越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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白桃美術館

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白桃美術館館長のあいさつ文

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岡本秋暉の孔雀の掛け軸

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岡本秋暉の雉の掛け軸

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椿椿山の花木の掛け軸

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小川芋銭の河童の額装

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キャトル・バンのランチの前菜

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キャトル・バンのランチの真鱈のソテー

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キャトル・バンのデザート

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キャトル・バンのランチメニュー


《白桃美術館》

1月19日、敦井美術館のあと、信濃川に架かる昭和大橋の右岸の白桃美術館を訪ねました。同美術館は、書家である館長の伊藤省風さんが、父親の援助でコレクションした700点からの作品を収蔵、企画展を開催しています。敦井美術館とは規模も内容も異なりますが、個人の収蔵としては、なかなか面白いのです。

今回は、「頼山陽・渡辺崋山展」で、5日から2月24日まで開催。こちらは、趣味人が訪れる美術館で、いつも、入館者は少数。渡辺崋山の額装の鳥や頼山陽の掛け軸、崋山の弟子の椿椿山の花木の絵の掛け軸、同じく崋山の弟子の岡本秋暉の孔雀や雉の絵の掛け軸などが展示されています。常に掛けられている小川芋銭の河童の絵も面白いのです。

掛け軸が多く、床の間に掛けられていた時間が長いせいか、かなり焼けていますが、それなりに味わい深い絵が並び、大きな美術館の展覧会とは違った楽しみ方もできます。

館長の来館者へのことばが張り出されていましたが、それによると「21世紀は心の時代と言われて久しくなりました。ところが、現状はいかがでしょう。凶悪事件が跡をたたず、好ましくないニュースが毎日のように流れています。私は縁があって、多くの日本美術を収集してきました。特に忘れられつつある江戸時代の書画に目を向けて集めてきました。我々の先人がいかに優れた遺産を遺してくれたか、つくづく感じています」と訴えておられます。

開館は平成16年8月であり、すでに3年半になります。果たして美術館の入館料だけで維持費が出るのかは分かりません。館長が書道教室を開き、美術品の鑑定なども承っているというのですから、それだけで、想像もつきそうです。

いずれにしても、こうした愛好者が、美術品を収集し、大切に保管、後世に伝承していく努力をしているのが実情です。

美術商とは異なった行き方であり、それはそれなりに大事にしなければならないと考えます。もちろん、1年に2、3度しか足を運ばない僕などは応援していることにはならないでしょうが…。

ブログアップしようとして気付いたのですが、肝心な渡辺崋山の作品が1点も写してありませんでした。葦に鳥を描いた額装などもあったのですが…。

最後に、キャトル・バンのランチメニューです。前菜、真鱈のソテー、それにおいしい自家製パンかライス、そしてデザート、コーヒー付きです。パンを注文しましたが、写しませんでした。

これで19日の新潟市の美術館めぐりは終わります。

《博多の俳句にめぐり合い、感じた俳人と郷土のこと》

きょう1月18日は、名前アイコン「けい」さんの開設しているブログ「俳句は十七音(文字)の短詩・心のつばさ」を訪ね、生活に根ざした句をつくることで、俳句は他の文学以上に、地域性が色濃くなるのだなということを実感させられたのです。そのことについて、僕の好きな、越後・蒲原の俳人の句も数句、紹介しながら感想を述べてみたいと思います。

「けい」さんのブログは、まだ、数度訪問しただけなので、すべてを見ているわけではないのですが、たまたま、書庫「近況」を開きましたら、1月8日に投稿された「友達の訃報」に

白菜をざくざく切って友悼む

という1句が記載されていました。白菜は、今では、高原で栽培するなどで、年中、スーパーで売っていますが、平野部の露地栽培であれば、当然、今の季節に採れる野菜です。

そして、僕などは、自慢にはなりませんが、3度3度、台所に立って食事を作っている関係で、白菜を、玉が大きいときは、1枚、2枚と剥いで使いますが、ある程度の大きさになると、浅漬けにするときなど、まさに、そのまま、ザクッと輪切りにします。

そのときのザクッの感触がよく分かりますから、作者の、友を失って、もう、どうにもしてあげられない、会うこともできないなど、やりきれない気持ちが、包丁を手に、白菜をざくざくと切る感触から伝わってきたのです。

作者の作品についての説明は不必要というのは、文学に限らず、絵画でも、演劇でも同じことです。「けい」さんは、十分そのことをご承知の上で、ブログというのが、1度も会ったことのない人たちとの交流の場であるし、胸にこみ上げてくる熱い思いもあったのでしょう。次のように、コメントを添えておられます。

「また一人大事な友達が私を置いて逝ってしまった。
遠く離れているので私が上京したときや、クラス会の時ぐらいしか逢っていなかったが、子供の頃から仲良しだった。
先ほどまで誰彼に電話をかけて彼女を偲んでいたのだけどきりがない。
今夜は眠れそうにない…寂しい夜」

わずか1句に込められた思い入れの強さが伝わってきました。

そこで、「けい」さんの、他の書庫「俳句短評」なども訪ねてみました。
URL: http://blogs.yahoo.co.jp/huko18sai/262064.html

「博多時雨抄 信さん」のなかで、

元 寇 の 島 の し ぐ れ に 半 身 濡 れ

万 葉 の 歌 碑 や 海 よ り 時 雨 来 る

誓 文 払 の 真 っ 只 中 を 歩 き け り

などの句に出会いました。「元寇」自体は、全国の歴史教科書で教えていることで、誰もが知っていることですが、「元寇の島」となると、知識ではなく、その島で、しかも、時雨れるなかに佇み、半身濡れながら、すさまじかったであろう元寇の来襲に思いをはせている作者の思いが、ありありと浮かんでくるのです。

「万葉の歌碑」も、確かに越後・蒲原にも、伊久礼の藤の花の句碑があります。しかし、やはり防人の歌など、九州ならではの思いが込められているのでしょう。

そして、「誓文払」、これは僕には初めての言葉で、早速、HPで、確かめさせていただきました。博多の商人が、不況の折に、大阪の蛭子祭の賑わいを見て博多で、11月半ばに、1年の感謝をこめて、お客様に奉仕しようと始めたのが起こりというもので、大変参考になりました。

これらの句を読んでいて、俳句は、放浪、あるいは旅人でもなければ、自らの暮らしに密着した形で作れば作るほど、地域性が濃厚になるのだと知りました。季語も、「誓文払」などは、明らかに博多で通用する季語で、越後・蒲原であれば、形は全く違いますが、東本願寺三条別院の門前に、11月の木枯らしの吹くころに立つ縁日の「お取り越し」に匹敵するような季語だろうかと思います。

とたんに、ブログをはじめなければ知り得ない事柄であり、うれしくなりました。その上、すでに故人ですが俳人「上田五千石」の名を見て、かつて「飯田蛇笏」、「飯田龍太」親子の主宰した「雲母」に属していた郷土の俳句作家のグループの方などから、よくお聞きした俳人の名で、懐かしさがこみ上げてきました。

僕の知る郷土の俳人としては、昭和60年「河賞」受賞の本宮哲郎さん、同じく雲母同人時代、傑出した女流作家として注目され、「雪女郎」などの句集を出版している高橋寛子さんなどがおり、その句を数句ずつ紹介して、俳句と生活の場の濃厚な関わりをみてみたいと思います。

本宮哲郎

海鳥の来て枯深き信濃川
雪下ろす雪の葬列今日も見て
良寛の墓に火のあるみどりの夜

高橋寛子

海猫の呼ぶは雪飛か兵の名か
立てかけて桐材さらす十二月
冬の雁刃物をつつむ油紙

などなど、きりがありません。
もちろん、全国的に共通の季語、季題、あるいは題材の句も多いのですが。
それでも、僕から見れば、紛れもなく、2人はともに越後で暮らしている俳人です。
機会を見て、これらの作家の土の臭い、男は男、女が女の臭いを漂わせている作品を紹介してみるのも、ブログの世界であればこそ、大きな意味があるかもしれません。

終わりに、「けい」さんには、無断で、ここに取り上げさせていただきましたことを、お詫び申し上げます。

《今こそ、西郷隆盛の政治改革の実績を見直そう》
  〜世界の枠組みが変わろうとしているとき〜



今まで、僕のブログに、政治問題を取り上げることはありませんでしたが、今の混迷する日本の政治や、激変している国際情勢などから、もう一度、江戸幕府から明治政府に、大きく時代の流れが変わったときのこと、特に、薩長連合として、革命であった、明治維新を成し遂げる原動力となり、倒幕後、新しい日本の政治の枠組みを築きながら、長州などとの軋轢で、ついには、新政府に反旗を翻して敗れ、反逆の徒として葬りさられた西郷隆盛について、再評価すべきだと言う意見が、僕の元に寄せられおりますので、ここで紹介したいと思います。

いま、わずかに、東京・上野公園に、浴衣姿に犬を連れた、おおよそ大西郷にふさわしからぬ姿の銅像が建てられていますが、鹿児島に行けば、実に身の丈の高かった西郷を髣髴させる軍服が飾られ、決して、凡庸な男ではなかったことが一目瞭然です。

勝海舟との江戸城の無血開城の快事を成し遂げ、開明的だった長岡藩の河井継之助も、もしも、幕府軍の軍監が、若すぎた岩村精一郎(宿毛の出身)でなく、西郷隆盛であったら、北越戦争を起こさなくともよかったろうと、今もって、越後では語られるています。

その西郷隆盛が、倒幕後、2年間、西郷内閣と呼ぶにふさわしい政治の主導権を握って果たした政治改革について、日本人、なかんずく、政治に携わる人々は、もう一度、正しい歴史認識のもとで、西郷の実績を評価しなおすべきだし、現在、混迷する政治状況、国際情勢の中で、そこから幾ばくかを学ぶべきだというものです。

僕の知人Sさんから、そうした観点から書かれた、熱い思いを込めた一文が、たった今、僕の手元に届きましたので、ここに紹介いたします。読後感をお寄せください。


《Sさんからの西郷隆盛再評価を訴える文章全文》

明治維新が近代日本の出発点とされるのは、維新によって日本が長い鎖国をやめ近代世界に登場することになったからだが、しかし、維新を「革命だった」と考える者が意外と少ないのははなはだ残念だ。

せめて、国民生活に直接かかわる政治家くらいは、この認識をしっかりと持ってもらいたいと願わずにはおれない。

とはいえ、維新史の事実経過が正確に伝えられず、ややもすれば叙情的な記述だけが大手を振ってきたこれまでの歴史教育などを思えば、これもいた仕方ないことなのだろうが。
そうはいっても、このところの政治の混乱ぶりを見せつけられるにつれ、いまの体たらくは、こうした維新への皮相的な歴史観しか持ち合わせていない政治家の存在と無縁ではないのか、と考えざるを得ない。

維新初期の政治は、明治6年のいわゆる「征韓論政変」の前と後で、国事にかかわる者たちの顔ぶれはガラリと変わったが、いまの政治家によく知ってもらいたいのは、明治4年から政変までの2年余の維新政府、とりわけ岩倉具視が大久保利通や伊藤博文らの要人とともに使節団を構成し米欧に出かけた後を守って八面六臂した「西郷内閣」の、ひたむきな政治の心である。

もちろん首班は筆頭参議の西郷隆盛だった。この内閣はそれまでの廃藩置県につづく身分差別の撤廃と人権の確立を進める政策に加え、さらに多くの諸改革を推し進めた。国民の通婚や職業の選択を自由にし、部落差別に取り組み、娼妓を廃止し、年季奉公人を解放した。

さらには神社仏閣の女人禁制を止め、キリシタン禁制高札を撤去して信仰を自由にし、学制令を出して近代日本の教育のスキームもつくった。江藤新平司法卿のもとで法制が整備され、警察制度や監獄行政の仕組みが創設された。そして徴兵令から地租改正まで、この内閣は寝食を忘れて取り組んだ。

こうして「西郷内閣」はわずか2年余の間に、廃藩置県から地租改正までやり遂げ、それまでの日本の政治、経済、社会などの分野の封建制をひっくり返し、矢つぎばやの諸改革を断行したのだが、そこに一貫して流れていたのは、国家と国民を愛する西郷らの透明な政治の心だった。

残念なことに、西郷隆盛は「征韓論政変」で下野し、ついには西南戦争で命を散らすことになり、その後の為政者たちは、しだいに西郷内閣の実績を隠すようになっていった。
その流れの延長線上にあることも知らずに、いまの政治家の多くはこの「西郷内閣」の足跡を知ろうとすらせず、恬として恥じないように見える。心ある者には、一度でもいいから、明治4年から6年までの政治の革命性に触れ、そこから自分らがいま立ち向かうべき指針を少しでも見出してもらいたいものである。  (おわり)

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