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10月18日に、財団法人埋蔵文化財センターを訪問した折、途中で、川柳の大野風柳さんの石碑を移転するところを見て、「お茶の時間ですよ」で紹介。その中で、埋文センター訪問のことは後ほど、と書いたきり、急がしさに忘れていました。パソコンのデスクトップの写真を整理していて、そういえば忘れていたことを思い出しました。 埋文センターには立派なホームページがありますので、 そこを http://www.maibun.net/center/page1.html 見ていただけばよい訳ですが、 僕としては、大好きな中世の四耳壷(鎌倉時代中期の木崎山遺跡出土)など、久しぶりに対面した展示物や企画展示の遺物を写真で紹介しておきたいと思います。 とてもいい展示ですので、新潟県新潟市においでいただいた方は、ぜひお立ち寄りください。 写真上から、埋文センター全景、僕の好きな瀬戸四耳壺、旧東蒲原郡上川村の北野遺跡の縄文土器、岩船郡荒川町の道端遺跡の古墳時代の遺物とその拡大写真、最後が、新発田市の青田遺跡出土の魚を獲る筒
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2007年10月27日
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墓地が好きなわけではありませんが、神社、寺院などと同様に、墓地は遺物の表面採集には避けて通れない重要なポイントになります。 伝承の多い寺院の立派な墓地よりも、すでに坊さんが居なくなった無住の寺や、寺院そのものがなくなってしまって、檀家が管理しているような、村はずれの小さな墓地の中に、考古学的に極めて有望な古い墓地が残っています。 まだ、宗教と墓の関わりや時代による墓標の違い、あるいは地域差、貧富の差による違いなどを勉強しているわけではありませんので、ただ単に、墓地を歩き、少なくとも、須恵器、珠洲焼や越前焼、あるいは近現代の美しい陶磁器などの識別をしながら、できるだけ古い時代のものがあったら、拾ってくるのです。 蔵骨器としての焼き物としては、やはり珠洲焼が魅力的ですし、墓標のなかに、中世五輪塔や近世五輪塔、あるいは板碑と思われるような墓標、中世の宝きょう印塔、近世の宝きょう印塔などを発見していくわけです。 越後においては、天下の統一を成し遂げた豊臣秀吉によって、100万石の大大名、上杉景勝の会津への移封がなされ、今でも「このとき、農民は越後に残し、寺は一緒に、墓石まで持って移れと命令されたのだ」という話を聞きます。 それほど、上杉景勝の力、NHK大河ドラマの主人公として取り上げられる重臣直江兼続の力を恐れ、上杉氏の支配層と越後の農民とを分離させることによって、上杉家を弱体化させる必要性があったのでしょう。 このために、越後における寺院の歴史、墓地の歴史が、断絶している部分があるようです。 特に寺院に伝わる寺略は、明治の廃仏毀釈で、それぞれの県で、神社、寺院の伝承を書き出させたため、伝承などを文書にした例は枚挙に暇がなく、ここで大きく捏造されている場合、歴史的な価値は極めて薄いといわなければなりません。仏像なども、寺院、檀家の経済力で移動するので、仏像そのものの時代は特定できても、その寺の歴史と直接結びつけて考えることは、よほど、寺略が考証でしっかりと確立されいないと、なかなか難しいのが現状でしょう。 墓地は、蔵骨器の破片までは持っていくまいと思いますが、まだ明らかではありません。 寺略と関わりなく、とにかく、墓地で採集される珠洲焼の壷片などを拾うのはそれなりに意味はあると考えているのですが、いかがでしょうか。 写真は、珠洲焼の蔵骨器片を拾うことができる三条市三柳の墓地で、26日、見つけた、近世のものかもしれませんが、宝きょう印塔残欠(上)と、近現代?の蔵骨器片(下)。蔵骨器片は、陶質で、模様が面白いし、いつごろのものか判明しないので参考までに掲載しました。 きょう27日、せっかくの休日なのに雨。やむなく三柳の墓地と寺院跡を撮影してきましたので、写真を追加します。
順に、三柳の墓地、墓地への道は雑草に覆われています。次に墓地を管理していた村中の寺の住職が居なくなった寺院跡と坂東・秩父・西国百番供養塔です。 いずれも時代などについて、ご教示いただければ幸いです。 |
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