を提起できると書いておられます。貴方は定説が構築している、古事記日本書紀史観の中で、考察されて絡め捕られているご自分に気が付かれていないように感じました。
例えば、「各当元号」を私年号と書き、多利思北孤を比孤にされています。海東諸国紀や日本大文典には、李朝朝廷書籍・教会司教に命じられた歴史の「本文の中の」天皇序代の認識とされている。隋書印影では、東西南北の字形と同じ北孤ですが、貴方は定説のみで、考察して、記紀で、それ以前の過去を論証されようとしているように感じられます。

2013/12/29(日) 午前 2:01 [ soure88 ] 返信する

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続日本紀の文武の「大宝建元」は始めて年号を文武の朝廷で建元した意味でしょう。
あちこちな謂い方ですが、神武が出発した「九州」という天子朝廷の用語。また、天照の降臨した九州本拠地の、他の本家筋の王家の人物たちの国作り、記紀には書かれていませんが、それが、近隣諸国の史書の倭国像である蓋然性の高さにも考察されると、卑弥呼=神功などの発想が危ういことに至られると思いますが

2013/12/29(日) 午前 2:18 [ soure88 ] 返信する

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旧唐書の倭国・日本国の別国の認識。神武の侵入した地の銅鐸文化の国々。連綿とし建てられた異年号と接続した大宝建元。出雲を征服した天照の論理。天照は対馬・壱岐より大きな地を支配していたような神神の存在(でないと出雲と抗争できないでしょう)等など、記紀は勝ち抜いた人々の正統の主張です。
その主張の曖昧さしか、当時の人々に言えなかった状況が、天皇家にあったようです。昨日までは違うでしょうと、言われないようにと。

2013/12/29(日) 午前 2:33 [ soure88 ] 返信する

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倉西さま。貴方の本の著述は、不自然な疑問に満ちているように感じるので、読めば読むほど??です。
なぜ、こんなに難解に解釈するのだろうと。又、断片的ですが。倭の五王は珍・讃とかの名は、中国風に名乗ったのではないか。倭国に朝廷は、組織・法など古来中国の用語で記述されています。名もそうでしょう。
日本人は日本書紀の時代から日本人なのでしょう。恥じることはありません。日本人は南西北からの移民の末裔です。
殷・周などの文化の東の到達点か、通過点です。
文字や神事思考などを受け継いで、日本にて昇華させたのです。
記紀に書かれていない事、周辺王朝の史書の記述は、別の朝のことで、遥かな昔の出身地の本家筋の朝廷=遠の朝廷なのでは、九州の天照王族の本家王朝なのでは。と考察に至る方が合理的です。
江戸期までは、多くの多元的考察がなされているようです。鎖国以前の西洋思考の影響でしょう。
明治以後、天皇教思考の学問になって、敗戦後も学問の総括をしなかったのが今に至るのでしょう。
倉西さまなどの、思考の柔らかい捉え方、考察方で日本古代史の旧態定説から脱皮できるよう期待してます。

2013/12/29(日) 午前 4:15 [ soure88 ] 返信する

source88さま
ご質問につきましては、私のサイト『倉西先生のご学問所』http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/の日本書紀紀年法入門をぜひ一読いただきたくお願い申し上げます。私は、日本書紀紀年法には、プラス・マイナス120年構想が設定されており、多列・並列構造となっていることを解明いたしました。120年のずれ問題や倭の5王の比定問題などご指摘の疑問は、すべてこの構造と関連しております。

2013/12/29(日) 午前 9:14 [ 倉西裕子 ] 返信する

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倉西さま、soure88です。件の紀年法入門を数回読みましたが、記紀からその様に数値として解析できるのはわかりましたが、書紀の企画編纂者が、なぜその様に著述編纂したかがわかりません?それが謎なのですか?それが貴方にも解らないので、書かれてないのですか?なぜ、自分の先祖の系統(皇統の所謂歴史)を編纂するのに、不信で不明な皇統歴史を、自ら著述編纂したのでしょう?あなたの日本書紀論は「変だけど正式公式な正史」とアプリオリしているようです。
史書は公私を問わず、己の正統性・正義を同時代と後世に訴えるものだと思いますが。書紀の編纂者たちは、手元の内・外国史料のエポック的エピソードなり、名高い卑弥呼・日出る天子のエピソードをなぜ書かなかったのでしょうか?なぜ救世観音の頭に光背を直接取り付けたのか?など。貴方は木を著述されていますが、定説の森の中で迷っている様に読めます。読んでいて歴史の混迷に私を誘っているようです。

2014/1/1(水) 午前 2:30 [ soure88 ] 返信する

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追)神武元年を辛酉説で正統化する為に企画著述された?また、なぜ書紀の中に、各金石文に見える「年号元号」が書かれてないのか、この様な初歩的疑問が貴方の著書では、解りません?「法興」に、私年号・偽年号?と書かれていますが、まず、時代の金石文は衆目に曝されますので、「元号」は時代の権力者が発布したとして、考察に入るのが方法論ではないでしょうか。貴方はすぐ先行学者の学説の範疇に拠られているかのようです。救世観音・百済観音・法隆寺に関しては、定説の森の木々をくっつけてるだけの様にも読めます。
読んでいて所詮、正史・書紀の正義・正統性さの主張の混迷の中に惑わされるばかりです。
思うに、書紀は過去を解析混迷塗固するためにその様に編纂されたのではないですか?
自らを判り易く明晰に記述でいない状況の時代だったのではと思いもします。「大宝建元の権能」を得たけれど、昨日までの事は、書けない、書くとやばいと。倭国中の有力者知識人武人などは百年位の歴史を知っているのですからと、考察を始められるのは、どうでしょう?

2014/1/1(水) 午前 3:17 [ soure88 ] 返信する

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倉西さま。私のブログです。
王の名前が「多利思北孤」について↓。
「比」ではありません。
<http://yourehazauei.at.webry.info/201311/article_11.html>
・・・・・
倭王、多利思北孤は聖徳太子か↓。
<http://yourehazauei.at.webry.info/201311/article_12.html>
ですが、勝手ながら・・・
原文改変・或いは、都合よく解釈する、ような、貴方様の本からの感じですので。つい・・・

2014/1/2(木) 午前 9:00 [ soure88 ] 返信する

source88さま
「多利思比孤」の「比」は、「比」が定説です。しかしsource88さまのご指摘のとおり、原文を見ますと、「北」ともよめそうです。「比」を「北」と誤写した可能性が高いのではないかと考えますが、仮に「北」であるのでしたならば、「北孤」で「ほこ」とよむとも考えられます。記紀には、’天の日ほこ’という名もでてきますので、「ほこ」ともよめそうです。

2014/1/2(木) 午前 10:34 [ 倉西裕子 ] 返信する

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「卑弥呼」の誕生と「邪馬壱国」
紀元前の時代、大陸山東半島の東海に倭国という統一国がありました。倭国とは、アメリカに「美国」と名付けたように、韓半島からの渡来人と倭人との連合統一に対して古代中国が島国につけた国名です。
その倭国に「始皇帝」から膨大な援助を受け、倭国を征服して「始皇帝」体制内にすると大船団を率いた「徐福」が来ましたが、制服には失敗しました。しかし、倭国に上陸しました。 そして、ある手段を用いて、倭国統一王を拘束し自勢力内に軟禁しました。自勢力内となった倭国統一王の権力を「徐福」が代行して代行倭王位につき、その後継に「卑弥呼」が代行倭王位につきました。その「卑弥呼」の国が筑紫平野の「邪馬壱国」です。
「卑」の意味が、倭国統一王を拘束したこと。「弥」の意味が、倭王権を代行したこと。「呼」の意味が、倭国を治めたこと、です。

2019/6/10(月) 午前 8:13 [ qqw***** ] 返信する

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