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上杉謙信の伯母の「砂子(いさご)の前」の塚の伝承を記す看板です。 塚の全景。この塚の上から中世珠洲焼の壷片を採集しております。 塚の上には五輪塔の残欠が草に覆われていました。 草の中から取り出し撮影した五輪塔の残欠です。 酒呑(しゅてん)童子の生誕地と伝えられる場所は竹藪に覆われています。 酒呑童子の伝承を記した看板です。(拡大してお読みください) 3月22日、砂子塚(すなこづか)の集落では、ニホンスイセンが満開でした。 同じく菜の花が咲き始めたところです。 梅の花も満開でした。 《上杉謙信の伯母「砂子の前」の塚》 春が来ましたら、一気に花が咲き乱れ、僕の、遺物の表面採集も含めた歴史探訪も急に忙しくなり、ブログアップが追いつかず、ついつい、順序が逆になってしまいました。砂子塚の集落を訪問したのは、先週の土曜日22日のことです。すでに花などはすっかり咲きほころんでいるでしょう。 上杉謙信の伯母の「砂子の前」が、燕市(旧分水町)の砂子塚に至って、病に倒れ、亡くなったことから、住民が塚を築いて供養したという伝承が残っているそうです。 砂子塚という地名は、それ以前は砂子板と呼んでいたともいいます。砂子塚は、大昔の信濃川だったと言われる信濃川の分流、西川の右岸に開けた古い集落で、平安時代、京都で大暴れした酒呑童子が生まれたという伝承もあって、その生まれた場所が現在でも、竹薮となって保存されています。 また、砂子塚の周辺には、土錘、須恵器、土師器などの土器が大量に出土している高畑遺跡などもあり、古代から人々が住み着いていたことが明らかになっています。また、砂子の前を葬ったという塚は、すでに盗掘されていますが、その塚から、珠洲焼の甕の破片を採集しました。 遺物の年代と、砂子の前の死去した時代とを比較検討して見なければ成りませんが、古い塚であることだけは確かな訳です。それにしても、泥棒は塚を暴いて、何を盗んだのでしょうか。骨壷と思しき、珠洲焼の壷は、色も黒く、ましてや完形ではなったでしょうから、何の役にも立たず、その辺に捨て置いたものでしょう。 僕ら考古学に関心を持つものにとっては、これほどありがたいことはありません。もちろん、盗掘されないのが一番ですが。すの珠洲焼片は、収蔵しおり、すぐに取り出せませんので、まずは、砂子の前の塚の状況と、砂子塚集落で見つけた八重咲きのニホンスイセンやウメなどの花をブログアップします。
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歴史一般
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《隆全宝塔院住職に宛てた良寛禅師の三条地震見舞い状の碑》 宝塔院境内にある、三条地震の見舞いとして、良寛禅師が、宝塔院住職隆全和尚に宛てた手紙の碑は、良寛禅師の手紙をそのまま刻んだもので、行草書体では手も足もでません。そこで、宝塔院前住職の桑原良修師が執筆された「宝塔院ものがたり」から、原文と読み下し文を引用して紹介します。 原文(原文は縦書きですが、ブログの関係で横書きとします) 此度三條の大變 承信に恐入候 御尊體如何被遊候也 寶※院御住寺 ※は石偏に荅で「塔」に同じ 如何 被遊候也三浦屋 如何成候也もし 命有候ハヽ宜しく 御傳言御懶上申候 其他一一筆紙ニ 難盡候此方大ニ いたみ候へとも野僧 か草庵ハ無事ニ 御坐候御心安くおほし めし被下度候 早々頓首 霜月廿一日 宝※院御隠居様 良寛 読み下し文 この度、三条の大変 承り、まことに恐れ入り候。 ご尊体、いかが遊ばされ候や。 宝塔院ご住持、 いかが 遊ばされ候や。三浦屋 いかがなり候や。もし 命あり候らはば、宜しく ご伝言お頼み申し上げ候。 その他、一一筆紙に 尽くし難く候。この方大いに 痛み候えども、野僧 が草庵は無事に 御座候。お心安く思し 召下されたく候。 早々頓首 霜月二十一日 宝塔院ご隠居様 良寛 以上 桑原良修師は、意訳も添えておられますが、ここでは省かせていただきます。
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《titibu212000さんのブログ「私の武蔵国歴史考」拝読》 きょう2月23日は、久しぶりに朝から、しなければならない予定はなにもなし。ところが、忙しい時には、「時間があったらあれもしなければ、これもしたい」と思っていることをすべて忘れて、朝8時過ぎまで眠りこけました。 さて、ブログに向かって、ようやく、悪質コメがなくなって、新しい投稿をしなければ、いわゆる「自動巡回」の意味もない来訪者もほとんどないので、ゆっくりと、安心して、来訪者履歴を開いて、訪問いただいたブロガーのブログに目を通しました。 そして、初めて来訪いただいた、titibu212000さんのブログ「私の武蔵国歴史考」にめぐり合い、最新の投稿を読んで、これは平易な文章で、考古学に関心があり、関東の古墳や国分寺跡なども時に訪ねてきた僕には、中味も参考になると、まず、ゲストブックにコメントを入力させていただき、これからも訪問させていただきたいと、お気に入りに登録。 ところが、投稿した記事の数が、7ページ、35なので、気になって、最初の投稿記事から追って読み始めました。関心が高まるとよくすることですが。 武蔵国の地形の成り立ちから説き起こし、石器時代は触れておられないが、縄文時代の遺跡分布、弥生時代、古墳時代と、遺跡の分布から人口や農業の形態など想定、神話の時代を経て、奈良・平安時代の国の姿、そして平将門の乱などの時代へと、武蔵の歴史を噛み砕き、それでいて、きっちりと出典を明らかにしながら紐解いておられました。まるで、中学校か高校の教科書でも読むような感覚にとらわれました。 途中、遅い朝飯を食べたり、寝すぎてもまた睡魔に襲われて、うとうとしたり、昼間の風呂に入ったりはしましたが、とうとう、半日を、titibu212000さんのブログ「私の武蔵国歴史考」を拝読するのに費やしました。 天気予報は午前中曇りといいますが、空はいつ雨が降り出すか分からない雲行き。まだ、少しは雪も残っていて、遺物の表面採集に出かけるのも億劫だったせいもあるのですが、久しぶりに、体系だった歴史の考察に触れて、越後・蒲原の同じ時代の変化と合わせ、考えながら読み進むことができました。 こんな1日もあっていいなと、いま、昨年暮れ、最後の表面採集の折に、採集しながら飲もうかと思って、スーパーで買い求めながら、そのまま、封も切らず冷蔵庫に入れっぱなしになっていたコカ・コーラ(歩きながら飲むわけですから、残念ながら瓶入りではありません)を出して、風呂上りで乾いた喉を潤すのに飲んでいます。 午後3時、窓ガラス越しに、外の白濁した光を眺めています。 |
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この投稿を入力し始めたのが、12月31日午後11時35分。ブログアップするころには、2008年の新しい年を迎えることでしょう。 |
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