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《不思議なこともあるもの》 今朝、偶然引越しの際に出てきた口縁部を黒く彩色した須恵器の甕片の写真をアップしたばかり。 ところが、きょうの午後、雨も止んだので、もっか、集中的に表面採集を続けている長岡市(旧和島村)の両高地区のブルボン和島工場の東の沢に入ったら、なんと2箇所に、須恵器、土師器の破片が散乱。特に沢の奥の遺物集中箇所から、口縁部が黒く彩色されている須恵器の甕の破片が出土。 あまりの偶然に自分の目を疑った。ほとんど口縁部だけで、甕の方の部分は、わずかしかついていなかったが、明らかに、口縁部の黒とは色が違う。 珍しいはずのこの手の須恵器だと思っているから、あまりに偶然のできごとに、小躍りした。 さて、この種の須恵器について記述しているのを読んだのは、新聞紙上で一度だけだが、その切抜きが、今見当たらない。どの本に挟み込んだか記憶が不確か。 いずれにしても、旧栄町北潟地内にしろ、今度の両高地内にしろ、決して広くない沢の中の遺跡だけに、使われた時代と、その意味に共通性があるのだろうか。 この遺物を採集したあたりは、和島村教委が「吉沢製鉄跡」として遺跡指定している。 写真上が出土状況。真中の丸で囲った部分が、わずかに付いている甕の肩部で、普通の須恵器の色。違いが分かるでしょうか。
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《黒色に彩色した須恵器》 引越しのついでに、写真の整理をしていたら、かつて、三条市(旧栄町)北潟地内の大面川右岸、畑から出土した、口縁部を黒色に彩色した須恵器の甕の破片の写真が出てきた。
土師器などで、内面を黒く塗って光沢を出した黒色土器は多く出土するが、須恵器で、それも口縁部のみ黒く彩色してから焼き上げた土器は、後にも先にもこれが唯一の採集。 何の目的で、いつころ、どこで焼かれたものか。写真を見ての通り、土器には、気泡が多く、決していい焼き上がりではない。それだけに興味深い。 お分かりの方があればご教示を。 ちなみに、この畑周辺では、古墳時代の土器から奈良・平安時代、そして中世の土器が多く採集されます。小河川が蒲原丘陵を削って作り上げた小さな段丘で、沖積平野に進出した人びとと、このような谷あいに住んだ人びとが、昔からいたということです。何を生業にしていたのでしょうか。 |
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《燕市(旧吉田町)の北側に位置する本町(もとまち)集落》 この集落は、昔から古い集落であることが知られています。新潟県県央歴史研究所でも、何度か表面採集を続けてきましたし、燕市の埋蔵文化財係も、丹念に調査してきました。 集落周辺には、「館野城」と地元で呼ばれている館跡もありますし、南隣の集落「宮小路」には、平安時代、中世と遺跡が重なる「赤崎神社」もあります。地元では弥彦神社の分身と言われています。 今回、久し振りに、好天の日を見て、3日ほど空いた時間に表面採集を行い、改めて、現集落が、中世の遺跡の上にのっかていることが分かりました。 もちろん、今の人びとは、十代、十五代と続く家もありますが、中世に住んでいた人びとの末裔ではないでしょう。 なぜなら、上杉謙信の跡目争いの御館の乱で、集落の西側を流れる西川の右岸の集落は、敗者となった上杉景虎陣営の有力者、神余親綱城将の率いる三条城の領地で、勝者となった上杉景勝陣営に、見る影もないほどに攻め滅ぼされています。 旧吉田町の粟生津(あおうづ)や、鴻ノ巣、米納津(よのうづ)、旧岩室村の和納城など、遺跡からおびただしい土器が出土するのも、貴重な土器を打ち捨てて、逃れなければならなかった事情があったのではないでしょうか。 それとも、中世の繁栄で、膨大な量の土器を消費し、捨てていたのでしょうか。 遺物のあまりの量の多さから、前者ではないかと憶測しているのですが。 以下の写真は、本町集落内のいたるところで、能登半島の先端、珠洲で焼かれた珠洲焼片が採集できるという証拠写真の一部です。 |
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