越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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《このド迫力を拡大してお楽しみください》


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赤鬼に捕らえられて泣く子ども。

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本成寺の根本道場で繰り広げられる鬼踊り。このほか、緑の鬼や白髪で白装束の三途川婆(しょうずかばぁ)、これを追い払う僧兵なども登場します。

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踊り終えた後、舞台の下にいる子どもを抱きかかえて、振り回します。鬼を見ただけで泣く子どものこと、恐怖におののいて泣きます。

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根本道場でひと暴れ。僧兵や善男善女の投げつける豆に追われて、回廊に逃げても、なお手すりに足をかけたりと暴れまくります。


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ついに、根本道場を追われ、犬走りに。実は、今年は参詣の善男善女が多すぎて、根本道場に入れず、溢れた人が多かったので、急遽、ここでも、ひと踊りすることに。大サービスで、境内で待つ善男善女に向かって、虚勢を張って、踊りまくりました。

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境内でも、子どもたちを捕まえて泣かせます。大人が、それをカメラに収めます。
そして、鬼たちは鐘楼に逃げ込んで、鐘を突いて改心します。めでたしめでたし。


《法華宗陣門流総本山本成寺の追儺(ついな)式。鬼踊り》

三条市西本成寺一、法華宗陣門流総本山本成寺は、日蓮聖人を宗祖、直弟子の日朗聖人を初祖として、永仁5(1297)年に、日印聖人が三条の地で開創されました。日印聖人は、越後・寺泊の出身で、8歳のとき、はじめ天台宗の清竜寺智観法橋師の弟子として出家し、以来、仏門に身を投じて、行学2道に励み、後に、鎌倉に出て、転じて日朗聖人に帰伏して研鑽を積まれた。永仁5年、ふるさと越後に帰る途次、三条市大面(おおも)の荘薄曽根の地に青蓮華寺を創建したのが始まりです。

当時の中世三条城主、山吉定明、山吉長久などの庇護により、七堂伽藍を整備。正和2(1313)年、長久山本成寺と寺号を改めました。日朗聖人を初祖に仰ぎ、以後、さまざまな変遷を経て、全国に布教、信者を広げて行きました。山吉家の後、上杉家の庇護を受け、上杉為景の時には、1300石の寺領を有していました。

上杉景勝のとき、上杉家が会津に移封になり、江戸時代に新発田藩主溝口秀勝が、五十嵐川の南側、いわゆる嵐南地域を所領としてからは、溝口家の庇護を受けて、明治時代を迎え、今日に至っています。同寺の伽藍、寺宝などについては、後にブログで紹介する機会もあるでしょう。

《追儺式・鬼踊りについて》
立春の前日の節分会の行事は、同寺院の年間行事の1つとして古くから行われてきましたが、鬼踊りが始まったのは、そう古いことではないようです。しかし、何匹もの鬼どもや三途川婆が、金棒はおろか、大鋸や鉞(まさかり)、大きな鎚などを振り回し、所狭しと暴れまわる姿は勇壮で、一躍有名になりました。

特に、子どもが鬼に頭をなでてもらうと丈夫に育つと言われ、幼い子どもを抱いたお母さんたちが舞台の近くで鬼どもの登場を待ちます。子どもは、根本道場に、口上が流れ、鬼どもが大きな声を出して踊り始めると、一人泣き、つられてまた一人と泣き始め、ついには鬼に抱きかかえられてステージに。恐怖におののく子どもたちを見て、お母さんやお父さんたちは、これで子どもが丈夫に育つと喜ぶのです。

今年は、日曜日でもあり、天候にも恵まれたことから、例年の2倍、2万人の人出だったそうです。
《今年初めての遺物表面採集》

昨年暮れに雪が降ってから、蒲原地方は、毎日のように雪が降っては消え、降っては消えし、道路は無雪になりますが、水田や丘陵などは、なかなか土の肌が現れず、遺物の表面採集はできませんでした。

幸い2日、3日と、比較的、穏やかな天気に恵まれ、3日午後には、水田の畦が覗き、丘陵の縁辺の小川を覆っていた雪も消え、1カ月ぶりに、遺物の表面採集を実施しました。軽く3時間ほど歩いただけですが、1カ月間、ほとんど歩いていませんでしたので、きょう4日朝になって腰が痛み、やはり、年を取ると、休むと体がなまるのだということを実感させられました。

雪の量は、同じ三条市内でも、五十嵐川より南側、栄地区や、見附市、長岡市の中之島地区は、まだ雪の量が多く、表面採集は不可能。結局五十嵐川より北側の大崎地域の要害山の裾野を重点に歩きました。

幸い、要害山の南斜面、石川屋さんの裏や、要害山の北の麻布谷川沿いの集落の渡辺邸の隣の畑などから、中世の珠洲焼の擂鉢、片口の欠けらや、叩き目のある珠洲焼の壷片と思われる破片などが採集されました。

この日の表面採集の成果を写真で説明させていただきます。


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三条市牛ヶ島から、大崎山を望みました。水田にはまだ若干、雪が残っておりますが、畦さえ顔を覗かせれば表面採集は可能です。むしろ、ある程度、雪に覆われていますと、目移りしないので、見つけやすいこともあります。

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要害山の北側、麻布谷側から上る、要害山の上段にある神社の上り口に鳥居があります。この周辺では、以前から青磁、白磁の破片や珠洲焼の擂鉢片などがかなりの量、採集されています。3日の表面採集では、近世陶磁器片のみで、収穫はありませんでした。

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麻布谷側を流れる麻布谷川の下流部に昔からの集落跡と思われる住居地域が展開しいてます。現在ある宅地の周辺の畑や排水路から珠洲焼の擂鉢片や甕片が採集されています。この日は3点を採集しました。

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畑の脇の排水路を掘削したあとから黒い土とともに、写真の珠洲焼の擂鉢片が出土しています。

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雪が解けるとき、上の土を削りますので、下から遺物が顔を覗かせるのです。ですから、以前ないところにも、遺物が出土するので、「1、2回歩いて遺物がなかったから、遺跡がない」などという早計な判断をしてはならないのです。ましてや、以前に遺物が採集された場所であれば何度でも足を運び、どのような遺物が採集されるか確認しなければならないのです。顔を覗かせたときに採集しないと、再び土のなかに隠れてしまいます。

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最後は要害山の南側、国道289号線、コンビニの石川屋さんの裏手、要害山の裾野に展開する段々畑の中腹で採集された遺物2点です。珠洲焼の叩き目のある1点は、裾野を縫うように続いていた旧道の一部整備された道の脇から採集したものです。以前にもここから珠洲焼片が採集されていました

要害山の周辺には、中世に家や寺院などがあったことが、出土遺物から分かります。ただ、それが要害山に砦としての曲輪などが築かれた時代と一致するのかどうかなどの研究はこれからです。文献資料に大崎表での合戦の話が出てくるのは、上杉景勝、直江兼続が、会津、米沢に移封になった後、越後で起きた「上杉遺民一揆」のときです。残念ながら、御館の乱のときの、一帯の状況の解明は、周辺の遺物の分布状況と要害山の曲輪の構築状況など、考古学的な遺物の採集と発掘調査を待たなければなりません。

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