歴史問はず語り

日本史と世界史にまつわる不思議について語る倉西裕子のブログ

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新年のご挨拶

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謹んで新年のご祝詞を申し上げます。

 旧年は、拙いブログでありながら、歴史問わず語りの記事をお読みくださり、まことにありがたきことと、心より御礼申し上げます。本年もまた、皆様方のお役に立ちますような記事を書いてまいる所存でございますので、何卒、よろしくお願い申し上げます。

 本年が、良い年となりますことを願って

    しろたへの 雪のころもを かさね着て 春のあさきに むめの咲きそふ



 
 *お正月の三が日はお休みとさせていただきまして、本年のブログは、1月4日から再開する予定でございます。

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 NHKの大河ドラマ『平清盛』については、「平清盛を英雄に描く」というコンセプトでドラマを制作するという報道があった時点から、既に違和感を覚えた人は、少なくはなかったのではないでしょうか。平清盛は、『平家物語』によってもよく知られているように、「悪者は、たとえ一時期は栄えても、いずれは滅びる」という点において、反面教師として、日本人の倫理観に多大な影響を与えた人物と言えるのですが、具体的にどのような点において悪者であったのか、と言いますと、以下のようにまとめることができます。
 
1)国家の要職を平家一族で独占した(現在で言うなれば、独裁と権力私物化)
2)密貿易を取り締まる役職にありながら密貿易を行った(現在で言うなれば、警察が自ら犯罪を行っている。国家公務員法違反・背任罪)
3)中国との貿易を独占した(現在で言うなれば、独占禁止法違反)
4)刀剣を中国に贈った(現在で言うなれば、外患誘致罪)
5)「かむろ」と呼ばれた国民を監視する密告青年団を組織した(現在で言うなれば、秘密警察による国民監視)
6)自らの孫の安徳天皇を即位させて、外祖父の立場を利用して皇室の私物化を図った
7)大量の中国貨幣を輸入し、悪性のインフレーションを起こさせた
 
このように、平清盛の悪行を整理しますと、これらの7点を理解している誰の頭にも「平清盛を英雄に描く」という発想は、出てこないのではないでしょうか。「平清盛は英雄ではなく悪人である」というのが、日本人として、また人間としてあたりまえの一般常識なのです。NHKが 仮に少しでも日本史をかじっていれば、これらの7点は容易に認識しえたはずです。にも拘らず、英雄化のコンセプトから大河ドラマを作製していたとなりますと、NHKとは、いったいどのような人々によって構成されているのか、大変疑問に感じます。このコンセプトは間違っている、ときちんと指摘した職員は、いなかったのでしょうか。政治倫理がまったく欠落している人々、平清盛が敷いたような独裁体制をよしとするような人々がNHK職員であるのならば、我が国の公共放送が、このような人々によって運営されていることとなり、平家の支配に優るとも劣らない、まことに恐ろしいことです。大河ドラマに影響されて、“権力さえ掌握すれば英雄になれる”と考える人々が増えることを、懸念せざるをえません。
公共放送は、我が国が国是として掲げる政治的価値である民主主義、自由、法の支配、平等・公平などを尊重する国民の育成に貢献すべき立場にあります。平家の時代を生きた人々の苦しみに思いをはせず、いたずらに平清盛を英雄視するNHKの制作姿勢には、少なくとも私は、Noを言いたいと思います。ちなみに、「平清盛を英雄に描く」というコンセプトを間違っていると考える私は、一度も、大河ドラマ『平清盛』を視聴していません。

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 弥生時代、三世紀の我が国についての記録である『魏志』倭人伝に登場する女王・卑弥呼については、枕詞のように「邪馬台国の女王」という表現が、よく用いられています。

 「邪馬台国の女王」と表現してしまいますと、卑弥呼は邪馬台国という一ヶ国の女王であったといったイメージを帯びてしまうことになり、多くの人々が、卑弥呼は邪馬台国の女王であると信じているかもしれません。しかしながら、『魏志』倭人伝をよく検証してみますと、以下の点から、卑弥呼は、「邪馬台国の女王」ではなく、「女王国の女王」であると表現したほうが、より史実を反映したものとなる可能性が見えてきます。

 第一に、『魏志』倭人伝では、卑弥呼を女王として擁立して纏まっていた倭諸国三十ヶ国を総称する場合は、「女王国」、もしくは「女王」という表現が用いられています。

 第二に、「邪馬台国」という用語は、「至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」という文章のなかの一箇所のみしか用いられていません。

 第三に、「至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」という一文をよく検証してみますと、邪馬台国は、女王・卑弥呼が、居住していた倭諸国三十ヶ国の一国と解釈するほうが、より蓋然性がありです。倭諸国三十ヶ国を今日の都道府県に擬えるならば、邪馬台国は、首都の東京であるということになるでしょう。

 第四に、『後漢書』でも、「邪馬壹國」が出てまいりますが、「大倭王居邪馬壹國」と表現されており、ここでも、「邪馬壹國」は、盟主が居していた場所とされているのです。

 このような点から、邪馬台国は倭諸国三十ヶ国の統合を象徴する都であったと考えられるのです。古代の都といいましたならば、「大和(やまと)」であることは、言うまでもありません。仮に、「邪馬台国」が「やまと」と訓じるのならば、今日の奈良県が、古代の都であって、古来「やまと」と称されてきたことと合致することになります(ただし、『日本書紀』では、「大和は国のまほろば、…」と詠じた日本武尊の有名な「国しのびの歌」が、日向で詠まれたことになっていることが、気にかかる点で、首都の所在地問題は、やや複雑に推移したとも推論できます)。

 いずれにせよ、固定観念にとらわれず、卑弥呼を「女王国の女王」として考えてゆくことで、弥生時代の実像は、より明らかとなってくるのではないでしょうか。

 追記:最新の拙著『吉備大臣入唐絵巻 知られざる古代中世一千年史』(勉誠出版、二〇〇九年)にて、弥生時代の我が国の様子についても論じてみました。ぜひ、ご一読いただけましたならば、幸甚でございます。

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  昨今、NHKのプログラムや新聞記事などで、蘇我氏は百済と親しかったとする説が定説のごとくに語られているようです。しかし、本当に蘇我氏は百済と親しかったのでしょうか。

 欽明十三年(五五二)に百済聖明王から我が国にもたらされた仏像は、宮中において祭ることができなかったために、蘇我大臣稲目宿禰が、その仏像を譲り受け、その邸宅を寺となして祭っています。また推古元年(五九三)に、蘇我馬子宿禰は、百済僧によって受戒されるとともに、善信尼らを学問僧として百済に留学させています。こうした点から蘇我氏親百済説が唱えられていると考えられますが、ことに六世紀末から七世紀初頭となってきますと、蘇我氏は、以下の点からは、むしろ親新羅派に属すようになっていたと推論することができます。

 第一に、大宝蔵(だいほうぞう)殿(でん)の北倉(ほくそう)に戊子年銘釈迦三尊像(ぼしねんめいしゃかさんぞんぞう)という蘇我氏が造顕した仏像があることです。この仏像の光背には四行四十八文字からなる造像記が刻まれおり、「戊子年十二月十五日」「嗽(そ)加(が)大臣」と見えることによって、「戊子(つちのえね)」の年の推古三十六年(六二八)に、蘇我大臣(蘇我大臣蝦夷か?)が造ったことが、はっきりしています。仏教美術の様式学から見れば、この仏像は、新羅を経由して伝わっていた北朝様式の仏像なのです。新羅の仏教美術は北朝様式、百済の仏教美術は南朝様式という明らかな違いがありますので、蘇我氏の造顕した仏像が北朝様式であることは、蘇我氏と新羅との親しい関係を示唆しています。

 第二に、崇峻元年に建立された蘇我氏の氏寺、法興寺には、推古十三年になって止利仏師によって造られた丈六仏が本尊として安置されますが、今日、「飛鳥大仏」と呼ばれているこの仏像も、北朝様式の仏像です。飛鳥大仏を作った止利派の作風は、北朝様式なのです。

 第三に、西暦六四五年に乙巳の変をおこして蘇我宗家を滅亡させた中大兄皇子(後の天智天皇)が、その父帝の建立された寺院が百済大寺で、遷宮された最後の宮が百済宮であること、また自身の百済救援事業に象徴されるように、明らかに親百済派であることです。天智天皇と蘇我氏の間には、親百済と親新羅のコントラストを認めることができるのです。

 このような点から、殊に七世紀に入ると、蘇我氏は親新羅の立場を明確にしていたのではないかと考えられるのです。七世紀初頭に中国大陸では、唐が成立してきます。東方積極策を画した唐は、新羅と同盟を結んで百済を挟撃する計画を立てます(高句麗を攻めるために、百済を橋頭堡として確保するため)。このため、百済と新羅が決定的に対立する状況が発生したのです。六世紀においては、倭国内で百済と新羅は仏教派を形成しており、両国間の対立よりも、神仏の対立のほうがより重要な対立問題となっていました。しかし七世紀という激動の時代を迎えて、我が国の皇族、豪族たちは、安全保障、ならびに外交政策上の立場から、親百済、もしくは親新羅といったように、それぞれ軸足を定めなければならなくなったのです。

 拙著『救世観音像 封印の謎』(白水社 二〇〇七年)は、こうした奇奇怪怪の七世紀の内政・外交問題について論じています。ご興味がありましたなら、ぜひご一読ください。

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 マヤの時代区分における「第五の太陽の時代」のはじまりの年は、紀元前3114年と西暦750年のどちらが正しいのでしょうか。

 紀元前3114年説ですと、四年後の2012年12月22日に太陽の磁場の変化によって、天変地異があることになります。これが、「マヤの予言」とも呼ばれるもので、メディアにも大きくとりあげられました。

 しかしながら、わたくしは、750年説が正しいのではないかと考えています。その理由は、『クアウフティトランの年代記』には、有名な予言が記されていたからです。

 それは、1519年にケツァルコアトルという神が再来するという予言です。1519年にスペインからコルテスがやってきた時に、アステカ王は、てっきりコルテスをケツァルコアトルのことであると思い込んだそうです。

 確かに、コルテスの色が白くて、顎鬚を生やした容貌は、伝説のケツァルコアトルと一致していました。また、生け贄という野蛮な行為から、人々を解放するというケツァルコアトル伝説は、征服との批判はありつつも、コルテス以降の歴史によって実現されてもいます。

 この一例をもって、『クアウフティトランの年代記』のほうが正しいと断言することはできませんが、歴史に残る不可思議な事件だけに、信憑性があるように思います。仮に、『クアウフティトランの年代記』が正しければ、「マヤの予言」は、1159年に既に完結していることになり、西暦2012年を心配する必要は無いことになります。

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