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《今こそ、西郷隆盛の政治改革の実績を見直そう》
〜世界の枠組みが変わろうとしているとき〜
今まで、僕のブログに、政治問題を取り上げることはありませんでしたが、今の混迷する日本の政治や、激変している国際情勢などから、もう一度、江戸幕府から明治政府に、大きく時代の流れが変わったときのこと、特に、薩長連合として、革命であった、明治維新を成し遂げる原動力となり、倒幕後、新しい日本の政治の枠組みを築きながら、長州などとの軋轢で、ついには、新政府に反旗を翻して敗れ、反逆の徒として葬りさられた西郷隆盛について、再評価すべきだと言う意見が、僕の元に寄せられおりますので、ここで紹介したいと思います。
いま、わずかに、東京・上野公園に、浴衣姿に犬を連れた、おおよそ大西郷にふさわしからぬ姿の銅像が建てられていますが、鹿児島に行けば、実に身の丈の高かった西郷を髣髴させる軍服が飾られ、決して、凡庸な男ではなかったことが一目瞭然です。
勝海舟との江戸城の無血開城の快事を成し遂げ、開明的だった長岡藩の河井継之助も、もしも、幕府軍の軍監が、若すぎた岩村精一郎(宿毛の出身)でなく、西郷隆盛であったら、北越戦争を起こさなくともよかったろうと、今もって、越後では語られるています。
その西郷隆盛が、倒幕後、2年間、西郷内閣と呼ぶにふさわしい政治の主導権を握って果たした政治改革について、日本人、なかんずく、政治に携わる人々は、もう一度、正しい歴史認識のもとで、西郷の実績を評価しなおすべきだし、現在、混迷する政治状況、国際情勢の中で、そこから幾ばくかを学ぶべきだというものです。
僕の知人Sさんから、そうした観点から書かれた、熱い思いを込めた一文が、たった今、僕の手元に届きましたので、ここに紹介いたします。読後感をお寄せください。
《Sさんからの西郷隆盛再評価を訴える文章全文》
明治維新が近代日本の出発点とされるのは、維新によって日本が長い鎖国をやめ近代世界に登場することになったからだが、しかし、維新を「革命だった」と考える者が意外と少ないのははなはだ残念だ。
せめて、国民生活に直接かかわる政治家くらいは、この認識をしっかりと持ってもらいたいと願わずにはおれない。
とはいえ、維新史の事実経過が正確に伝えられず、ややもすれば叙情的な記述だけが大手を振ってきたこれまでの歴史教育などを思えば、これもいた仕方ないことなのだろうが。
そうはいっても、このところの政治の混乱ぶりを見せつけられるにつれ、いまの体たらくは、こうした維新への皮相的な歴史観しか持ち合わせていない政治家の存在と無縁ではないのか、と考えざるを得ない。
維新初期の政治は、明治6年のいわゆる「征韓論政変」の前と後で、国事にかかわる者たちの顔ぶれはガラリと変わったが、いまの政治家によく知ってもらいたいのは、明治4年から政変までの2年余の維新政府、とりわけ岩倉具視が大久保利通や伊藤博文らの要人とともに使節団を構成し米欧に出かけた後を守って八面六臂した「西郷内閣」の、ひたむきな政治の心である。
もちろん首班は筆頭参議の西郷隆盛だった。この内閣はそれまでの廃藩置県につづく身分差別の撤廃と人権の確立を進める政策に加え、さらに多くの諸改革を推し進めた。国民の通婚や職業の選択を自由にし、部落差別に取り組み、娼妓を廃止し、年季奉公人を解放した。
さらには神社仏閣の女人禁制を止め、キリシタン禁制高札を撤去して信仰を自由にし、学制令を出して近代日本の教育のスキームもつくった。江藤新平司法卿のもとで法制が整備され、警察制度や監獄行政の仕組みが創設された。そして徴兵令から地租改正まで、この内閣は寝食を忘れて取り組んだ。
こうして「西郷内閣」はわずか2年余の間に、廃藩置県から地租改正までやり遂げ、それまでの日本の政治、経済、社会などの分野の封建制をひっくり返し、矢つぎばやの諸改革を断行したのだが、そこに一貫して流れていたのは、国家と国民を愛する西郷らの透明な政治の心だった。
残念なことに、西郷隆盛は「征韓論政変」で下野し、ついには西南戦争で命を散らすことになり、その後の為政者たちは、しだいに西郷内閣の実績を隠すようになっていった。
その流れの延長線上にあることも知らずに、いまの政治家の多くはこの「西郷内閣」の足跡を知ろうとすらせず、恬として恥じないように見える。心ある者には、一度でもいいから、明治4年から6年までの政治の革命性に触れ、そこから自分らがいま立ち向かうべき指針を少しでも見出してもらいたいものである。 (おわり)
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