|
信さん、けいさんのブログを訪問していて、俳句の難しさ、奥深さに改めて感銘を深くしている矢先、三条俳句作家連盟(佐藤伊久雄会長)の機関誌「雪椿」第205号が手元に届きました。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2008年02月15日
全1ページ
[1]
|
三条、燕両市と新潟県で運営している新潟県県央地場産業振興センター(県央地場産センター)内の大展示即売場 爆発的に売れている下村工業・下村企販グループの「ぎょうざ名人」が、大展示即売場の入り口に陳列されています。 大展示即売場の一角。広い会場には、家庭用品・台所用品など三条・燕産地で生産、販売されている商品がずらりと並んでいます。 《郁丸ブログ「下村企販株式会社ぎょうざ名人」に答えて》 良寛様や新潟県内のさまざまなイベントなどをブログアップしている「郁丸ブログ」を先般訪問しましたら、なんと、三条市と燕市に事業所のある下村工業・下村企販グループの製造、販売している「ぎょうざ名人」の話題が紹介されていました。 例の中国からの輸入餃子の毒物問題で、消費者が身震いし、輸入業者がいっせいに店舗から輸入餃子を引き上げたこともあって、手軽に餃子を手作りできる「ぎょうざ名人」が脚光を浴びて、飛ぶように売れているのです。 新潟県内を幅広く活動している郁丸さんは、もちろん、下村グループが三条、燕両市にあり、「県央地場産センター」の大展示即売場でも地場の産品が展示即売されているのも知っておられました。そこで、「ぎょうざ名人」が販売されていれば、来場の折にでも買い求めたいというお話。 そうだ、全国の人も、この三条市と燕市、新潟県の県央の中心になっている双子の都市が大工道具、刃物など家庭金物や洋食器、ハウスウェアなどカトラリーの産地であることを知っているのだろうかと思い立ち、この地域で生産、販売されている商品を紹介する意味でも、地場産センターに立ち寄ったついでに確認、撮影してきました。撮影しているわずかの間にも、スーツ姿の男性が、「ぎょうざ名人」を目当てに来られたのでしょう。2品を買い求めていました。 新幹線燕三条駅、高速道三条・燕インターを降りられた際には、ぜひ県央地場産センターにお立ち寄りください。地域の産品の一部を見学、お買い求めできます。価格も産地ならではで安いですよ。(ついついPRしてしまいました。)
|
|
池田遥邨の作品です。なぜ、新潟県五泉市のある事業家の蔵に長年眠っていたのか。京都などの画壇をも驚かせた作品です。詳しくは、後日、経緯を紹介します。写真は暗い場所で、蛍光灯や周囲の光が写りこんでいます。やがて一般に公開される日が来ますので、そのときはきちっとした写真を紹介できるでしょう。 |
|
kyomutekisonzaironさんのブログ「混沌の時代のなかで、真実の光を求めて」を、人間というものについて学ばせていただこうと、時折訪問している。 時に、分かったような分からないようなコメントを書いて、ご返事を頂いているが、そのご返事も、また難しすぎて、なかなか解けない。 仏教の世界は、ブッタが生まれて2500年の長い間、世界の多くの人々が「人間」について考え、文字にし、ある人たちは文字にすることすら捨てて、さらに考えてきた世界。それも、ただ書かれたものを反芻するのではなく、自らが生かされ、また生きている自覚を持って、人間ばかりでなく、生命のあるもの、ないものを含めた現実の世界を見つめつづけるという、持続と変化(へんげ)のつかみどころのない世界に向かって、自らはどう生き切るべきかを求めてこられた成果だろうと想像する。 「人を救う」とよくいう。人を救えるはずもない。人は、それぞれに、「われ」という存在をつかみえないとしても、存在を感じ、受け止めて、それぞれの価値を信じて生き切る。(自覚しようと、自覚しまいと)僕はそう信じて、多くの人々の生き様を見つめさせていただいている。 この世に産み落とされて、育てられて、そして、空腹にあえぎながらも、自ら、ご飯を食べるすべを身に付け、今に満足することを得ず、ひたすら生きる。その生きる姿の美しさ、醜さが、とても、豊かに見える。 それはちょうど、海辺にいて、波を見、空を見上げて雲を見るような、無限に多様で、とらえどころがない姿だ。しかし、ひとときであれ、そこに存在した事実こそが素晴らしい。味わっても、味わっても、味わいつくせない。 今朝、目が覚めた。「波は見つめつづけることはできても、すくうことはできない。ただ海の水をすくいうるだけだ」という言葉が浮かんだ。夢のように消え去るかと思ったが消えない。書き留めることにした。それが僕の「生きる」だからだろう。 「さまざまな姿をとらえようとしてもとらえられない。変化の連続であるから。波をとらえたときには、海の水に戻ってしまう。海の水をいくら論じても、波を語ることにはならない」 僕は、海の水の成分分析よりも、雲の成分分析よりも、波を、雲を、そして、瞬時に消え去るとしても、僕の周りに現れる万物の姿に、心を動かしながら、生かされている自分、生きている自分を感じている。 人の世は移ろっている。自らも変化(へんげ)し続けている。「今」は2度と同じ今ではない。それゆえに、今の感動の連続を、繰り返して、死のときを迎える。静かに死ぬもよし、あがくもよし、地獄もまたよし。 《写真はきのう14日午後4時過ぎの西の空です》 白き雲黒き雲 越後の冬に生きし者 たった、これだけの言葉を紡いでも、一つ言葉を改めれば、一つの意味を失い、また違った意味を生じる。言葉もまた移ろいやすいもの。そして、言葉に限らず、すべては発したもの自らが感じることと、他者が感じることとは異なることもあきらかなこと。それでよいのではないか。 (合掌) (文体がいつもの「です、ます」と違いますが、ご了承を)
|
全1ページ
[1]


