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きょう11月25日は、越後平野も快晴で、日中は歩いていると汗ばむほどの陽気。 与板城の周辺を歩き、その足で、信濃川、猿橋川と刈谷田川に挟まれた、蒲原平野の川中島、長岡市中之島町の上沼新田を表面採集。 毎年のことですが、来春に備えて秋耕した水田には、水がたまり、白鳥が群れて餌をあさっていました。 白鳥といえば、県外の人には、水原の瓢湖が余りにも有名ですが、このほかに新潟の佐潟などにも飛来します。近年は、白鳥も増えて、三条市の五十嵐川上流にも、飛来しています。 確かに、白鳥は湖に浮かんでいるとき、あるいは飛翔する瞬間、そして愛を奏でる時の、激しく羽ばたく姿などがもっとも美しいのです。 ただ、白鳥は、なにも、瓢湖のように、お茶の葉などを与えなくても、もともと野生ですから、眠る場所は飛来地ですが、日が昇ると、群れて、遠くまで餌場を求めて飛ぶのです。 上沼新田で餌を探し、あるいは農道に上がって体を休めている白鳥の群れが、どこの飛来地から飛んできたのかは分かりませんが、近い佐潟からにしても、6、70キロは離れているでしょう。瓢湖からではもっと距離が伸びます。 実に多くの数にのぼっており、五十嵐川など少数のグループが飛来している場所からでないことははっきりしています。 それにしても、のんびりとしていました。農道は、収穫を終え、秋耕を終われば、人も車もほとんど通りません。僕のような、遺物の表面採集をするために農道を車で走り、農業排水路などを歩く人間はほとんどいないのです。 余りの多さに、写真に収めようと、できるだけ近くまで車で行き、少し距離があるかなというところで降りて、ドアの音に驚くと悪いので、開けたまま、近付きました。 すると黒い鳥の群れが飛び立ちました。飛び立つと、すぐにブーメランのような形になって飛びましたので、それが雁の群れだと分かったのですが、白鳥の群れは、啼き交わすだけで、飛び立とうとはしません。 道路で体を休めていた白鳥なども悠々たるものです。 近付いて写真を撮り、白鳥の行列を見学。なかには、まだ羽の色が灰色ががっている幼鳥も混じっています。 灰色で体が細身の鷺までが一羽同じ気になって(?)群れの中に居ます。白い鷺は数も多く、群れていますが、灰色の鷺は、あまり群れていることなどないのです。 写真を撮り終え、人に慣れているのか、僕が危害を加えないことが分かってのことか、とうとう一羽も飛びたたないので、それもよしとして、車に戻り、そのまま、農道を前進。道路に体を休めていた白鳥たちは、さすがにぞろぞろと水田の中に降りていきましたが、行列するだけで、最後まで飛翔する姿を見ることはできませんでした。 午後2時過ぎですから、まだ日が高い。日の短くなった今は、好天でも午後4時半には日が沈みますが、白鳥の群れは、日没近くまで餌をあさっているのが常です。 みなさんが期待する飛翔する白鳥ではありませんが、僕らが平素見ている白鳥の姿も見てください。 写真上は、僕が近付いたのに気付いて、飛び立った雁(黒い鳥)、白鳥は悠々としていました。次は、農道を占拠して、思い思いに過ごす白鳥たち、最後は、さらに近付くと、行列をなして水田に入っていきました。この間、一羽も飛び立ちませんでした。 なお、背景に霞んで見えるのは弥彦山です。新潟市側から見ると、牛が寝そべっているように見えるので、「臥牛山」などと呼びますが、蒲原平野からは、二つの山が限りなく美しく並んで見えます。もう少し東側から見るともっと美しい左右対称です。
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2007年11月25日
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良寛の法友「有願」が6世住職の燕・万能寺の旧跡を寺泊に訪ねたが、今や藪 友人が、「燕市秋葉町一、曹洞宗万能寺が、昔、長岡市寺泊の万能寺という地名の丘陵裾野にあったというので調べてほしい」という話でした。 たまたま、僕が最近、寺泊から和島、あるいは与板にかけて、古い遺跡を探して歩いているのを知ってのこと。「円通寺の末寺で、良寛とも関わりがあるかもしれない」とも言います。 良寛の歌や書に特段の関心があるわけではないですが、「人間・良寛」には興味がありますし、ちょうど寺泊の田頭(たがしら)という地域から沢に入る万能寺の集落は一度歩いてみたい場所でしたので、天気もまずまずだった11月17日に訪ねました。 田頭で農夫にお尋ねし、沢に入り、数軒の家が並ぶところで、また尋ねました。もちろん一寺院の昔の跡など、案内板も標柱もありません。「本合」という僕にとっては珍しい苗字の、立派な家の屋敷の一部になっているといいます。 ちょうど、本合さん宅のご主人らしき人が、縁側で日向ぼっこをされていたので、屋敷の裏手の一段高いところにご案内いただきました。 丘陵を削ったのですから、分かりにくいですが百坪、2百坪はあるのでしょうか。一般の住宅なら十分でしょうが、この辺りの農家の家を建てるにはとても狭すぎますし、昔の寺などは庵同然だったでしょうから、これで十分だったのかも知れません。 今は竹藪ですが、数年前までは、畑を耕しておられたのだといいます。コナラか、クヌギか樹種は分かりませんが、椎茸の菌床の木が組み立てられていて、もちろん古い木で椎茸はなっていませんでした。 「万能寺の跡で、燕に移って行ったというのは親から聞いているが、いつ頃、どうしてなのかは分からない」とおっしゃる。 「土台の礎石があったのだが」と、草薮を探すが見当たりませんでした。 南側の日が少し差すところは、崖になっていて、その下に田頭からの幹線道路が通っています。「ここが万能寺の入り口だったので、椿の木があるのだと教えられている」という話ですが、道からは急な崖状態。 「道路の幅を広げるときに削られて急傾斜になっているが、昔はゆるかったのではないか」という推測でした。 上手には白山神社の鳥居と急な石段があり、登っていくと、万能寺跡の上の段に至って、そこに社があります。境内を歩きましたが、古い遺物は見当たりませんでした。 万能寺というのはどういう寺なのかと調べたら、新潟良寛研究会の今年春の研修旅行で、関係者が、良寛の法友「有願」に関連して、燕市の万能寺を訪ねている記事に巡り合いました。 それによれば、「聖寿山萬能寺、開山は徳翁良高大和尚、本尊は阿弥陀如来、現住職は22世安中哲龍氏、寺宝は金色丈六弥陀尊像であるという。玉島・円通寺の末寺で、本尊は越後随一の大仏として願主・旧燕郷大庄屋、村上藩樋口家が開創、以来300年となる。この寺の6世海翁東岫大和尚が良寛の法友・有願である」とあります。 もちろん、良寛が有願を訪ねたのは、有願の晩年のことで、すでに新飯田の「円通庵」に移ってからのことです。 また、同会のブログによれば、「貞心尼の祖叔父が萬能寺の13世泰昶和尚だった。文政6年、萬能寺本堂再建の棟札に書かれた金主・長岡家中・奥村五兵衛嘉光が、泰昶和尚の父であるとも言われている」といいます。 しかし、直接、良寛と万能寺の関わりは見られませんでした。 なお、万能寺の現住職は、西方智浩さんで、まだお若い僧侶です。 写真は上から万能寺集落の本合さん宅(切妻造りです)、本合さんに案内されて万能寺跡へ、竹薮と化した万能寺跡、寺の上り口だったという場所に茂る椿の林、白山神社鳥居、白山神社の社、万能寺の村外れにあるお地蔵さん
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