越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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イメージ 1〈燕市粟生津の南の中世遺跡(大坪遺跡)〉きょう10月24日は、雨こそ降りませんでしたが、1日、曇り空で、気温も上がらず、戸外は寒いほどでした。しかし、ようやく水田地帯では秋耕が本格化して、気がかりで、午後、燕市(旧吉田町)粟生津の南の水田地帯で表面採集してきました。平成の圃場整備事業で、畑も削平され、1部では事前の発掘調査も行われましたが、かなりの部分、奈良・平安時代並びに中世の遺跡が破壊されました。排水路の掘削現場では、大量の遺物が採集され、燕市教委に、現物を提示して報告してあります。周知の遺跡ですが、圃場整備事業後も、暗渠排水工事や春耕、秋耕のたびに、遺物が出土するので、丁寧に表面採集を続けているところです。ところで、今回、採集した遺物の中で、スタンプ文付き青磁碗の底の部分がありました。ところが、スタンプ文は、今まで見たことのない、粗雑な柄で、かつ釉薬がやや薄いので、舶来の青磁碗なのかどうか、あるいは、いつごろの青磁碗なのか分からず、ここにブログアップしてみました。底の3分の2くらいで、かつ少し欠けていますので分かりにくいのですが、お分かりの方はご教示ください。
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秋耕で打ち返された土の中に、ひときわ美しい政治の色が映えていました。(この色は実際より青が強い。実際の色は、最初の写真のように緑色です)
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この周辺で採集した遺物で、珠洲焼の擂鉢片、甕片などで、いずれも中世の遺物です。これまでにも、この周辺から、排水路工事現場も含め、大量の遺物が採集されています。発掘調査は行われていない箇所です。
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遺物採集現場から、南の高木集落方面を望む。
一帯は、昭和の耕地整理前は、畑が広がっていたと地元の農家の方が話していました。その頃の写真も、稲を干すはぜ場の木などがあった気もしますが、今、どこにその写真が掲載されていたのかわすれました。すっかり、風景が変わっています。ただ、古代、中世ともに遺物が集中的に出土する場所がありますので、概ねそのあたりにそれぞれの時代の家などがあったものと推察されます。
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遺物採集現場から、北の粟生津集落を望む。
この大坪遺跡周辺に限らず、各地で見られるのですが、なぜ、古代、中世の家、あるいは集落が、忽然と消えて、近代・現代の人たちは再びそこに居を構えなかったのか。また、中世の遺跡でも、大量に遺物が出土する場所と、少ない場所があります。多い場所はなぜ多いのか、忽然と消えた理由は推察するしかありませんが、不思議なことです。

以仁王の伝説

〈以仁王の伝説〉ブログアップが遅くなったが、10月11日、奥会津・大内宿へドライブしてきた。
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後白河法皇の第三皇子で、平家追討の令旨を出しながら、計画が事前に漏れて、平氏の追っ手に討たれて死んだとされる三条高倉の宮以仁王だが、遺骸が発見されなったため、生き延び、都落ちしたという伝説は各地にあるといい、一説では、群馬の沼田から尾瀬沼を通り、大内宿など会津に入って、越後の八十里越を経て、吉ヶ平から、平成の大合併で、長岡市と合併した刈羽郡小国町に落ち着いたという。鞍掛峠の難所などのある八十里越は、平成の大合併で、三条市となった旧下田地区と福島県奥会津との県境で、昔から、話には聞いていたが、見附市から、平成の大合併で長岡市となった旧中之島町などに伝わる池大納言伝説と同様で、確たる史実があるわけでなく、さして気にも留めていなかった。ただ、このごろ、遺跡を訪ね歩く中で、その話が伝説に過ぎないとしても、それぞれの古くから開けていた土地、少なくとも、古墳時代以降、奈良・平安時代、そして中世の遺跡が存在する地域に、それらの伝承が伝えられてきた理由が何なのかを考えてみる必要があるように思われてきた。蒲原平野は、越後丘陵や西山丘陵、弥彦山塊などに囲まれたデルタで、大河信濃川や五十嵐川をはじめ中小河川の運ぶ土砂の堆積によって、肥沃な平野が広がってきたが、しかし、それゆえにいつも洪水や地震などの災害に見舞われてきた。だが、それらの肥沃な土地を開拓してきた先人たちの多くは、ほかの地域から入植してきたと思われる。そうした人たちの間で、当然祖先を思い、祀る習慣が生まれても不思議はない。その中で、幾つかの伝説が生まれてきたのではなかろうか。以仁王の伝説は、義経伝説などとも同様に語られているし、平安時代の越後の支配者城氏はじめ、平家滅亡の挽歌でもあるのかもしれない。
イメージ 2そんな思いで、南会津の旧街道の宿場町、大内宿と、その集落の南の丘陵縁辺にある以仁王伝説の高倉神社(高倉大明神)を訪ねた。近世初期に造られたとする大内宿の面影を伝える街並を訪ねる観光客は多いが、高倉神社まで足を運ぶ人はほとんどいなかった。しかし、高倉神社の境内は、古刹らしい霊気が漂い、むしろ観光化の外に置かれていることがうれしかった。
イメージ 3もちろん、尾瀬沼に至り、なぜ一端、会津に抜けたのか。平家落人伝説の残る桧枝岐に至れば、むしろ、越後の魚沼地方、銀山平に出て、小国を目指したほうが近いはず。もちろん、そのときの「以仁王」を支持する勢力、逆にもしも以仁王であればこれを討ち取って手柄としたい勢力など、それぞれの地域には、それぞれの事情もあったのだろうが。ともかく、八十里越を越えた以仁王は、下田吉ヶ平から、五十嵐川下流部の三条に出ないで、わざわざ加茂に出たという。この加茂には、古墳などや経塚などもある、古くから開けた加茂山に、古刹青海神社がある。ここを経て、信濃川に出て、小国へ向かったとするのだが、越後でのルートははっきりしない。ともかく、参道を歩き、拝殿でお参りして、再び大内宿へ。多くの観光客にまじって、土産物店や、本陣などを見学した。
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