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きのう8月23日、初めて頂いた「はむちゃん」からのコメントで、「遺跡調査について、初めまして、研究頑張ってください。地元を研究することは結構難しいですね。図書館などに行って調べたりするのが。調べれば調べるほどワクワクしますよね」という激励を頂きました。
突然、新潟県長岡市和島(平成の大合併前は「和島村」だったのですが)の延喜式内社に比定されている神社に関する遺跡のことを書いたために、初めて読まれた方は、なかなかブログ立ち上げの意図や方向性が見えないのかもしれないという反省をしています。
確かに、時には、僕の住んでいる新潟県のド真ん中「三条市」の三条市立図書館はじめ、近隣市町村の図書館に足を運んで、歴史や窯業などの書籍を紐解くこともあります。
しかし、図書館にある資料のほとんどは過去の、それもかなり古い調査の成果なのです。遺跡調査は、テレビ、新聞などで伝えられるようなビッグニュースを見るまでもなく、考古学の発展で、日々新しい発見が続いているのです。
僕の「遺跡の表面採集」の作業は、ひたすら現地を歩いて、自然の景観や、日本人が、石器時代(これは僕の研究対象外ですが)、縄文時代、弥生時代、そして古墳時代、奈良・平安時代、中世、そして近現代とこの大地で生き、それぞれの時代なりに、人々が住むのに適した住居を築き、林や農地を開墾してきた人々の姿を想像するのが大半なのです。
そして地域で活動している行政の埋蔵文化財担当職員の指導を得ながら、地域の歴史を概観していこうというものです。行政の埋蔵文化財担当者の多くが協力的です。
考古学の基本「表面採集による遺跡発見!」という僕なりの方法での遺跡調査は進みそうです。
平成の大合併で誕生した新しい三条市は、「歴史の宝庫」と考古学関係者からも注目されている地域のひとつです。山間部の旧下田村には、3万年以上も前の人類の活動の痕跡を残す遺跡が眠っています。
コシヒカリの生産される美田の広がる沖積地には、たとえば三条市の旧栄町地区では、地方で考古学が盛んになった昭和40年代に、すでに、沖積地から籾殻痕の付いた縄文土器が出土しているのです。この遺跡は「長畑遺跡」で、縄文晩期後半の遺跡。すでに西日本では稲作が始まっていた弥生時代に入っているとの認識がなされていた。
当時は、考古学と言えば縄文時代が中心で、今日のように、中世、あるいは近世にまで目が向けられる時代ではなかったせいもあって、発掘担当した関係者は、きわめて重要な発見と認識せず、籾殻痕の付いた土器も新潟大学に持ち込まれたまま、今では、その遺物の所在すら明らかではありません。今になってみれば、沖積地における縄文人の米の栽培が、弥生人と米を考えるだけでなく、「縄文人と米」あるいは「縄文土器を使っていた人たちと米」という新しい視点で捉える上で、重要な資料なのです。
そして、文献などで三条市にあったとされる「中世三条城」は、近世三条城の残されている絵図面などを基にしても、多くの郷土の歴史研究家の努力にも関わらず、今だ、どこに存在したか分からない状態なのです。数年前9人の死者を出した7・13水害(新潟・福島豪雨)で全国で有名になった暴れ川、五十嵐(いからし)川の流域に存在したはずなのですが。
三条市はもちろん、蒲原平野の地域の歴史はまだまだ未解明というのが現状です。多くの人の協力、指導を仰ぎながら、手を携えて、郷土の歴史を紐解いていきたいのです。
ついつい話が長くなってしまいました。
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