越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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《加茂市猿毛の永明寺墓地は春》

加茂市には、古くから佐渡に配流になったはずの加茂次郎義綱伝説が残っており、あくまでも伝承に過ぎませんが、市内の二箇所に墓碑や古い五輪塔、宝きょう印塔の残欠などがあります。

加茂次郎義綱はべつとしても、これら古い五輪塔、宝きょう印塔の残欠などが、どうした人たちのものなのかは、いまだ明らかにされていません。二箇所のうちの加茂川中流、小貫というところに、多くの古い五輪塔や宝きょう印塔の残欠があるといいますが、僕はまだ一度も訪ねたことがありません。

今回、近くを通る用事があって、加茂川を挟んで対岸の丘陵壇上に、墓地がありましたので、加茂川に架かる猿毛の橋を渡って行きました。それは小貫ではなく、ひとつ上手の猿毛の集落の墓地で、そこで畑仕事をしていた婦人の話では、永明寺の管理地だそうです。

猿毛山への上り口にあたり、とてもいい立地なので、婦人に了解を得て、その墓地を散策、古い五輪塔と宝きょう印塔の残欠がありました。加茂市教委に連絡、小貫の加茂次郎義綱伝説のある墓地は、史跡指定されていましたが、猿毛の墓地は、無指定なので、一応、デジカメで写真を撮って帰りました。

遅咲きの桜が咲き始めていましたので、墓地の全景も撮影してきました。
また、同集落の上手の丘陵上に立派な日枝社(日吉神社)が鎮座していました。あたりは、古くから開けた集落のようです。ただ、縄文土器は拾えても、古代、中世の遺物はまだ発見されていないようです。

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猿毛集落の墓地を望む

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小さな小屋の中に、五輪塔や宝きょう印塔の残欠などがありました。他にも、線香を上げる台に使われていましたが、○のなかに梵字を刻んだ四角の残欠がありました。


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日枝社は立派な社ですが、近所の若い夫婦でも、この神社の名前すら知らない有様。神道の衰退云々を言うのではなく、地元の歴史に対する理解がない事態に嘆かざるを得ないのです。

僕の考古学

《僕の考古学》

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三条市柳沢から流れてくる水戸川(三途の川)の近くに古墳時代、平安時代の遺物が眠っています。日が変わったので、きのう6日ですが、快晴のお昼時、久しぶりに訪ねました。まだ春耕前の水田にコロンと土師器の底の部分(三条市教委に確認。古墳時代の遺物です)が転がっていました。(写真右下)農夫が雪降り前にでも農作業をしていて出てきたものを捨てたものでしょうか。


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土師器の底の部分です。高台のように、少しだけ底の部分が立ち上がっています。

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土師器の皿の表です。比較的、平らな皿のように見えます。


さて、春の日差しの中を、農夫らが畦塗りを始めました。僕は、畦が塗られる前の、雪で地肌を削られた畦を中心に歩きます。ぼろぼろになった地肌に、時に、見落としそうな土器の小破片が目に飛び込んできます。1個でもあれば、その近くに遺跡のある可能性があるのです。

さて、歩きながら、こんな言葉が浮かんできました。メモしてきたわけでありませんが、今、思い出しながら入力してみました。よかったら、読んでみて下さい。

《僕の考古学》

僕に掘ることは許されていない
ひたすら歩くだけだ
歩き始めて15年の歳月が過ぎ
どれだけの時間と距離を歩いたのだろうか

ただ、土を見つめ
土から顔をのぞかせている土器たちに
声を掛け、返ってくる言葉に聞き耳を立てている

それが、たとえ、縄文の衣装をまとっていようと
古墳文化の彩を施されていようと
いやいや戦国の苦難の色を浮かべていても
しっかりと、なぜそこに眠り続けていたのかを聞く

快い春と秋の晴れた日はもちろん、
冬の小雪が舞う日でも、土がのぞき見えるときまで
夏の照り返す熱に足裏を焼かれるような日にも
僕は歩き続ける

古代の人々の生き様に魅せられて
水の枯れることのない沢や川、沼沢のある風景
雨季になっても溢れる水に流されることのない風景
のなかで、
わずかの水田と畑で
きょう食べる穀物を育て収穫してきた人々

都の人々の贅沢とはあまりにもかけ離れた
税にあえぐ厳しい暮らしの中で
それでも生きるために土地を耕し
川を掘り、歩くことがやっとの道を築き
田母木の掘っ立て柱で家を築いた

村中の丸太の社を築くのに
どれほどの人々の力が費やされたのか
ただ、発掘調査によって
明らかとなる有力者の存在の証明
見事な墳墓のあばかれた後に西風が吹き込む

しかし、多くの人々にはあまりに縁遠い
まつりごとの春の季節に
きょうも日が暮れていくのだ

僕の耳に聞こえる
多くの人々の笑う声が
多くの人々の泣く声が
多くの人々の叫ぶ声が
時には争う声すら聞こえてくるのだ

焼けた器の破片には
焼け出された人々の嘆きが焼き付いている
器は火で焼き上げられ、形作られたのに
さらに無用の戦のせいで
家もろともに焼かれたのだ

限りがない
歩き続けていると
さまざまな怨霊が手にした器の破片を突き出してくるのだ
この器にも「日の目を見させてくれ」と
すでにこの世に姿を現すことのない古代の人々が
突き出すのだ
過ぎし日の「物語を聞いてくれ」と

歩かないわけにいかない
あと10年として
1年は54週ほどあるか
土、日曜日すべてを充てるわけにいかない
せいぜい1日、そして1日4時間
僕が、古代の人々の声を聞く時間には限りがある

さあ、語るがいい、歌うがいい
僕らの祖先よ
宴とは無縁の日々を生きた人々よ
言霊(ことだま)を発して、
僕の未来に向かって
土器片を投げるがいい

美しい器の破片たちを
この手にしっかりとつかんで
やがて僕の使った器も
土の中に帰る日が来るのだと
気付くだろうから
《燕市砂子塚地内の古代の遺跡、網を想像させる土錘遺物など》
酒呑童子の伝説や上杉謙信の伯母、「砂子の前」と伝承される中世塚などのある砂子塚地域ですが、この集落の北東、高畑地内の水田に、この遺物包蔵地が展開しています。

圃場整備で、古代の遺物がかなりの量、出土しました。特に、土錘は、ともすると、網なので、網を仕掛ける場所まで持ち歩きされるので、出土地を即住居址と確定できない一面があります。

しかし、今回は、周辺から古代の遺物が多く出土していることから、住居氏との関係が濃厚です。この地域は、古い時代の信濃川だったとも言われる、西川の右岸で、自然堤防上にあります。

湖沼や河川の近くの家では、内水面漁労として、こうした土錘を付けた網を使っていたことが伺えます。

三条市の吉津川沿いの遺物包蔵地でも、似た土錘を採集しています。同所では、周辺から他の須恵器、土師器の破片などの出土、採集が見られず、土錘が単独でしたが、高畑では、このような遺物の採集状況です。もちろん、細かな須恵器、土師器の破片はもっとたくさんあります。


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排水路の底から遺物↓が出土しました。

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古代の土師器の甕の底などです。

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その隣の水田から、多数の須恵器、土師器の破片が出土しています。

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↑から出土した須恵器、土師器の破片です。長首壷の首部分なども出ています。

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同じ場所から採集した土錘と破片群です。数固体分に及びます。土錘などは、網に使われた錘ですが、投網なのか、定置網なのかなど、網の種類については僕には分かりません。

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土錘を立てて上から見ました。かなり大きな穴が開いています。

《驚いた「wikipediaの三条市ー三条城の紹介」》

ある三条市外のブロガーのブログに、三条島ノ城の訪問記と歴史が紹介されていました。三条市を訪問いただいた上に、三条の城の紹介をしていただき、三条市民としてとてもうれしかった。

ところが、紹介された歴史の部分を見て、驚嘆した。このブロガーは、地元の方でないので、三条市須頃の三条競馬場跡地に「三条島ノ城」の石碑が建設された経緯もご存じないのは無理もない。また、wikipediaの三条市の項に書かれている三条の歴史をコピーされて紹介されたのも無理からぬことで、罪はない。

ただ、明らかに違っていると思われる内容だと、これから、与板城主直江兼続が主人公の大河ドラマ「天地人」が、NHKで放映される時期でもあり、多くの人々が、関心を寄せることなので、困ったなと感じた。ブロガーには、三条市民の一人として恥を忍んで、その旨、コメントしたが、どうも、誤解されたようで気まずい思いをすることになった。

しかし、明らかに違っている点は、正しておかなければならない。wikipediaに投稿された方がどなたか知らない。一部をコピーすると以下の通り。


江戸時代以前
885年 - 京都石清水八幡宮より分霊を頂き、大崎に八幡宮(三条八幡宮)が創建される。
1297年 - 日蓮の孫弟子・日印が青蓮華庵(現在の法華宗陣門流総本山・本成寺)を創建。
1507年 - 永正の乱。三条島ノ城将山吉能盛が守護代の長尾為景(三条長尾家。上杉謙信の父。)につく。
1577年 - 神余親綱が三条島ノ城主となる。
1599年 - 堀直政が三条城島ノ城主となる(5万石)。八幡宮が現在地へ移る。

[編集] 江戸時代
1608年 - 堀直政の長男・直清が三条島ノ城主となる。
1610年 - 堀家のお家騒動により堀直清が改易、三条島ノ城は廃城。
1616年 - 幕府が市橋長勝を伯耆矢橋から三条城主(4万1,300石)に任じ、三条島ノ城の信濃川対岸(現在の元町。三条小学校付近)に新たに城地を定めて三条城を築城。

以上だ。
難しいことはさておき、中世から近世に掛けての三条城の城の名が「三条島ノ城」とされている。

ところが、近世三条城の位置は、残された町絵図などから、概ね、旧三条市街地の中心部であることが明らかとなってきている。中世三条城については、依然として位置も謎のまま。

大河信濃川と五十嵐川の交わるところに築かれた城だけに、両河川の乱流によって、どのような被害を受けてきたか分からないし、また、近世三条城の大普請のときに、中世三条城が、壊されているかもしれない。

ところで、三条市史の編纂にあたって担当の史家が、地元の関係者でなかったこともあって、「三条島ノ城」とした根拠は、これまで研究者の努力にもかかわらず、享徳3(西暦1454)年に、阿賀北の人、中条秀叟資房が、30年ほど前の応永33(1426)年の応永の大乱のときのことを思い出して記した「覚書」に「三条島城」と一度出てくるだけで、果たして、これをもって、中世三条城を「三条島ノ城」と呼んでよいものかどうか、疑問視されているところだ。

「三条市史」が刊行されたとき、担当者は、この一事をもって、中世三条城を「三条島ノ城と呼ばれていた」(三条市史資料編第二巻古代中世編・108ページ、注に{中世の三条城は『島の城』と呼ばれ三条市大字須頃の三条競馬場付近にあったといわれる」)と決め付けてしまった。

というのが真相。須頃の競馬場跡地に建てられた石碑については、地元の小説家が、史実としての根拠が薄い中、伝承を元に、こここそが「三条島ノ城」とばかりに、関係者の協力を得ながら建立。ところが、内容が事実と異なることから、石碑を立て直す際に碑文も書き改めてある言う。

現在では、中世から近世に掛けての築城については、いかに今は川幅が狭くとも、かつての信濃川の大きさから考えて、信濃川の対岸に城を築くことは防御性から言っても、必然性がないとされている。

信濃町、城町渡しの伝承と、中条秀叟資房の覚書の「三条島城」の読み替えから、今日の混乱を招いている次第。

上杉謙信亡き後の跡目争い「御館の乱」で、三条城将、神余親綱が上杉景虎方に付き、最後の最後まで、上杉景勝方と拮抗。三条城は難攻不落の平城で、景勝が攻めあぐね、もっと城内から裏切りるように仕向けろと檄を飛ばしているほど。三条城が内通者によって内部から崩れた情景が、果たして大河ドラマに描かれるかどうか知らない。

中世三条城は、「三条島ノ城」でもないし、大方は、近世三条城の近くに想定されるものだろうから、これを機会に、三条市民はもちろん、御館の乱など郷土史に関心をもたれる方はくれぐれも留意していただきたい。

近世三条城の跡をしのばせる形で、市街地が形成された絵図面があり、三条市歴史民俗産業資料館にも展示されているので機会があったら拝見してください。

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布施谷川左岸、扇状地の土師器片、採集地周辺の遺跡状況(文字が読みにくいので、拡大して確認ください)

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採集した土師器片


《三条市上保内、布施谷川左岸 扇状地より土師器片採集》

3月23日、かねてより着目し、課題にしてきた布施谷川左岸の扇状地の遺跡の展開について、雪解け後、春耕前の、遺物表面採集の絶好のチャンスを逃さず、確認に入りました。

すでに、簡単な排水路整備などの圃場整備事業も終えていますが、これまで、遺物採取地が限られていました。

しかし、右手上部の柳沢地内の丘陵部が、平野部に落ち込んでいる辺りは、今は乾田化されていますが、かつては低湿地帯で、地元の人は、舟をつなぐ石があったと言っているほどです。

ところが、その低湿地は、写真下の方向に向きを変えて、水戸川遺跡の方向へ落ちています。

また、布施谷川は、丘陵地帯を蛇行しながら流れ下り、扇状地に入ると幾分蛇行しながらも、整備後は直線上に左斜め下に流れています。

これは明らかに人工的な流路で、どう見ても、かつては扇状地で乱流していた形跡があります。布施谷川の左岸でも、左の一段低い部分を今は小さな排水路が流れています。もちろん人工的に掘削された排水路ですが、地形からして、もともとこの線に添った形で、水が、水戸川遺跡の方向に流れていたものと想像されます。

そこで、気になるのが、柳川方向から流れてきた水戸川と布施谷川方向から流れてくる排水路の中間部分が、一段と高い形で、水戸川遺跡の方向に続いています。

ここが、水戸川左岸の扇状地では最も安定している一帯で、古代以前に人が住んでいたはずだというのが僕の推測でした。水辺で安定している土地は、古代以前、いや中世においても、重要な住居地としてみなければなりません。

そこで、今回、遺物の表面採集には最高のこの時期に表面採集を敢行したわけです。ついに、遺物がありました。まず、示した範囲の右手の排水路の路肩から、2点の土師器片が採集されました。これで自信を付けて、水田の畦を丁寧に歩き、写真の成果を得ました。

もちろん微細ですから、心ない考古学の専門家に掛かると、「遺物の流れ込み」と即断されてもやむを得ない状況です。しかし、今までの、丘陵縁辺部の傾斜地での遺物採集では、この微量の採集が、圃場整備後の遺物包含層発見に結びついた例は多数あるので、ここでは要注意です。

僕は、専門家になんと言われようと、遺物採集地である事実をもとに、今後もこの地域の遺物の採集を続けて行きます。

信濃川や五十嵐川など一級河川ですと、流路が変るたびに、既存の遺跡が破壊されることもあります。また土木技術の発達が今日ほどでなかった中世、古代以前では、当然、一級河川の流路縁辺よりも、こうした中小河川の方が、コントロールしやすく、かつ水もたえず流れているということで、居を構えるのに適していたと考えられます。

また、柳沢の低湿地のような、舟をつけることができる川か沼などの湿地があることは、舟運が主だった時代の交通の便、川魚などの蛋白源の確保などでも有利だったと考えられます。

保内の三王山古墳群のすぐ丘陵縁辺部で、古代、中世の遺物包含層を発見し、水戸川の信越線アンダーの工事に際して、古代、古墳時代の遺物並びに遺物包含層を発見。さらには、この図面より西の合屋集落周辺で、古代、中世の遺物包含層を、信越線の北側からも中世、古代の遺物包含層を発見し続けてきた立場からすれば、この周辺の展開は、実に中身が濃いといわざるを得ません。

《布施谷川左岸扇状地の遺跡展開》というテーマで研究は進められなければ成りません。
いよいよ、この地域の遺物採集成果を、面的に検討する時期に来ています。良識的な考古学関係者の協力をお願いしていかなければなりません。よろしくお願いいたします。

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