日本史跡研究会 日々の徒然(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介できたらと思います。研究会イベントも年数回開催しますので、コメントいただけたら幸いです。

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 さて、一行が目指した埋もれた史跡……それは、


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  関東郡代屋敷跡(中央区日本橋馬喰町2丁目付近)

 関東郡代の役職は代々伊那氏が世襲し、関東一円及び東海方面の幕府直轄地(天領)の年貢徴収、治水、領民紛争の処理などを管理しました。

 関東郡代の役宅は、初め江戸城常盤橋御門内にあったが、明暦3年(1657)、明暦の大火で焼失し、この地に移転しました。

 寛政4年(1792)、伊那忠尊が改易されると、勘定奉行が関東郡代を兼任する形でこの屋敷に居住しています。

 文化3年(1806)、屋敷は焼失し、代官持ちとなり再建された後は馬喰町御用屋敷と改称されています。


 遺構は全く残らない「関東郡代屋敷跡」の案内板は、浅草橋のたもと日本橋女学園隣の交番そばにありました

 一行は浅草橋を渡り、台東区へ すると、


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  浅草見附跡(台東区浅草橋1−1)

 寛永13年(1636)、江戸城の警護のため36箇所に設けられた見附のひとつ。(見附=敵を見つける場所という意味合いがありますが……知ってらっしゃいますよね

 浅草御門と呼ばれ、桝形門が築かれており、警護人を置いて浅草観音や遠くは奥州へ往来する人々の取り締まりに当たった。

 明暦3年(1657)、明暦の大火の際には、伝馬町牢屋敷内の囚人の逃亡を防ぐために門は閉ざされ、避難路を断たれ数多くの死者を出したと伝えられます。


 実は、この「浅草見附跡」の石碑ですが……研究会会員に存在を教えられました時間的にブレイクで、視線は喫茶店の看板を探し、きょろきょろしておりまして……全く気付かずに素通りするところでした(本当に感謝の一言です

 「いやぁ、良かった良かった」と次の目的地を目指す道すがら、行列の出来たたい焼き屋さんを発見有名なたい焼き屋さんのようで、参加した女性陣はパクパクその後、喫茶店でしてまったりしてから、


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  銀杏岡八幡神社(台東区浅草橋1−29−1)

 創建年代は不詳であるが、奥州征伐に向かう途中の源頼義・義家が当地に銀杏の枝を差して戦勝祈願し、その帰途の康平5年(1062)、八幡神社を創建したと伝わっています。

 江戸時代には福井藩松平家の屋敷地となり、松平家の邸内社となったのだが、享保10年(1725)、幕府に屋敷地は公収されました。その後、福井町の産土神となったと伝わります。


 この後、再び領国に戻り懇親会なんですが、その途中にもあるものです。史跡ってものは


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  浅草文庫跡碑(台東区蔵前1−4−3)

 明治7年(1874)七月、官立の図書館として創設された。明治8年(1875)、開館し、和・漢・洋の蔵書十一万余とも十三万余冊とも言われる本が閲覧できたという。

 明治14年(1881)五月、閉鎖されたが、蔵書は国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、東京国立博物館などに所蔵され「浅草文庫」の朱印が押されています。


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  首尾の松(台東区蔵前1−3)

 首尾の松の由来には諸説ある。

 ①寛永年間(1624〜1642)、隅田川が氾濫したとき、徳川家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、列中
   に伍している中から進み出て、人馬もろとも川中に飛び入り見事に対岸に渡りついた。これを賞して勘気を
   解いた。その傍らにあった松を「首尾の松」と称した
 ②吉原に行く人々が隅田川を遡り山谷堀に入り込む途中、松影で「首尾」を語ったことから。
 ③「ひび」の訛りから転じたとする説。この辺りで海苔を採るため「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となった

 安永年間(1772〜1780)、初代・首尾の松は風災に倒れ、安政年間(1854〜1859)、二代目も枯れ、現在の松は七代目である。

 碑は昭和37年(1962)建立されています。


 以上、平成27年度 第1回博物館研修の全日程は終了し、両国・ちゃんこ屋「霧島」において懇親会を行いました。ごっちゃんです


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