越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

京都見物

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《京都見物 番外「幕末の影武者」本間精一郎、木屋町通で斬殺される》

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有馬寛著、恒文社刊「幕末の影武者ー本間精一郎の生涯」

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同書に掲載されている本間精一郎の面影を伝える肖像画。

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本間精一郎が文久2年閏8月に暗殺されたあと、京都の賀茂川河原にさらされた梟首(きょうしゅ)。(「感肝帖」の首級図より)とある。

旅の順序に従ってブログアップしてきましたが、高瀬川の図には記録されていなかった越後・寺泊出身 の勤皇の志士本間精一郎の斬殺された場所ですが、帰ってから有馬寛著、恒文社刊の「幕末の影武者ー本間精一郎の生涯」を改めて読むにつけ、扉の写真に目を通しましたら、なんと、立誠小学校校門前に掲げられていた高瀬川の地図が、同書にも掲載されていて、本間が斬り殺された場所が示されていました。そこで、「京都見物 番外」として、少し「幕末の影武者」から、本間の姿を紹介してみようと思います。

同書によれば、この高瀬川の図は、「寛政13年東高瀬川全図」の一部のようです。本間は、斬殺されたのは、立誠小学校の高瀬川を挟んで斜め向かい、二ノ舟入橋(紙屋橋)畔のようです。

さて、22年前の1984年5月10日に出版された同書は、名文であり、よく本間精一郎の足跡を調べ上げて書き上げられた小説ですが、当時の風潮では、今日ほど、政治の腐敗から政治改革の必要性が叫ばれ、ともすれば倒閣の機運がみなぎっていたわけでなく、今、この書が出版されていたら、もっと違った評価がなされていただろうと思っています。

本間精一郎といっても、すでに地元の人にさえ忘れ去られようとしている時代、全国的には決してメジャーな存在ではありませんが、一地方から青雲の志を抱いて出奔した本間について、同書のカバーに記された一文を紹介してみます。

「幕末、諸国に“草莽の志士”と呼ばれる青年たちが輩出した。越後寺泊出身の本間精一郎は、炎に燃える魂の命じるままに時代を駆け抜け、確かな足跡を歴史に刻んだ。血で血を洗う闘争の中で、惨事に遭い、凶刃を闇に受けた。梟首(きょうしゅ)されたあと、歴史は彼を裏切り者の汚名を被せた。だが、果敢な生きざまを追えば、一人の真摯な志士の姿が見えてくる。本書は、剣法、儒学の達人ながら、終始、浪士として、尊王の大義のために、ひたすら純粋に行動した熱血漢・本間精一郎の波瀾に満ちた生涯を、新進気鋭の作家が綿密な時代考証を経て描いた、長編歴史ロマン!」

 機会を見て、また同書を通じて知った本間精一郎像を紹介したいものと思います。

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