|
ここ中野地域は、今では東、中、西の三地区に分かれているが、もともとは一つの集落で、現在、この地域に住む人々は、中世以降、近世に入植した人びとの末裔で、古代の歴史はほとんど記憶さ 越後平野の沖積地に住む人々同様、この地域は「昔海だった」と信じて疑わず、圃場整備事業などで、排水路の掘削や、畑の取り崩しなどで、須恵器や土師器の破片が大量に出土するのを見て、初めて、奈良・平安時代の昔から、広い地域に人びとが進出して、開墾していたことを理解する程度だ。 さて、中野の各集落を表面採集して回り、いよいよ、中野東の集落の東と西を歩いた。東は、これまでにも報告の通り、微量にとどまっている。 しかし、西側は、江戸時代の古地図を見ても畑が多く、畑を取り崩したところから、須恵器、土師器、時には中世の珠洲焼の破片が出土している。 今回、南北に走る町道中野大口線と幹線排水路のさらに西側に足を踏み入れた。南の地域で、古代の須恵器、土師器の破片を採集できる畑や水田があったからだ。想定通り、東西に掘削された排水路の現場から、写真のような遺物が 中野地域では、まだ古墳時代の遺物は微量しか確認されていないが、少なくとも、奈良・平安時代には、スケールの大きな遺跡の展開が見られ、ともすると中之島地域の中心的な集落の一つだったと考えられる。 大きな船が開発されて、信濃川、刈谷田川の船運が盛んになり、次第に中之島側の中之島町や、見附側の三林町など、刈谷田川の船着場が栄えるようになったのだろうが、それまでは、中野の開発が著しい。まだ、墨書土器など、官吏の役所的な遺跡は見つかっていないが、今後の調査の進展が待たれる。それにしても、長岡市の同地域の遺跡調査は、あまりにもずさんで、せっかくの沖積地における古墳時代、奈良・平安時代、そして中世の発展経過を知るサンプルとなるのに、ほとんど破壊されたことは残念なことだ。 下に参考のため江戸時代の延享二年の「中野東の絵図」を添付する。左側が南、右側が北になる。中野東の畑、水田、居屋敷、あるいは中野中の畑、居屋敷などが、遺跡のあった場所と注目されるのだが、いまは畑は姿を消している。 注 はじめの地図と延享の絵図は拡大してご確認ください。 |
全体表示
[ リスト ]





お久ぶりです。土器片がゴロゴロしていますね〜。うちの近所にも田んぼがありますが、観察してみます。でも、土器片がもったないですね〜。
2009/3/22(日) 午後 10:22