越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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《久し振りに燕市を歩く》

今年の夏至は6月22日。日が長い時期だけに、仕事を早めに切り上げ、午後6時半ころまで、近くの遺跡を歩いてみる。もう梅雨入りなのだろうが、幸い夜半や午前中降っても午後に晴れる日が多い。
今回は、燕市館野地内の長所との境目にある「館野上徳遺跡」出、排水路工事が行なわれたので、路肩を中心にチェック。周知の遺跡とは知らず、西側を流れる大通川からの距離を見て、ここなら自然堤防だった可能性があると踏んだのだが見事に的中。大き目の土師器片がごろごろ。
帰宅後、燕市教委が発行している「三角田遺跡の報告書」で古代、中世の遺跡分布図を確認。番号8が館野上徳遺跡なので、この遺跡だろう。ところが、8と番号がふられた位置は明らかに長所地内。ここもついでに歩いてきたのだが、ほとんど遺物が採取されなかった。
地元農家に確認した館野、長所境がはっきりしているし、住所も異なるので、遺物を採集した位置が「館野上徳遺跡」だ。
燕市教委に、採集の遺物と、現場で撮影した写真などと合わせて、位置確認をメールで送った。
写真の2枚目が採集の遺物で、まだ洗ってないので、みんな土師器片に見えるが、上の段の数点は須恵器。須恵器が少なく、かつ横瓶や高つきなどもないので、10世紀ころの遺跡だろうか。

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《和島での採集遺物を洗いました》
旧和島村の保内川右岸の排水路路肩などから採集した遺物を洗いました。須恵器の甕の口縁部などと、珠洲焼のすり鉢の小片など中世の遺物がありました。写真の三枚目。
古銭は、大きさなどから、寛永通宝ではないでしょうが、腐食が進み、何銭か見当が付きません。
採集の遺物が少量ですが、このあたりに奈良・平安時代や中世の遺跡が存在していることだけは間違いないでしょう。
それにしても、保内川、郷本川の右岸の排水路の路肩や、小島谷川の左岸の水田(下西遺跡)など、なぜ、和島の川岸周辺に遺物が散在しているのか。ともすると古い潟の縁辺部に川が残され、川の右岸、左岸の縁辺に自然堤防が生まれたのかもしれませんね。
とにかく、旧和島村は遺跡の宝庫であり、東西の丘陵と挟まれた島崎川流域の平野部の全体が、タイムカプセルのようになって、現在まで静かに眠っています。
考古学関係者にはたまらない魅力のあるフィルドです。なかなか、表面採集も、これで終わりということになりそうもありません。
写真2枚目の遺物は、写真1枚目の地図に示した三瀬ケ谷の沢に向かって右手の揚水機場や周辺の水田畦から採集した物です。

和島の三瀬ケ谷を歩く

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《和島の三瀬ケ谷を歩く》
久し振りに、和島の式内社に比定されている上桐原神社のある山が指呼の間に見える三瀬ケ谷の入り口から、沢が二つに割れているあたりまで、表面採集を行なった。
入り口付近は、以前から須恵器、土師器の破片が採集される遺跡と思われる状況だが、今回も、谷に向かって、右手の揚水機場の敷地や周辺の水田畦などから須恵器、土師器の破片を採集。
また、沢の入り口左手は、上桐原神社の鎮座する山の麓になり、水田の畦や排水路の畦から、須恵器片などを採集できた。
また、低い丘陵の上の畑から、微細な土師器片を採集したが、畑で働いていた農婦が、かつて、門新遺跡の発掘調査に参加したことがあるとかで、そばの畑を指差して、畑の持ち主が、そこから、鏃を拾ったと言っていたという。縄文土器らしい物は採集できなかったが、長岡市の埋蔵文化財担当者が、以前、一帯を表面採集しているとのことで、古代の遺跡「松ノ脇遺跡」に指定している。
なぜか、沢の奥のほうは、段丘が発達していて、遺跡がありそうに見えるが、全く遺物が拾えなかった。農家の比較的若い女性に尋ねたが、残念ながら、小字名などは全く分からなかった。
古老を訪ねて、再度、表面採集してみたい。

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《和島・両高地内の表面採集の遺物の一部を紹介
2枚の写真のうち、上の写真が、吉沢製鉄遺跡とされる位置より、一段下がった水の排水路掘削した道路脇の断面などから採集した遺物です。この最下部から、鞴の羽口も採集しています。下が、吉沢製鉄遺跡とされる位置に近い、排水路掘削の道路側の断面などから採集されています。参考にしてください。

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《長岡市教委埋蔵文化財係からの報告》

6月2日アップの《和島の吉沢製鉄遺跡の近くの圃場整備事業現場で、鞴の羽口片》のブログの内容について、本日3日、長岡市教委埋蔵文化財係から、丁寧なご返事を頂きました。以下に紹介します。

吉沢遺跡は、21年度に確認調査を行っており、現在1枚になっている水田一帯で遺跡が確認されました。
柱穴など遺構が見つかったのはその北側で、丘陵裾部分に当たります。
今回のほ場整備により、この部分が削られるということで昨年本調査しました。
その結果、古代・中世の建物跡が検出されました。
製鉄関連の遺物は鉄滓が1点出土したのみで、製鉄遺構はさらに上部の丘陵斜面にあると思われます。
羽口の発見により、その製鉄遺跡もあることは確実と思います。

なお、昭和40年代の耕地整理による整地土が周辺で確認され、この中からも古代・中世の遺物が散見されました。
この整地土は八幡林遺跡周辺の水田でも確認されています。
本調査を実施した丘陵裾部分の水田は既に削平された状態でしたので、包含層はごく僅かでした。
したがって周辺の整地土から見つかる遺物は、このときのものかもしれません。
                                            以上


報告の通り、確かに、遺物採集の現場は、大きく削平されて、山沿いにある道路の脇を掘削した段面などを見ると、奈良・平安時代の遺物がある生活面は、水田の排水路の路肩よりもかなり高い位置になっていました。
奈良・平安時代の遺物と、中世の遺物は、広範囲に散っているものと思われます。
参考に、遺物の挟まっている地層を撮影した写真をアップします。拡大してみてください。土がかく乱されているようです。ほかの地点では、全くかく乱されない状態で、遺物が採集される部分もありました。

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