日本史跡研究会 日々の徒然(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介できたらと思います。研究会イベントも年数回開催しますので、コメントいただけたら幸いです。

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   【瑞蓮寺】       評価  

  別   名:       ―――
  所  在 地:   笛吹市一宮町田中
  築城年代:  
  築 城 者:    
  区   分:        館
  現   状:       瑞蓮寺




 笛吹川・重川・日川・御手洗川が合流する地域であり、その氾濫原であるため度々水害を受けた地帯ですが、甲州街道の栗原宿・名和宿の中間で交通上の要地に「瑞蓮寺」はあります。

 田中郷は戦国時代に見える郷名で、『大善寺文書』文明5年(1473)12月7日の「栗原代官寄進状」に、「田中郷之内年貢一貫文 作人道顕之前」とあり柏尾山に寄進されています。

 この田中郷一帯は栗原信重の所領であったが、享禄4年(1531)、栗原兵庫の代に武田信虎に反抗し、飯富兵部、今井信元、大井信業等国人と図り、蜂起したが鎮圧され勢力を失った田中郷は武田氏に没収されたようである。

 
 瑞蓮寺伝では、天正9年(1581)、信州佐久郡岩村田の西念寺から当地に武田信玄の命で来ていた胤誉上人によって開山されたとある。本尊・阿弥陀三尊は武田家累代の御持仏と伝えられる。

 このことから、栗原氏統治時代を含めて、この地には豪族の館があり、その跡地に寺が創建されたとも考えられるのだが、館主は不明である。




 瑞蓮寺裏手に土塁跡が残されています。道路は堀跡と思われます。




 境内には、享保13年(1728)、大水害の際に癩病の夫を助けようとして共に落命した「節婦要女墓」があります。

 また、瑞蓮寺参道は石臼を敷いたもので見事です。




  〔参考文献〕
   甲斐の山城と館  上  北部・中部編     宮坂 武男 著       戎光祥出版


   【瑞蓮寺】       評価  

  別   名:       ―――
  所  在 地:   笛吹市一宮町田中
  築城年代:  
  築 城 者:    
  区   分:        館
  現   状:       瑞蓮寺


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 笛吹川・重川・日川・御手洗川が合流する地域であり、その氾濫原であるため度々水害を受けた地帯ですが、甲州街道の栗原宿・名和宿の中間で交通上の要地に「瑞蓮寺」はあります。

 田中郷は戦国時代に見える郷名で、『大善寺文書』文明5年(1473)12月7日の「栗原代官寄進状」に、「田中郷之内年貢一貫文 作人道顕之前」とあり柏尾山に寄進されています。

 この田中郷一帯は栗原信重の所領であったが、享禄4年(1531)、栗原兵庫の代に武田信虎に反抗し、飯富兵部、今井信元、大井信業等国人と図り、蜂起したが鎮圧され勢力を失った田中郷は武田氏に没収されたようである。

 
 瑞蓮寺伝では、天正9年(1581)、信州佐久郡岩村田の西念寺から当地に武田信玄の命で来ていた胤誉上人によって開山されたとある。本尊・阿弥陀三尊は武田家累代の御持仏と伝えられる。

 このことから、栗原氏統治時代を含めて、この地には豪族の館があり、その跡地に寺が創建されたとも考えられるのだが、館主は不明である。


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 瑞蓮寺裏手に土塁跡が残されています。道路は堀跡と思われます。


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 境内には、享保13年(1728)、大水害の際に癩病の夫を助けようとして共に落命した「節婦要女墓」があります。

 また、瑞蓮寺参道は石臼を敷いたもので見事です。


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  〔参考文献〕
   甲斐の山城と館  上  北部・中部編     宮坂 武男 著       戎光祥出版


    【滝沢馬琴生誕の地】

  所在地: 江東区平野1−7−8付近


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 滝沢馬琴は、日本古典文学最大の長編作『南総里見八犬伝』の作者として著名な人物です。

 明和4年(1767)6月9日、旗本・松平信成の用人を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平邸内で生まれました。名は興那。

 安永4年(1775)、僅か9歳で父と死別その後、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていましたが、安永9年(1780)、14歳の時に松平家を去り、門前仲町に住みました。

 寛政2年(1790)、文筆で身を立てようと山東京伝に入門し、寛政3年(1791)、京伝門人・大栄山人の名で処女作『尽用面二分狂言』を発表。これ以後、儒教思想に基ずく教訓・因果応報による勧善懲悪を内容とした作品を次々と著し、読本作家の第一人者と世の中で称されました。

 しかし、天保5年(1834)頃より目を患い、晩年には失明しながらも、口述・代筆で多くの著作を残しました。
『南総里見八犬伝』は、文化11年(1814)から天保12年(1841)の28年間・106冊書かれました

 曲亭馬琴・著作堂主人などと号した馬琴は、嘉永元年(1848)11月6日、82歳で病没しています。


 江戸時代の文化史に輝かしい業績を残し、現代にその名を残した滝沢馬琴 歴史上の偉人として記憶しておきたい人物です。


  〔参考文献〕
  江東区の文化財 5 木場               江東区教育委員会





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 藩主・上杉鷹山が藩財政再建のため、下級武士・相良清左衛門厚忠に陶芸を学ばせた。厚忠は米沢藩の御用窯「成島窯」を築いた人物として知られます。

 寛政年間(1789〜1801)、藩の役目を退いた厚忠は伏見人形や堤人形に影響を受け、屋敷裏の粘土を使い人形制作を開始します

 相良家では代々同じ場所・同じ粘土と技で人形の制作を続け、「花巻人形」「堤人形」とともに『東北三大人形』に数えられるほどとなった。最盛期は文化・文政年間(1804〜1830)から明治時代。

 戦争によって一時廃絶するが、昭和42年(1967)、相良家10代目・相良隆氏が復興現在も人形作成がされています。

 「獅子持ち童子」が相良人形を代表する製品ですが……近年では「蛸乗せ猫」が雑誌で紹介され人気です。

 
  〔参考文献〕
   ふるさと玩具図鑑                 井上 重義          平凡社

    【関東郡代屋敷跡】      評価  

  別   名:    馬喰町御用屋敷
  所 在 地:  中央区日本橋馬喰町2−7
  築城年代:    明暦3年(1657)
  築 城 者:     伊奈忠治
  区   分:      屋 敷
  現   状:     校有地など


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 明暦3年(1657)、明暦の大火で焼失した江戸城常盤橋御門内の屋敷に替わり、この地に新たに関東郡代・伊奈忠治の江戸屋敷として築かれた。

 関東郡代は伊奈熊蔵忠次以後十二代に亘って伊那氏が務め、関八州の天領を管轄し、年貢の徴収・水利・新田開発などにあたっています。

 千住大橋(忠次)、備前堀(忠政)、利根川・新川・荒川の開削(忠治)、幸手・葛西用水の開削(忠克)、両国橋修築(忠常)、永代橋架橋(忠順)等々、関東郡代・伊奈氏の功績は数多くあります

 また、宝暦4年(1707)、七代・忠順は富士山噴火の際、復旧工事や被災者救済に尽力。天明7年(1787)、十二代・忠尊は天明の大飢饉に端を発した江戸打ちこわしの際には、諸国から米を買い集めて江戸市中に大放出するなど民政家としての伊奈氏の評価は高い

 ですが、寛政4年(1792)、伊奈忠尊は養子問題(忠尊は十一代・忠敬の養子となり、伊奈氏を継いでいましたが、その後忠敬に実子・忠善が誕生したことから家督争いが起こります)や自身の不行跡、家内不始末を理由に関東郡代を罷免され、伊奈氏は改易された。

 この背景には伊奈氏の権威を阻みたかった幕府の思惑もあったようです。しかし、伊奈氏歴代の関東郡代としての勲功は大きく、幕府は十七歳の伊奈忠盈に名跡を継がせ、武蔵國秩父・常陸國信太郡内に1000石を与えられ小普請に任じられ、旗本として存続しています。

 伊奈氏が改易された後の関東郡代屋敷ですが、勘定奉行・久世丹後守広民が関東郡代を兼務し、その役宅となりました。

 文化3年(1806)、焼失したことによって廃されましたが、文化14年(1817)、代官持ちの馬喰町御用屋敷が設置されています。


  〔参考文献〕
   中央区 歴史・観光まち歩きガイドブック                 中央区
   伊奈町史 別編 伊奈氏一族の活躍                   伊奈町
 


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