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〈御館の乱に敗れた景虎方の中世山城のひとつ見附城〉
直江兼続を主人公にしたNHK大河ドラマ「天地人」もいよいよ佳境に入ったようですが、ここ越後・蒲原平野の東は、上杉景勝に敗れた側ですので、観光業者は、なんとかブームにあやかろうと努力していますが、歴史を知るものには、いささか負い目があります。すでに舞台が、越後から会津、米沢へと展開しているので、もう、景勝に敗れた景虎側の歴史探訪も解禁(?)というところで、まずは、蒲原平野に面した、見附市元町、見附城の麓の遺跡採集の報告をします。山城の研究者はいますが、地方では、なかなか麓の根古屋をはじめ、平素、人びとの住んでいた屋敷跡などの探訪を続ける人は少ないのが現状です。集落遺跡の上に、現在も住宅が建っていて調査しにくいせいもあるでしょう。丸田氏が拠ったといわれる見附城についても、以前から、麓にある総持寺や、山の中腹から総持寺の並びに遷した元町神社などがあり、更正図に残る地名「城ヶ根」「馬場」「古城口」「楯(館)谷通り」などの位置が想定されています。総持寺よりも上手の集落の段丘を利用した水田の崖下から、以前、青磁碗、珠洲焼片などを採集していますが、今回は、下手の内町、元町集落の周辺を歩きました。
幕末に活躍した三条市出身の画家、村山半牧の自決した場所に「村山半牧墳」が建てられていますが、その上手の水田畦から珠洲焼の甕片が採集されました。採集地点と出土状況が左の2枚の写真です。その下の写真の遺物は、左が、総持寺前の畑から採集した須恵器片の内側、右が今回採集した珠洲焼片の外側です。
村山半牧についての地元見附市教育委員会が建てた案内板です。下が、自然石に半牧方士墳と刻まれた墓石です。「小須戸町に生まれ」というのは、誤りで、三条市で生まれたと言うのが識者の説です。それはそれとして、勤皇の志士で、幕府軍に追われて、京都からふるさと三条に帰りましたが、追われる身で、三条市片口村の庄屋、松尾与十郎の世話で、見附市内町の近藤家に身を隠しましたが、裏山の竹やぶで自決して果てました。もう少し生きていれば、時代は勤皇の時代に入ったのですが。
楯谷通りには入りました。一般住宅の庭の紅葉やドウダンツツジが色付きはじめていました。通りの奥は一般住宅で行き止まり。庭を抜けて、山に入る道があるのだそうですが、気が引けたので、左手の麓にある共同墓地に、関係者の許可を得て入りました。新しい墓が並んでいたのですが、自然石の間に、宝篋印塔の残欠が埋められていました。これだけではなかなか時代が分かりませんが、時代物ではあるようです。ほかには五輪塔などの古いものは見当たりませんでした。
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