越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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被災者の菩提を弔うために建立された三条地震亡霊塔

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塔の前に、新しく建てられた良寛禅師の見舞いの手紙の碑

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千坂姫を弔う宝筺印塔

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きょう3月24日午後4時ころの不思議な雲。まるで何か竜でも飛んで行ったような弧を描いた雲です。


《良寛ゆかりの名刹、宝塔院の桑原良修前住職を訪問》

きょう3月24日朝、小雨の降る中、ご無沙汰している三条市東裏館一、宝塔院の前住職桑原良修師をお訪ねしてきました。大正11年生まれで、86歳の高齢で、幾つかの病を患われたのですが、これまで以上にお元気で、小1時間、戦争中の話をお聞きしてきました。直江津の捕虜収容所に配属されていたころの話は、体験した人でなければ分からない話でした。

息子さんに住職を譲られ、何の心配もない桑原師ですが、毎年、その年の運勢が好評で、多くの市民が楽しみにしておられるのです。いつまでも健康で長生きしていただきたいし、きょうの顔色、艶のよさからいって、「大丈夫、長生きされますよ」と奥様を前に元気な声で言ってきました。

その帰り、同寺院の境内にある、三条地震の後に建立された地震亡霊塔と、同寺院の中興の祖で、良寛と同い年、長い間、交流があって、三条地震の際も、良寛から見舞いの手紙を受け取った隆全和尚。その手紙を刻んだ石碑などを撮影してきました。

ついでに、三条城主三条左衛門尉定明(伝説中の人物で、三条城主の誰のことを差しているか分かりません)の奥方、千坂姫の祈願寺だったとされることから、その宝筺印塔(ほうきょういんとう)を撮影してきましたので、ブログアップします。

※地震亡霊塔の説明は、三条市指定文化財で、その説明を、以下にそのまま紹介します。

文政11年(1828年)の三条地震で亡くなった人たちの供養のため翌年建立された4mもある石塔で、五輪塔の形をしています。昭和47年、市の指定文化財になりました。この地震で、現在の三条市域だけでも倒れたり火事で焼けた家は2000戸、また数百人もの人が亡くなりました。その被害の大きさに、他の地域には、三条の町が滅亡したという噂が流れました。
 この宝塔院は越後三十三番礼所としても有名な寺で、毎年8月10日には「観音大祭」が行われます。
《新潟市西区山田・美術館「雪梁舎」にて (3) 》

今回は、新潟県内作家で中央展に出品した作品を紹介します。タイミングが少しずれてしまいましたが、越後瞽女(ごぜ)哀歌もゴザブシを被った子どもらの絵も、ともに冬の主題です。それと、工芸で、ワニにしては優しい感じで、オオサンショウウオのようにも見える作品。いずれも作者名、作品名は省きます。

今回の雪梁舎の紹介は、3回とし、また、次の展覧会の折に紹介します。

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布施谷川左岸、扇状地の土師器片、採集地周辺の遺跡状況(文字が読みにくいので、拡大して確認ください)

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採集した土師器片


《三条市上保内、布施谷川左岸 扇状地より土師器片採集》

3月23日、かねてより着目し、課題にしてきた布施谷川左岸の扇状地の遺跡の展開について、雪解け後、春耕前の、遺物表面採集の絶好のチャンスを逃さず、確認に入りました。

すでに、簡単な排水路整備などの圃場整備事業も終えていますが、これまで、遺物採取地が限られていました。

しかし、右手上部の柳沢地内の丘陵部が、平野部に落ち込んでいる辺りは、今は乾田化されていますが、かつては低湿地帯で、地元の人は、舟をつなぐ石があったと言っているほどです。

ところが、その低湿地は、写真下の方向に向きを変えて、水戸川遺跡の方向へ落ちています。

また、布施谷川は、丘陵地帯を蛇行しながら流れ下り、扇状地に入ると幾分蛇行しながらも、整備後は直線上に左斜め下に流れています。

これは明らかに人工的な流路で、どう見ても、かつては扇状地で乱流していた形跡があります。布施谷川の左岸でも、左の一段低い部分を今は小さな排水路が流れています。もちろん人工的に掘削された排水路ですが、地形からして、もともとこの線に添った形で、水が、水戸川遺跡の方向に流れていたものと想像されます。

そこで、気になるのが、柳川方向から流れてきた水戸川と布施谷川方向から流れてくる排水路の中間部分が、一段と高い形で、水戸川遺跡の方向に続いています。

ここが、水戸川左岸の扇状地では最も安定している一帯で、古代以前に人が住んでいたはずだというのが僕の推測でした。水辺で安定している土地は、古代以前、いや中世においても、重要な住居地としてみなければなりません。

そこで、今回、遺物の表面採集には最高のこの時期に表面採集を敢行したわけです。ついに、遺物がありました。まず、示した範囲の右手の排水路の路肩から、2点の土師器片が採集されました。これで自信を付けて、水田の畦を丁寧に歩き、写真の成果を得ました。

もちろん微細ですから、心ない考古学の専門家に掛かると、「遺物の流れ込み」と即断されてもやむを得ない状況です。しかし、今までの、丘陵縁辺部の傾斜地での遺物採集では、この微量の採集が、圃場整備後の遺物包含層発見に結びついた例は多数あるので、ここでは要注意です。

僕は、専門家になんと言われようと、遺物採集地である事実をもとに、今後もこの地域の遺物の採集を続けて行きます。

信濃川や五十嵐川など一級河川ですと、流路が変るたびに、既存の遺跡が破壊されることもあります。また土木技術の発達が今日ほどでなかった中世、古代以前では、当然、一級河川の流路縁辺よりも、こうした中小河川の方が、コントロールしやすく、かつ水もたえず流れているということで、居を構えるのに適していたと考えられます。

また、柳沢の低湿地のような、舟をつけることができる川か沼などの湿地があることは、舟運が主だった時代の交通の便、川魚などの蛋白源の確保などでも有利だったと考えられます。

保内の三王山古墳群のすぐ丘陵縁辺部で、古代、中世の遺物包含層を発見し、水戸川の信越線アンダーの工事に際して、古代、古墳時代の遺物並びに遺物包含層を発見。さらには、この図面より西の合屋集落周辺で、古代、中世の遺物包含層を、信越線の北側からも中世、古代の遺物包含層を発見し続けてきた立場からすれば、この周辺の展開は、実に中身が濃いといわざるを得ません。

《布施谷川左岸扇状地の遺跡展開》というテーマで研究は進められなければ成りません。
いよいよ、この地域の遺物採集成果を、面的に検討する時期に来ています。良識的な考古学関係者の協力をお願いしていかなければなりません。よろしくお願いいたします。

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