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明治35年に建てなおされた新羅王の石碑 新羅王の墓。高さ60センチほどの自然石で、酒を掛けるのは、新羅王を祀る丘主の海津和恵さん 新羅王の墓の傍にある夏でも枯れない清水 海津政春さん方の近くの排水路から採集した古式土師器の高坏の脚部など 《新羅王の墓碑を祀る村「竹ケ花」》きよう6月14日、燕市分水地区の竹ケ花で、海津一族によって、昔から祀られている新羅王の墓や石碑などの前で、恒例の祭りが行われるというので、見学してきた。 同集落は、いまでこそ19軒中、15軒が海津一族だが、昔はすべて海津一族だったという集落。段丘の上の部分に、新羅王の玉垣に囲まれた石碑と、自然石の墓がある。 また、参列者が酒を飲み交わしている間に、周辺を歩いて、古墳時代の高坏の脚の部分を発見した。まだまだ遺物はあるだろうと思うが、きょうのところはそこまでで帰ってきた。 |
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新羅王の墓‥ですか。興味ありますね。初めて知りました。追跡レポ期待しています。
2009/9/6(日) 午後 3:17
前期古墳という説もありますね。まだ、未確認らしいけど。
2009/10/9(金) 午前 5:13 [ muk*gea*199* ]
大変ご無沙汰してました。
この新羅王の墓の年代とかわかりましたか?
とても興味ありますね。
4〜6世紀とかでしょうか?
金石文を見てもよくわかりませんでした。
早期新羅(または、伽耶)から北陸への移住というのは、活発に行われたようですね。!?
2009/10/11(日) 午前 9:54
持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人を下野国に、新羅の百姓の男女を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。
霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。
新羅では755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。
このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた。
しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は太宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。
翌年には、帰国を希望しなかった新羅人を武蔵国に送った。
朝鮮後三国時代の終わりの935年に新羅は滅亡し、多くの流民・棄民・難民が発生した。
2012/7/7(土) 午後 2:38 [ 丸子実業高いじめ殺人判決は大誤審 ]