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考古新潟県央地域
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この遺跡は、須恵器類が多く採集される古代、中世の遺跡で、そのほか、近くの農業用排水路から、古墳時代の遺物が採集され、今回、天保通寳を採集したのは、水田を圃場整備後、豆畑に転用して、このほど収穫を終えて、秋耕も済ませてある。 天保通寳については、江戸時代の天保年間に鋳造し、しばらく置いて、寛文年間に再び鋳造されるようになったという。 当初は天保通宝1枚で100文としたが、実際には80文の価値しかなかった。寛永通宝の4文銭、一文銭とあって、寛永通宝25枚ないしは100枚分になる。ところが明治に入って、寛永通宝1枚1厘、天保通寳1枚を8厘と換算したことから、天保通寳を大事にしていた庶民は、大損することになったという。とにかく天保通寳にはいろいろな話があっておもしろい。機会を見て勉強したい。 |
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《中世山城跡の要害と遺物採集》 拡大して見てください。中世要害跡の残る要害山の周辺地図です。中世の遺物を採集した山麓などの地域も示しています。 三条市史通史編(上)より、伊藤正一さんが、調査した要害山の縄張り図と概要です。拡大してお読みください。ここでは、「大崎城跡」としています。張り巡らされた曲輪(くるわ)や空堀、また尾根を断ち切っている堀切など、立派な構えで、「城跡」と位置付けています。 しかし、謙信の跡目争いである「御館(おたて)の乱」の終末期に、上杉景勝が、「大崎表」を攻めるよう指令を出していますが、麓一帯の遺物採集では、平安時代の須恵器、土師器の破片はもとより、珠洲焼の擂鉢、甕片、あるいは場所によっては白磁、青磁などの舶載陶磁器の破片なども採集されますが、中世末期の唐津、越前焼の破片などが採集されず、果たして、中世末期にこの周辺に、城将クラスが拠っていたか、いまだ疑問のままです。 7月5日朝、久しぶりに、要害山の北側、麻布谷の山麓を表面採集。北口からの上り口の麓に開けていたと思われる段丘面の排水路から、珠洲焼の擂鉢片1点を採集。この辺りが最も、中世の遺物が多く採集されている一角です。 採集した珠洲焼の擂鉢の内側です。口縁部が欠けていますが、卸し目から時代が推測されるでしょうか。お分かりでしたらご教示願います。 同外側です。胎土はあまり良質ではりませんが、この部位で厚さは1cmです。サイズは、縦最長6cm、横最長7cmです。 この要害山の遺跡は、周囲の上り口付近の各所から、中世の遺物が採集できる状態で、これまで採集してきた遺物の大半は、三条市埋蔵文化財係に寄贈済みですが、今後、同係の担当者の手で、時代考証がなされるものと期待しています。
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《三条市の08発掘調査結果報告展示・安曲(あまがり)遺跡など》 風薫る5月という言葉がありますが、今年は全国的な異常気象で、きょう4月29日、昭和の日は、日差しは強かったのですが、風がさわやか、緑の草や色とりどりの草花が揺れ、まさに風が光っていました。 僕は仕事とはいえ、相手様はほとんど休日で、のんびりと町を走り、すっかりよい気分に。 時折、信濃川の風景を見るために、迂回して走る信濃川左岸の堤防道路に上がりましたら、道路脇や堤防の坂に、黄色く輝く「キツネノボタン」が、緑の草の中で、際立って見立ちました。 雑草と言ってしまえばそれまでですが、よく見るととても美しい花です。僕などは、草花の種というと、希少価値で大切にしますが、考えてみれば、雑草といわれる類の草花も、どこででも見られるということと花が小さめということを除けば、それぞれに美しい、愛おしいものだと、このごろ特に感じます。 三条市歴史民俗産業資料館で、展示説明会があり、三条市教委生涯学習課文化財係の職員が説明するというので、応援がてら見学に。会場の庭のボタンザクラと垣根のカナメモチの色がとてもバランスがよくて映してみました。 説明会は、何時もの発掘現場での説明会と違い、また、開催中の08遺跡発掘結果速報展での説明会が2回目とあって、参加者は10数人と少なかったですが、熱心に勉強していました。 三条市六ノ町、信濃川右岸の河川敷を2・5m発掘して現れたのが、明治時代の敷石と、そのころの金星サイダーの瓶。それまでは、ラムネしかなかったものが、初めてキャップ式のサイダーが登場したのが金星サイダーで、貴重な歴史の証人です。 ↑安曲(あまがり)遺跡は三条市下保内の吉津川周辺の平安時代の遺跡で、掲示されたパネルの中段に木の箱のようなものがありますが、これが木棺墓です。下に展示されている見るからに貴重品の須恵器の壷などが、棺の近くから採集されています。溝跡なども検出されました。 また、近くに、今回の調査では、遺構は発見されなかったのですが、発掘調査後、圃場整備事業の現場から、新潟県県央歴史研究所が、古墳時代前期の土師器の小壷と、古墳時代後期の須恵器の坏の蓋を採集しています。近くか、地下深くに古墳時代の遺跡も眠っていることを裏付けています。
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《加茂市小貫(こつなぎ)の畑から、珠洲焼片採集》 きょう4月26日正午過ぎ、先日、石造物を発見した猿毛集落の下流、小貫地域で表面採集を実施。加茂次郎義綱の伝承のある墓地を見学。中央に杉の大木があり、その周囲に、宝筺(きょう)印塔や五輪塔の残欠、板碑などの石造物が集めたように置かれていました。 これだけの石造物があるからには、中世から近世前半にこの地に住んだ有力者の居館跡があっていいはずです。加茂市教委でも、この墓地の下の水田地帯から、珠洲焼片を採集しているということですが、まだ、実見していません。 いずれにしろ、居館跡が見つかれば、相当量の珠洲焼片や陶磁器片がまとまって出土してもいいはずだと周辺を歩きましたが、今回は1箇所で1点の珠洲焼片を採集するにとどまりました。どこかに居館跡が眠っているのでしょうが、今回は発見できませんでした。 加茂次郎義綱伝説のある小貫地内の墓地。石造物が、杉の大木の周囲に集められています。すべてばらばらで、どれとどれが組むのかも分かりません。何枚か撮影した写真の1枚をアップします。 向かって奥の丘陵裾野の左手に墓地、右手に神社があるのですが、その中間の加茂川寄りの河岸段丘を利用したもともとは水田で、現在畑に転用され、今は休耕状態の場所から、珠洲焼の小破片1点が出土。その位置関係を写真に収めました。 出土した珠洲焼の片口、もしくは擂鉢の破片です。いずれも、直ちにメールにて加茂市教委に報告しました。まとまって、遺物が出土する場所はないのか、今後も表面採集を続けるしかありません。 |


