越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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きのう12月8日午後4時から、新潟県三条市の富永草野病院一階ロビーで開かれた第46回ロビーコンサート「君英夫カルテット+ジャズ仲間」を聴き、きょう9日午後1時半から、新潟県燕市の燕市文化会館大ホールで開かれた「つばめ『女(ひと)と男(ひと)』ふれ愛フェスタ 人間らしくイキイキと!」で、山本コウタローさんのトークと歌を聴いて来ました。

君英夫カルテット+ジャズの仲間は、新潟市を拠点に活躍しているバンドで、クリスマスのシーズンなので、きらめくイルミネーションの季節にふさわしいおしゃれなジャズの名曲とクリスマスソングを聴こうと企画されたもの。

同病院は病院の入院施設と老健施設が併設されており、入院患者、入所者はもちろん、希望者は無料で聴けることから、会場に用意された120席を超える数で、後ろには立って聴いている人も。

デューク・エリントンのヒットナンバー「A列車で行こう」でスタート。君さんは、昭和39年、東京オリンピックの年で、いつもは秋に行われる国体が、その年の新潟国体は、オリンピックのため、春に行われ、新潟国体が終えてすぐの39年6月16日に発生した新潟地震で、デューク・エリントンが、当時のお金で1千万円を新潟市に寄付して、新潟市の名誉市民になっていることを紹介。

シャンソンの名曲「枯葉」を、マイルス・デービスが、ジャズ演奏して、今ではすっかり典型的なジャズナバーになった「枯葉」を演奏。さらに、デューク・エリントンのスローナンバー「イン・ア・センチメンタル・ムード 」などを演奏し、クリスマスソングへと続きました。

今では、いずれもジャズの名曲として知られる曲ばかりで、演奏はゆったりとしていましたが、それがかえって比較的高齢者が多い入院患者、入所者や一般市民にちょうどよいテンポでした。

山本コウタローさんの方は、今は、フォークシンガーの現役であると同時に、白鳳大学の教授とあって、まずは、1時間にわたって、男女共同参画社会にとうテーマで講演を聞きました。男が変わらなければならないこと、時代の変化が、ヒット曲などにも現れていること、島倉千代子の「心で好きと叫んでも、口では言えず…」の歌詞の時代、そして「花嫁は夜汽車に乗って」の「帰れない、何があっても帰れない」と嫁ぐ女性の心の時代、やがて「神田川」で、「あなたの優しさが怖かった」、小椋佳の「シクラメンのかほり」、そして、松任谷由実の「ルージュの伝言」になると「浮気をあきらめない限り家には帰らない」となることなど、あるいは、同棲している映画評論家の吉田真由美さんとの約束事、「自分のことをしてもらったら『ありがとう』と言う」など、男性が変わらなければならないことを、楽しいスピーチで紹介しました。

その後、2曲のヒット曲のうち「走れコウタロー」を歌い、会場の入場者も一緒に、手拍子しながら歌ったり、「戦争が終わって僕らは生まれた/戦争を知らずに僕らは育った…」で始まる「戦争を知らない子どもたち」、新曲の「ミュージシャン」などを披露、最後は「岬めぐり」をみんなで歌い、定刻をオーバーして終えました。

山本コウタローさんは昭和23年、千代田区の生まれで、59歳。掃除、洗濯、食事など「自分のことは自分でする」という「家事は自事」の言葉。定年退職した後、家庭ですることのない男性を、自分の父親の姿の中に見て育ったという山本コウタローさんの男女共同参画の話に、僕も共鳴するところが多かったです。

最後に、知り合いのお宅の玄関に、かわいらしい人形の楽団がクリスマスソングを演奏していましたので、あわせて添付します。ご声援ください。
《そこに住む人がまず喜びを》


佐藤―遺物の展示は面白くない。というのに反論はないか。津南の「なじょもん」では、子どもと一緒に1年がかりで、100万円くらい掛けて、地域の古老から縄をなうことをしている。
また、電灯を消させて、闇の中で、灯に向かうのはどういうことかを学ばせる。僕の資料館では、展示品を手に撮って見てもらう。壊れてもいいから、見て、舐めてと子どもたちにけし掛けてやっている。ふるさと三条でできるかどうか。

岡村―日本の考古学の片寄りが顕著で何を伝えたいかが伝わってこない。過去を伝えるのでなく、自分たちの住む土地の特色を分かっていること、それを外の人たちに分かってもらうことが必要。
 
近藤―任意団体は、心を合わせることが難しく、会員が減っているが、諸橋轍次先生は、「衆を集めるものは思い、力を出しやすい」とおっしゃっている。保存会は私で五代目だが、会員を150人ほど増やし、400人を超えた。観光で人から来てもらうには、まず、そこに住んでいる人が、喜びがないといけない。地域の人が喜びを感じられる場にした。

北村―遺跡を管理する立場として理解していただきたいのは、文化財は国の文化財保護法、地域の条例に基づき、そのままの形で残していこうというのが第一義。国、県も史跡については、地域から、今回のテーマのように、活用したいので現状を変更したいと上がってくる。遺跡を壊さないようにしながら、地域の人の暮らしや活用についてかなり弾力的に考えている。

金子―(下田地区の)高城が上手くいっている。ヒメサユリの方が有名になった。登山道も整備され、袴腰山まで登る。五百川まで抜ける道も完成して、登山、史跡めぐりに活用されている。五百川に抜けて、「いい湯らてぃ」に入ってくると1日の疲れが取れる。1つの遺跡の名前を活かすのでなく、いろんな面かを工夫して使っていただくとありがたい。五十嵐小文治館もゲートボール場に活用して、保存会の会員が増えるのは喜ばしい。八十里越には、源頼朝が鎌倉幕府をつくったころ、越後支配をするのに整備したという「鎌倉街道」という別名もある。わらべ歌にも歌われていた。北越戊辰戦争のとき、河井継之助が歌を詠んだのは有名。

國定―シンポジウムは難しい。とかく発言の奪い合いで話がまとまらない。きょうは、同じ方向性に向かっているので、思いを強くした。ここ150年くらい、日本人が日本人らしくない文化を取り入れて急速に変化してきた。それぞれが、なぜ、日本人なのか、日本人の中でも三条人なのか、そこを知ることが確固たる王道をいくころ。今だからこそ、古いものを求めて、新しいものを生かしていく。子どもたちが三条を知り、誇りを持って、古いものを訪ね、新しいものにストーリーを求めなければならない。「虫も殺さぬ大化の改新」と年号だけ覚えてもしようがない。なぜ、三条の文化、産業なのか、それがブランド力の基礎になる。
 遺跡を訪ねることは、産業、伝統を生かすことにつながる。伊勢神宮の式年遷宮は、長く技術を伝承るために、あえて20年に1度、取り壊して建て替えている。観光、地場産業の活性化、技術の伝承など、ストーリーを展開していきたい。         (おわり)

与板城周辺を訪ねる

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きのう12月9日午前中、小雨の中、与板城へ向かいました。初雪もすっかり消えて、ようやく、直江兼続はじめ、直江一族の居城の全体像をこの目で確かめる段です。雪がいつ降るか分からないだけに、多少の雨は気にしておれません。

頼りは、享和2(1802)年に制作された三輪長泰の「与板古城図」です。(今回、写真は、あえて逆さにして添付します。道路側から、登るとき、便利な見方です。絵図をクリックしていただくと拡大して見ることができます)前回、この地図を頼りに本丸まで登り、そのまま三ノ丸から大空堀を越えて千人溜を経て、山沢に出ました。

今度は、城山(じょうやま)神社の脇から、道なき道を掻き分けて、城山腰から下の沢を眺めながら登り、曲輪、空堀などの見事な城備に驚きながら、三ノ丸まで登りました。三ノ丸と二ノ丸の間の空堀を下って、来た道へ回るようにして戻り、崖崩れしている城山腰側の急斜面を、用心深く下りました。枯れ草に覆うわれていますが、空堀も曲輪も、見事に昔の面影をとどめており、地形を上手く利用しながら、鶴が羽ばたくような形に城を構えていることが見て取れます。見事と言うほかありません。

一度、城山神社まで戻り、そこから土塁の内側と想定される丘陵の裾野を歩きました。宅地化されているといわれていますが、案外畑のままで、またかつてあった住宅などが不便さからか、立ち退くなど、中核部分を望むことができました。

残念ながら珠洲焼などの遺物はほとんど採集できませんでした。ただ、前回、城山神社下の排水路から青磁の皿の破片を見つけましたが、今度は、もっとも中核となる部分から、青磁碗の破片を採集しました。

城山神社の下の水田より採集していた灰色がかった近世の陶器皿片は、唐津(肥前焼)で、トチンがあります。蛇の目のものは近代まで存在しますが、トチンのものは、早くに造られなくなるとされ、時代考証に役立ちそうです。小片ですが、後日、写真アップしたいと思います。

いよいよ、土塁で区切られた部分と丘陵の裾野までの間に、人が住んでいた跡を想定できるところまできました。今後は、珠洲焼の甕や壷、片口などを捜すことが大切です。

「与板町史」では、この城は、文明年間以降としています。西暦1469年から1486年までの期間ということになると、足掛け18年の幅があります。一方、上杉氏の会津移封と直江氏の米沢移封が、慶長3(1598)年といいますから、文明年間の末から数えても100年以上ということになります。

その割には、遺物がほとんどない。三条市の大崎要害山、大面城の周辺など要害の地の裾野、加茂市の長福寺など丘陵縁辺の寺院跡からは、珠洲焼や青磁、白磁、瀬戸美濃、あるいは、越前焼などの遺物が相当量、採集されています。
なぜ、この与板城の裾野、特に土塁がめぐらされていた内側から遺物が採集されないのか。

居館として使われた時期が100年などでなく、案外短く、かつ戦などで焼き払われていないとか、あるにはあるが、土砂崩れなどで埋没しているとか、理由はいろいろ考えられますが、さらに調査を重ねていく必要があります。

ついでに、外側の土塁の外(絵図の下側)で、宅地化されていない、水田地帯を歩きました。城山神社の沖の水田から、土師器片が3点採集できました。城山神社の向かって左手、墓地と畑から土師器片、須恵器の坏片、珠洲焼片を採集していますから、一連の遺跡かもしれません。

歩くことで、三輪長泰の図が、享和2年に描かれたにもかかわらず、実に正確であることが分かりました。太い黒で描かれた四角の印は、櫓の跡と思われますが、いずれも、一定の広さの削平地があり、ここだなと確認できます。ただ、曲輪の斜面が石積みのように描かれていますが、土の斜面です。

直江兼続の城を見たい人は、単に、向かって右手の、比較的、整備された登山口から本丸に登った後は、左手の城山神社にいたる道なき道を歩いて見られることをお勧めします。未整備なだけに、戦国時代の城の備えの見事さを知ることができます。

絵図に、遺物採集地を朱記しました。あわせて本丸、二ノ丸、三ノ丸と書きましたが、これは現地の標識の記載で、中世城郭の場合、主郭、二ノ曲輪、三ノ曲輪とするのがよいでしょう。手書きに慣れておらず、醜い点、ご容赦ください。

写真は、上から、三浦長泰の絵図、城山神社、二ノ丸と三ノ丸を区切る空堀、三ノ丸の下から城山腰の崖崩れ現場を望む、館があったと想定される土塁の丘陵側に通じる現在の道、畑から出土下青磁碗の破片の外側と内側、出土地の上段から俯瞰、出土地の状態、土師器出土の水田から、城山をの望む。
写真下2枚は、城山神社下の水田で採集した灰釉陶器の表と裏です。表には、トチン目が見られます。

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