〈以仁王の伝説〉ブログアップが遅くなったが、10月11日、奥会津・大内宿へドライブしてきた。
後白河法皇の第三皇子で、平家追討の令旨を出しながら、計画が事前に漏れて、平氏の追っ手に討たれて死んだとされる三条高倉の宮以仁王だが、遺骸が発見されなったため、生き延び、都落ちしたという伝説は各地にあるといい、一説では、群馬の沼田から尾瀬沼を通り、大内宿など会津に入って、越後の八十里越を経て、吉ヶ平から、平成の大合併で、長岡市と合併した刈羽郡小国町に落ち着いたという。鞍掛峠の難所などのある八十里越は、平成の大合併で、三条市となった旧下田地区と福島県奥会津との県境で、昔から、話には聞いていたが、見附市から、平成の大合併で長岡市となった旧中之島町などに伝わる池大納言伝説と同様で、確たる史実があるわけでなく、さして気にも留めていなかった。ただ、このごろ、遺跡を訪ね歩く中で、その話が伝説に過ぎないとしても、それぞれの古くから開けていた土地、少なくとも、古墳時代以降、奈良・平安時代、そして中世の遺跡が存在する地域に、それらの伝承が伝えられてきた理由が何なのかを考えてみる必要があるように思われてきた。蒲原平野は、越後丘陵や西山丘陵、弥彦山塊などに囲まれたデルタで、大河信濃川や五十嵐川をはじめ中小河川の運ぶ土砂の堆積によって、肥沃な平野が広がってきたが、しかし、それゆえにいつも洪水や地震などの災害に見舞われてきた。だが、それらの肥沃な土地を開拓してきた先人たちの多くは、ほかの地域から入植してきたと思われる。そうした人たちの間で、当然祖先を思い、祀る習慣が生まれても不思議はない。その中で、幾つかの伝説が生まれてきたのではなかろうか。以仁王の伝説は、義経伝説などとも同様に語られているし、平安時代の越後の支配者城氏はじめ、平家滅亡の挽歌でもあるのかもしれない。
そんな思いで、南会津の旧街道の宿場町、大内宿と、その集落の南の丘陵縁辺にある以仁王伝説の高倉神社(高倉大明神)を訪ねた。近世初期に造られたとする大内宿の面影を伝える街並を訪ねる観光客は多いが、高倉神社まで足を運ぶ人はほとんどいなかった。しかし、高倉神社の境内は、古刹らしい霊気が漂い、むしろ観光化の外に置かれていることがうれしかった。
もちろん、尾瀬沼に至り、なぜ一端、会津に抜けたのか。平家落人伝説の残る桧枝岐に至れば、むしろ、越後の魚沼地方、銀山平に出て、小国を目指したほうが近いはず。もちろん、そのときの「以仁王」を支持する勢力、逆にもしも以仁王であればこれを討ち取って手柄としたい勢力など、それぞれの地域には、それぞれの事情もあったのだろうが。ともかく、八十里越を越えた以仁王は、下田吉ヶ平から、五十嵐川下流部の三条に出ないで、わざわざ加茂に出たという。この加茂には、古墳などや経塚などもある、古くから開けた加茂山に、古刹青海神社がある。ここを経て、信濃川に出て、小国へ向かったとするのだが、越後でのルートははっきりしない。ともかく、参道を歩き、拝殿でお参りして、再び大内宿へ。多くの観光客にまじって、土産物店や、本陣などを見学した。
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