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新発田歴史談話会新潟県北の史跡のブログを主宰している「ぼんぼこ」さんの阿賀北の石碑、板碑シリーズに刺激されて、まだ、まったく未解明なのですが、お聞きしたいと思い、ここに、三条市(旧下田村)下大浦の延命寺の墓地にある板碑と会津山之内一党の落武者とされる山之内氏勝の墓などを紹介します。
板碑は、三条地域の古い墓地で、時折、見掛けるのですが、不思議と将棋の駒を縦に長くしたような形で、上に横2本の糸刻、中は四角に掘り込んでありますが、文字は刻まれていません。 三条地域では、海蔵院にある「八郎誓阿供養碑」(元亨元年、西暦1321年)とか、石に五輪塔を刻んだ板碑などがありますが、なぜか、阿賀北のように自然石に梵字を刻んだ石碑や、魚沼地方のような、関東系の板碑があるわけでもありません。 なぜなのか。そして、注目されているのが、この文字の刻まれていない板碑なのです。 蒲原丘陵沿いの古刹や村の墓地など中世の珠洲焼などが拾えるような古い墓地で、時折、見つけることができます。見るからに古く、何か意味があるのではという観点で、見ているのですが。 ほかの地方でも、同様の板碑があるのでしょうか。 延命寺には2基ありました。加茂市の中世寺院、長福寺の末寺、三条市井栗の福楽寺境内など、確認できるだけで10基ほどに上ります。 山之内氏勝の墓については、下田の横田氏、目黒氏などが、山之内一党として、山之内氏勝とともに会津から落ち延びてきて、下田に住んだとされています。HPの「奥会津戦国風土記」などに詳しい。横田昌男氏の著書「山ノ内一党史」「山ノ内一党史補遺」に新潟県三条市下田地区の山ノ内一党について詳細な記述があります。 最後に、この板碑が、中世板碑として位置づけていいのかどうかも含め、諸兄の賢明なアドバイスをお願いいたします。 最下段の写真は、新潟県十日町市川西町の曹洞宗寺院長徳寺に伝わる鎌倉時代の板碑です。参考のため掲載しました。 |
考古新潟県央地域
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7日、新潟県の県庁15階にある新潟県教育庁文化行政課に、尾崎高宏埋蔵文化財係主任調査員をお訪ねして、プレス発表のあった大河津分水路工事現場の古墳時代の遺跡「五千石遺跡」から出土した勾玉、臼玉、古墳時代の須恵器の甕、「はそう」などの遺物について、「墳墓跡でないか」と疑問を投げかけてみました。
尾崎調査主任は、「確かにそれらの遺物は、三条市上保内の三王山古墳群の最も新しい古墳と同時期の六世紀前葉のころの遺物だが、墳墓でなく、祭祀跡ではないか」との見解をお聞かせくださいました。 そして、尾崎調査主任が、前任の財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団に在籍中、発掘調査を担当した「六日町 余川中道遺跡」の調査について、平成16年の新潟県考古学会の大会で発表した時のレジュメを下さいました。 六日町は、群馬の影響を受けた古墳として知られる飯綱山古墳群のあるところで、余川中道遺跡は、その古墳群のある丘陵の麓の沖積地にあり、発掘調査の結果、古代は川の縁辺だったということでした。 ここで、大河津分水路工事現場の五千石遺跡から出土した勾玉や臼玉、須恵器、「はそう」などのほか、大型の「はそう」や、古墳時代の土師器の器などが相当量まとまって出土。六日町地域の古墳時代に大きな影響を与えた、群馬(上野)地域の高崎市「芦田貝戸遺跡」、渋川市の「中筋遺跡」などで、畠、水田の脇や大溝付近など生産域近くで祭祀が行われているのが見られるとしておられました。 五千石遺跡の発掘を担当された燕市教育委員会の埋蔵文化財係の松島悦子さんも、「墳墓跡ではなく、祭祀跡」と言っておられた。 蒲原平野から、6世紀前葉を持って忽然と消えた、いや、まだ発見されていないのかもしれないのですが、6世紀前葉以後の墳墓が沖積地にあればという、淡い期待は消えました。 いずれにしろ、古墳は7世紀まで築造されていたと言いますし、蒲原平野と関連した丘陵の古墳をはじめ、古墳時代から奈良・平安時代へ移る段階で、地方豪族の墓の形式と葬送の儀式はどのように変わってきたのか、興味が尽きない問題です。 蒲原丘陵をはじめ、丘陵や縁辺の平野部での古墳探しの調査はこれからです。 |
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大河津分水路と言えば、越後の蒲原平野に恵みをもたらす反面、二年に一度は氾濫し、下流部の人々を塗炭の苦しみに陥れた暴れ川「信濃川」の水を、燕市大川津(地名は三本川)から、分水を掘り割って、古い港町で、いまでは、鮮魚の「アメ横」として知られる長岡市寺泊から海に放流する川。 |

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