越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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ohsadomujinaさんのブログ「佐渡発! 一日一笑 !一生招福」を見ておりましたら、人間国宝、三浦小平二先生が、昨年ご逝去されたときの哀悼の言葉が掲載されておりました。
そういえば、すでに4年の歳月が経過していますが、新潟市の雪梁舎美術館で、同館設立10周年の記念展として、三浦小平二先生の代表作を集めた展覧会が開かれたときのことを思い出しました。
地元新聞社「越後ジャーナル社」のHPに、その時の開会式の様子が記事として掲載されていました。
三浦先生を偲ぶよすがになればと、ここに転載を許可いただき、紹介したいと思います。
写真の方は、HPからはコピーできませんので、とりあえず、文章だけ掲載。後ほど、そのときの三浦先生の写真も添付できればと思います。急いで見たい方は下に示した順で訪問してください。

 http://www.palge.com →イベント→2003年10月 

「人間国宝 三浦小平二展」
「青磁で固有の世界確立」
「雪梁舎美術館設立10周年記念」

 新潟市山田、雪梁舎美術館設立10周年を記念し、10月4日から11月3日まで、陶磁器の制作でも極めて至難の技とされる青磁の世界に挑戦、人間国宝となった佐渡出身、三浦小平二さんの作品を一堂に集めた「三浦小平二展」が開かれている。

 初日4日午前11時から、会場でレセプションが行なわれ、捧賢一理事長が、10周年を迎えた感慨を述べ、三浦さんが、節目節目を飾った自作品を前にして、しばしば声を詰まらせ、なおかつ愉快なエピソードも交えて、感動の半生を語った。

〜古稀迎えた三浦さん
  捧理事長 同世代の感慨も深く〜

 捧理事長は、すでに、三浦小平二展の開催のいきさつについては、同館発行の「雪梁舎だより・はざ木第34号」や同日付の新潟日報朝刊に詳しく触れていることもあって、あいさつは手短に、「このたび、『三浦小平二〜青磁の世界』を、この新潟の地、雪梁舎で開かせていただけることに、大変感謝している。ふるさとである雪国の梁のある建物で、若い人たちに美術の研鑚をして欲しいと設立した当館も開館10周年。これまで試行錯誤してきた。フィレンツェ大賞という国際的な展覧会を主宰し、新潟県内の、長老の作家のみなさんから1年、1回展覧会を開かせて頂いている。考えてみると、長い年月、大勢のみなさんからご支援頂いた。このたび、10周年にあたり、陶芸家の高井進先生にお会いし、三浦小平二展を開くことになった。三浦さんも古希を迎えられた。私も同世代で一つの区切り。雪梁舎の区切りでもあり、会社も社長から会長になり、直接の仕事から身を引いた。自分の楽しみと地域の人たちに育てていただいたことへの恩返し。三浦小平二の世界を堪能していただきたい」とした。

 東京芸大では、三浦さんの1期先輩だったという久保尋二新潟大学名誉教授が「1997年3月、信州・松本にある郷土出版社から『佐渡の芸術』という豪華本を出版した。作家として三浦さんを紹介してありますが、出版間もなく、小平二さんが、人間国宝になられたのを知って、出たばかりの本に『書きとめておきたかったなあ』と、私自身悔しい思いをした」と、エピソードを紹介するなど、関係者があいさつ。

 三浦さんは、足が不自由で、車椅子に乗ったままであいさつ。展示作品を前にして、それぞれの作品が、作家としての転機になった記念すべき作品であることを紹介、そのことが、即、三浦青磁の誕生の物語になった。

〜中国青磁と佐渡の土〜

 三浦小平二さんは、昭和8年、佐渡の無名異焼の小平窯窯元、三浦小平の長男に生まれた。祖父は、3代常山。昭和26年、父の勧めで東京芸大彫刻科の平櫛田中教室に入学。多治見陶磁器試験所研究生として学んだあと、再び東京芸大に戻り、高田直彦と陶磁器研究会をつくり、陶磁器の道に入った。

 「鈞窯花瓶」で、第7回伝統工芸新作展で優秀賞を受賞。日本橋三越で個展を開き、昭和44年、中近東、東アフリカを旅する。翌年、マサイ族をテーマに個展。47年、台湾の故宮博物院で、青磁と赤絵を学んだ。48年、父小平の死去に伴ない、小平窯を継承。

 51年、青磁をテーマに個展を開催するとともに、アフガニスタン、パキスタンを旅する。

 その後も、制作に励み、個展開催や各種展覧会に出品しながら、中国、モンゴル、インド、ラジャスタンなど世界を旅して、小平二の世界を広げる。国際的に認められたのは、昭和58年、国際交流基金主催の「カナダ巡回日本陶芸展」に招待出品した時。その後、渡米。

 小平二さんは、カシミール、ラダック、トルコ、イエメン、アラブ共和国など世界の国々を旅している。

 昭和60年、皇太子殿下から留学記念として、エリザベス女王陛下に、小平二さんの青磁花瓶が贈られた。平成5年、パリの三越エトワールで「三浦小平二の世界展」を開催、大成功を収める。

 平成8年、紫綬褒章を受章、翌9年、人間国宝に認定される。

〜三浦小平二さん半生を語る
 「青磁は銭にならん」 親父にも骨董屋にも相手にされず〜

 「これからの陶芸家は造形力がなければだめだ」という親父の勧めで、東京芸大彫刻科に入った。そのころは、彫刻科に入ったのは無駄だと思っていた。親父は、「デッサンは、人体を描け」と言っていた。

 僕は田舎者、高田直彦君は早稲田大を中退して東京芸大にきていた。人間国宝の加藤土師萌に師事し、ボイラー室に山積みしてあったレンガを持ってきて、東京芸大初の窯を造った。10年間無給で頑張った。

 10年ほどたって、作品になるようになり、個性も出てきた。佐渡の土や素材にこだわり過ぎ、視野が狭くなってもいた。

 「焼物は中国だ」と、中国の灰釉の基本を研究し始めた。陶磁器は、中国の宋代のものが最高で、なかなか難しい。鈞窯のワラ灰の入った陶磁器を研究。

 この会場に展示されている鈞窯の急須は、小さいが、手で持っていると軽い。お茶の出もよい。節目になる作品。

 灰釉は青磁になる。あまり意識していなかったが、伊勢丹で開かれた展覧会に出品した作品を見て、大河内子爵が「三浦君、これは青磁だよ」とおっしゃった。釉薬を厚く塗って、還元法で焼けば青磁になる。

 しかし、どうして宋代の青磁は透明度があるのか。失敗ばかりしていた。失敗が5%、10%であればいいが、歩留まりが5%か10%。

 「青磁は銭にならん。身上を潰す」と親父に言われた。骨董屋に持っていって見せると「三浦君、こんなものを作っていると身上を潰す」と、相手にしてくれない。

 是非、宋代の青磁が見たくなって、三越に「台北の故宮博物院へ行きたい」と言ったら、人を付けてくれた。

 僕の作品を持って行った。小さい作品だけを持って行って、台湾大学の陳昌蔚(チン・ショウジュ)先生に見せた。僕の作品は、南宋の官窯の青磁によく似ていたが「これは土が違う」。故宮博物院の地下に案内され、青磁鉢を裏返して見せてもらった。「これは、佐渡の土とそっくりだ」。体がガタガタ震えてきた。

 それから2、3年、釉薬と土の収縮率が違うので、本当に苦労した。経済的にも大変だった。歩留まり5%から10%、全部だめのときも。いいものがたまに出る。わずかでも可能性がありましたからね。佐渡の土を使ってやりました。

 陳先生から学研に電話がきて、「一行5人が日本に来る。三浦さんに会いたがっている」と言う。

 そのとき、陳先生に「パーフェクトだ」と言われて、自信が湧いてきた。それでも、全部はできなかった。半分くらいでした。

 昭和47年に故宮博物院に行き、51年に第23回日本伝統工芸展で文部大臣賞を受賞した。やっと認められた。

 大先輩たちは、「青磁では賞を取れないから、賞を取りたければ別のものを焼いたら」と言っていた。

 青磁は重い。賞が欲しいので、その年も、別のものを焼いたが、それが失敗。青磁が成功して出品したもの。

 アフガニスタンに行こうと思って、すでにフライトの日が決められていた。授賞式の日がその日と重なっていたので、「受賞は過去のこと。新しいことに挑戦しよう」と、授賞式には出席しないで、アフガニスタンへ。ソ連が侵攻する2年前で、ちょうどいいタイミングだった。

 砂漠の中にバンディ・アミール湖と言う湖があり、空気が澄んでいる。アフガニスタンの少女やバザールなどの絵を描いた。日本に帰り、始めた。「青磁に絵付けをするのは邪道だ」と言う。鍋島などでは青磁に絵付けをしたものがあるのに。

 なかなかうまくいかなかったが、県立近代美術館が曼荼羅の大皿を買ってくれた。今では、「三浦の絵付けの方がいい」と言われる。やめないでよかった。

 大学の専攻が彫刻だったので、ロダンの言葉が時折出てくる。「おそらく最初、君たちは了解されまい。けれども、一人ぽっちであることを恐れるな。友はやがて君たちのところへ来る。なぜと言えば、一人の人に深く真実であるところのものは、いっさいの人にもそうであろうからだ」

 展示されている横断歩道を描いた鉄絵大皿は、昨年の正月、家内が「こんなものがありますよ」と、納屋に入っていたのを見つけてきた。売れなかったからだ。

 「マサイ族」をテーマにした作品は、昭和45年、日本橋三越で第2回個展を開いて出品したら、また「売れませんよ」と非難された。開いてみたら150点くらい売れた。昔は安かったから。

 パリの三越エトワールで、個展を開いたときもよく売れた。日本の陶芸家のなかではいろんな抵抗があった。青絵でシルクロードを描くようになって、染付けが始まった。「売れるので、急須、100個くらい作ってくれ」と言われたが、いやだったから、1個も納めなかった。わがままだから。

 最後に、女性を描くなら抱きしめたくなるような女性を描け。芸術というのはそういうものだ。

  ※  ※  ※

 なお、10月19日午後2時から雪梁舎美術館で、三浦さんの記念講演会が開かれる。
                                                 (社主)

風祭竜二さんと、偶然の連続で、ブログをお気に入りに登録させていただきました。
いま、風祭さんから僕のブログの「ゲストブック」に次のようなコメントを頂き、早速、23分25秒の「切画の世界」を拝見しました。
感動し、コメント欄に、感動の一端を書き始めましたが、ついつい長くなり、「コメントは500字以内です」と、拒否されました。
しかし、コメントを削る気にはなりません。推敲した文章でなく、飛び出す言葉を綴っただけですから、読みにくく、独りよがりな表現だと思いますが、「無題」として添付しました。
風祭さんの真摯な生き様を見ては、さすがに「お茶の時間ですよ」の欄には加えられませんでした。ブログを訪問された方は、一読頂き、できればこの映像をご覧下さい。
風祭さんが、コメントで、浅草にこだわっておられるのは、僕が、若いころに浅草・花川戸で暮らしていたことを、風祭さんのブログにコメントしたことから、それを考慮されてのことなのです。

《以下は、風祭さんからのコメントです》

こんばんは風祭です!
北京のブロガー「ほんおじ」さんが立ち上げたCJWEBに僕のビデオが紹介されています。浅草界隈も出てきますので見てください!
上京の折には、浅草のJRAにも寄って原画を見てください!!



中日国交正常化35周年記念開局 
スペシャル版で「切画の世界」放送してます!!
http://www.cjweb.jp/program.asp?id=104


《以下は、映像を見た直後の僕のコメントです》

早速見せていただきました。
月並みな言葉で礼讃することなど許されない、風祭さんの生き様に、衝撃を受けています。
六日町駅に棟方志功の作品をよく見に出かけます。彼が、作品を作り上げていく過程は、まさに他者の評価ではなく、自らの生き様でした。
さまざまなブログを見ていると、それぞれの地方に、縁起物の切り絵の風習が伝わっていることがわかります。
しかし、風祭さんが、さまざまな美術表現の道を歩いた結果、切絵に新しい表現の可能性を見出し、ついに独自の世界へ大きく踏み出し、それを「切画」と名づけられました。
そこは、誰も歩いたことのない道なき道です。己の達成感、満足感、それらがひとつひとつの作品の完成とともに、自らの過去へと去る。
また、新たなものへの挑戦が始まるのですね。
命のある限り、手が動く限り、挑戦し続ける。
どのような世界の表現者でも、前を見て進むしかない。何もしなければ、命は空ではなく、無です。
この映像の中で語られる風祭さんの言葉は、シンプルであるがゆえに、人の胸を打ちます。子どもたちもストレートに受け止めている姿が感動的です。
本当にありがとうございます。この映像は、いつまでも見ることができるのでしょうか。保存することが可能でしょうか。
60歳を過ぎて、ただ、仕事の傍ら、新しい発見の確証のない遺物の表面採集を続けている僕にとって、空しさを感じたりしたとき、きっと、勇気を与えてくれる映像です。
風祭さんは、詩心を持ち続けて、創造の道を歩み続けてください。上京の機会をみて、浅草の場外馬券売り場へ足を運びたいと思います。
心より感謝申し上げますし、本欄「無題」で、きっちりと感動を語りたいと思います。(字数が多すぎ、結局、コメント欄に収まらなかったのですが、これとは別にという意味です)
久里千春さんのナレーションのすばらしさ、そして実際に久里千春さんが参加されている姿。風祭さんの「人に感動を与える生き様」の結果でしょうね。拍手を送り続けます。
健康にはくれぐれも配慮されて、自らの内なる未知の可能性を具現化してください。                              以上

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台風の影響による雨もあがった28日午後から、斑尾高原の斑尾東急リゾート・ホテルタングラムで、紅葉狩りを楽しんできました。
2時半過ぎに出発し、北陸高速道などを走って、リゾートについたのは午後4時過ぎ。秋の日はもう傾き、向かいの山肌は紅葉に燃え立っていました。
ホテルタングラムで1泊。夕刻、露天風呂などでくつろぎ、夕食をとって睡眠。
翌29日朝は、午前5時半から起きて、前日夕刻とは逆に、部屋の窓全面に展開する大パノラマで、朝日に映える黒姫山を一望しました。
刻々と変わる山肌に、しばし見とれていましたが、庭園の黒味を帯びたグリーンの美しさ、植樹され、すっかり定着したナナカマドの紅葉、白樺の幹などが白く映えて、実に美しかったです。
日、月曜日1泊というのも、他の客が少なく、極めてリッチな気分に浸れました。
帰りは、平日だったからですが、閑散として人影のない斑尾高原を越えて、飯山、十日町経由。飯山のR117号線沿いの菜の花ロードも、来春に備えて苗が育っている状態だし、紅葉も、斑尾ほどでなく、次週の土、日曜日が見ごろというところでした。
29日は正午頃から曇りで、束の間の晴れ間に恵まれた幸運な紅葉狩りでした。

写真は、上から、すっかり紅葉した山麓を背景にした東急リゾート周辺の集落、夕刻の黒姫、朝の黒姫、帰路立ち寄った着物の産地、十日町のクロス10での展示。着物と版画展の作品です。

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きょう26日午前中、仕事(断っておきますが、僕の仕事は骨董の仕事ではありません)で訪問した家で、たまたま、ガレなどアールデコの作品が目に飛び込んできて、即座に「すばらしいですね」とお話ししたら、ご主人夫妻が、「飾っておいても誰も分からない」と言いながら、喜んで、次々と大切なコレクションを披露してくださいました。さまざまなアールデコの作品から、北大路魯山人の大振りの鉢でしょうか、紅白の椿の絵柄の焼き物、口縁は欠けていますが釉薬のすばらしい室町時代の信楽焼の壷、あるいは小野寺玄の復元珠洲焼の丸い花器と一輪挿し、あるいは下村観山の鵜飼の横額、川合玉堂の小品ですが鵜飼の図など、まるで、美術展を独り占めしたようで恐縮しました。
もちろん、お茶に、コーヒーを頂き、お菓子付き。あっと言う間にお昼になってしまいました。
ご主人の母親が、町の素封家から嫁に来たということで、実家が書画骨董品を集めており、母親も書画骨董品を収集。現当主夫妻は、それぞれの分野で、作家と縁があり、鑑識眼のある人の勧めによって買い求めてきたそうです。
大切な個人蔵の美術品ですので、きょう披露いただいたすべてをアップできませんが、最初に目に飛び込んできたアールデコの作品などの写真をご紹介します。
地方都市のよさですね。古くって重厚な日本建築の家、玄関を入ってすぐの広い応接間に、日本の調度品を飾っておられるのです。そこに、アールデコの作品ですから、調和します。
ただ、来訪者の多くが、「飾っておいても誰も分からない」というのも、地方都市の現実で少し寂しいですね。
あえて、今回は写真について説明しませんので、見る人が判断し、味わってください。

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新潟県三条市出身の女優、水野久美さんが、きょう10月20日午後2時から、三条市立中央公民館で,「故郷と人生を語る」のテーマで対談。相手の三条市文化団体協会三条支部副支部長の阿部凉子さんのリードもうまく、ほとんど1人での講演と同じような充実した内容になりました。
三条座という芝居小屋の隣の三階建ての写真館の娘に生まれ、子どものころから芝居を見て育ち、「自分は舞台に立って見られる人になろう」と決意するなど、幼いころからのエピソード、女学校だった新潟県立三条東高校の演劇部に入って、リア王や修善寺物語などの舞台に立ち、もちろんマドンナで主役を演じ、女優になろうと決心したいきさつ、宝塚の男役に憧れたが身長が足りず断念したこと、着の身着のままで上京、貧しい中で俳優座養成所に通い、モデルのアルバイトや、売血(当時はまだ献血が普及していなかった)までして、お金を工面するなど苦労したこと、松竹、そして東宝などと、映画や舞台で活躍してきた歩みなど女優歴50年、山本学との結婚、離婚など波乱に跳んだ人生70年の歩みを、故郷だからこそ、包み隠さず話してくださいました。
「私が山本学を振ったのではなく、私が振られたの。山本に、10歳くらい年上の、別の女性ができて、それで振られたのです」「あんなに優しい顔をした人が…。と言われますが、人は変わるのです。別の好きな人ができたのですから」とまるで自分のことでないような冷静な口調で話しておられました。山本と同じ年齢で、俳優座養成所の7期生同士。「愛していたので、4、5年は荒れましたね」と、屈託なく笑ておられました。
多くの苦労を語りながら、「それが女優としてすべて役に立ちました。感謝しています。役者は、真似事ではだめで、経験したことは、真実味をもって表現できます」とも。
「今なら、どんな役でもできます」と、与えられた役は、好き嫌いを言わずに真剣に演じてきたことと、さまざまな人生経験を経てきた自信が言葉の一つ一つに表れていました。
松竹の映画「きちがい部落」でデビューし、東宝に移ってからは「二人だけの橋」「独立愚連隊西へ」「怪獣大戦争」など多数。そして、雪国越後の高田盲学校の教師を勤めた実在の人粟津キヨさんをモデルにした小説「ふみ子の海」の映画に出演しています。舞台も芸術座の「雪国」などに出演。
テレビでは、さまざまな役どころを演じていますが、本当にやりたい役は、「子どものころから苦労してきた女性」だそうですが、ともすると悪女役やお金持ちのお嬢さん役が多かったと笑う。
とても70歳とは思えないはつらつさで、「三条の女性は頑張る」と、自分自信の生き様や三条の女性の姿を見て率直に語っていました。
もっとも、日本全国どこでも、女性の頑張りが、暮らしを支え、文化を支えているのが現実なのでしょうが。
あっと言う間の1時間半。お茶をいただく暇もありませんでした。

三条市には、亡くなりましたが、プロレスラーで、全日本プロレスのオーナーのジャイアント馬場さんのような人も出ていますが、水野久美さんのような女優さんもいます。小さい地方都市ですが、なかなか勝気な市民性で、三条が蒲原の中心として栄えた時代の「中世三条城」を失い、江戸時代には、高崎藩、村上藩、新発田藩に分割統治され、商工の街として生きてくるしかなった歴史が、勝気で、進取の気性の市民性を培ってきたものです。
歴史こそが、その街、そこに住む人々の性格を形成していくのです。
少し話しが長過ぎましたね。

写真の右が、俳優歴50年あまり、人生70年を語る水野久美さん
写真下は、700人ほどの市民が埋め尽くしたホールの上段部分。

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