越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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《燕市(旧吉田町)の北側に位置する本町(もとまち)集落》
この集落は、昔から古い集落であることが知られています。新潟県県央歴史研究所でも、何度か表面採集を続けてきましたし、燕市の埋蔵文化財係も、丹念に調査してきました。
集落周辺には、「館野城」と地元で呼ばれている館跡もありますし、南隣の集落「宮小路」には、平安時代、中世と遺跡が重なる「赤崎神社」もあります。地元では弥彦神社の分身と言われています。
今回、久し振りに、好天の日を見て、3日ほど空いた時間に表面採集を行い、改めて、現集落が、中世の遺跡の上にのっかていることが分かりました。
もちろん、今の人びとは、十代、十五代と続く家もありますが、中世に住んでいた人びとの末裔ではないでしょう。
なぜなら、上杉謙信の跡目争いの御館の乱で、集落の西側を流れる西川の右岸の集落は、敗者となった上杉景虎陣営の有力者、神余親綱城将の率いる三条城の領地で、勝者となった上杉景勝陣営に、見る影もないほどに攻め滅ぼされています。
旧吉田町の粟生津(あおうづ)や、鴻ノ巣、米納津(よのうづ)、旧岩室村の和納城など、遺跡からおびただしい土器が出土するのも、貴重な土器を打ち捨てて、逃れなければならなかった事情があったのではないでしょうか。
それとも、中世の繁栄で、膨大な量の土器を消費し、捨てていたのでしょうか。
遺物のあまりの量の多さから、前者ではないかと憶測しているのですが。
以下の写真は、本町集落内のいたるところで、能登半島の先端、珠洲で焼かれた珠洲焼片が採集できるという証拠写真の一部です。

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《ブログにユーザー名、パスワードを再入力しないと》

 昨年秋以来、越後ジャーナルの日刊化の準備と統一地方選報道に追われて、忙しい日々を送っていました。その間に、好きな長距離ドライブや遺跡探訪も続けていましたし、手軽なツイッターも続けてきました。
 しかし、ブログとなると、写真の準備やまとまった話を書きたいという思いも強く、ついついご無沙汰。時間の経過は早く、もう4月も下旬。越後平野もさくらの花が満開で、東日本大震災や東電・福島第一原発の事故のことなどの報道や、新潟県内の市町村に避難されている南相馬市の被災者の方々のことなどがなければ、いたって、例年通りの長閑な風景が広がっています。
 3月11日の大震災、原発事故のできごと以来、ことしは、日本中が狂いだし、どこへ進むのか、皆目予測がたたない状態。
 7月3日に、満65歳の誕生日を迎えるので、高齢者の仲間入りの準備をしてきましたが、吹っ飛んでしまいました。もちろん、4月1日から、越後ジャーナルも日刊化し、スタッフ一同、わき目も振らず頑張っているところ。僕だけ、のんびりとは行きません。
 これからも、ブログは思いついたときに記事をアップするだけでしょうし、なかなか、訪問者の方々はじめ皆様にコメントもできないと思いますが、宜しくお願します。
 はじめにアップしたさくらは、21日撮影のものです。下段の部屋は、21日訪問した三条市内の経営者の家を訪問したときに通された、平山郁夫画伯の「黒彩馬」の作品のある部屋です。
<地震情報ばかり聞いていると気が滅入るし>

ツイッターの世界では、志向が画一的になりやすい。戦争のときとは比較にならないが、生真面目なユーザーが多いのか、NHKの世論誘導のせいなのか、とにかく、被災者への思い入れが強くなって、テレビを見ているくらいしか、何もできない個人が、奇妙に偽善者ぶる。
もっと、現在起こっていることのほかに、これから、起こりうる日本、世界への影響なども心配すべきだが、そこまでいかない。
ましてや、被災していない国民が、日常的な暮らしを送っている姿は、地震関連のツイートの洪水の中で埋没してしまっている。
一部に、被災していない国民が経済活動を自粛すると、日本の経済に大きな打撃を与えると心配する意見もあるが、どうも、少数派で叩かれかねない。

ともかく、静かに、それぞれがなすべきことを手堅く進めていく。あるいは、レジャーも過度に自粛しないことが、経済を回し、ひいては被災者への支援の力にもなりうる。自粛は、マクロ的には、経済を痩せさせ、それでなくとも、災害特需の後の、経済の落ち込みは当然あることで、一気に不況とインフレに突入しないことを祈るのだが。
もちろん、電気が不足しているのだから、過度に広告塔に電気を使っている企業などは節電すべきだし、なにもかも通常通りにというのではないが。

ブログの世界では、わが道を行くときには、穏やかで、心落ち着かせてつぶやける。ツイッターの世界とは違ったブログ世界の新たな発見だ。ここも、やがて生真面目なブロガーの意見で埋まるのだろうか。

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          大地震にも動じない、小布施のボス猫(12日午後5時ころ)
〈燕市(旧分水町)新堀の中世墓地〉

2011年3月5日(土)の午後、久し振りに新堀の浄土真宗永了寺の近くの中世墓地を訪ね、表面採集を行なった。これまでも何度か訪ねて、珠洲焼の甕やすり鉢の破片、越前焼の甕片などを採集しているので、古くからの墓地で、今も使われていることが分かっている。もちろん、中世の墓地に埋葬された人びとと現在の墓地の人々とは関わりがないのだろ。
中世の人びとが埋葬されているのを知って知らずか、最近どんどん古い墓が壊されて、新しい墓が建てられている。そのたびに、地下に眠る骨壷などが破壊されて出土する。
今のところ、五輪塔や板碑など墓石の類は見つかっていないが、今回、経の文言を、一つの石に、一文字書いた一字一石経の石が数個発見された。写経は平安時代から始まり、一字一石経を埋納する風習は、江戸時代まで続いたという。この文字がいつ頃の書体なのか、専門家が見れば分かるのだろうか。
経筒などは発見されていない。

まずは、墓地風景から。写真の奥に見える寺院の屋根が永了寺

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墓地から採集の一字一切経の墨書文字

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同じに採集した珠洲焼のすり鉢片と甕片
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お雛様のごちそう

〈お雛様のごちそう〉

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3月3日は平日なので、土曜日3月5日の夕食にご招待を受けて、桃のワインに、チラシ寿司などをごちになりました。チラシ寿司がおいしくて、ついつい食べすぎ。

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翌日6日には、よく土曜日に買出しにいく、新潟県秋葉区(旧小須戸町)の「うららこすど」で、早くもボケ展と雪割草展を開いていた。

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その足で、新潟市の新潟伊勢丹近くのキャトルバンで、シェフお勧めの春のランチを食べた。メーンはお肉料理で、豚肉がやわらくて味もしみていて、おいしかった。

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