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《南蒲原郡田上町坂田地内の道下・川東遺跡》 畦から顔をのぞかせた器台の台部分 古代の遺物が多く採集される畦と向かって左の水田が遺物包含層 この遺跡の一帯で採集された遺物。左上が器台、右上が縄文土器の破片、 左下は古代の須恵器片、土師器、右下が、珠洲焼片と砂目トチンのある唐津焼(?) 道下・川東遺跡は、田上町の遺跡台帳上、縄文晩期、奈良、平安時代の遺跡と位置づけられています。これに中世の遺物も含まれることに成ります。 |
考古新潟県央地域
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《荒又遺跡の西(安曲遺跡の東)の遺物包含層の状況を写真で紹介します》 荒又遺跡の西(安曲遺跡の東)の排水路工事現場で採集の遺物 排水路の工事現場。鉄塔が目印で、この鉄塔の北側(向かって右)古い農業用排水路の路肩から土師器、須恵器の破片が採集さていました。 昔の暗渠排水工事で埋めた陶管や地層がそのまま残っています。発掘調査されなかったことを物語っています。 掘削された土から遺物が顔を覗かせます。 同遺物包含層から採集した蓋付きの坏の蓋の破片です。ともすると壷の蓋かも知れません。6Cから8Cの製作でしょうか。高さが、2.5Cmほどあります。 同じ蓋の内側です。 |
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加茂市下条地内、太田遺跡の南100メートル以上はなれた新たな遺物包含層より採集の遺物です。 遺物を採集した地点より東を望みました。 遺物を採集した地点より南を望みました。これで土地勘のある人は遺物採集地点が分かるはずです。 遺物の出土状況です。黒い土と鼠色の中間に遺物が挟まれていますから、採集の際の心得です。 同じく、遺物の出土状況です。 掘削土の盛土も一冬、雪の下になると、このようにぼろぼろにこなれ、土師器や須恵器などの破片が顔を覗かせます。今が、工事現場の掘削土の中から遺物を採集するのに都合がいいのです。もう少したつと土はならされたり、別の場所に運ばれたりします。 加茂市教委製作の「太田遺跡、荒又遺跡の推移範囲」の地図を利用。加筆部分が、今回、遺物を採集した地点。 《遺物の表面採集をしていると汗ばむほどの暖かさ》 きょう3月9日は、午後から、加茂市下条の太田遺跡の南、三条市下保内の安曲遺跡の東の、それぞれ圃場整備事業の現場を歩いて、新しい遺物包含層を見つけてきました。 両市とも、埋蔵文化財の調査では、新潟県内でも屈指の調査実績を誇っているのですが、今の埋蔵文化財に関する国の文化財行政の貧困、一口に言えば、奈良、京都などを除けば、ほとんど、独自の文化財保護のための発掘調査費用を持たず、遺跡破壊の恐れのある場合に、遺跡を破壊する事業主体の経費負担で、試掘ならびに発掘調査を行っている現状では、遺跡破壊もやむを得ないところです。 たとえば、圃場整備事業については、これを行う土地改良区が発掘調査の経費を負担するわけですから、排水路など、2メートル前後掘削するような場所についてのみ、発掘調査するわけです。 ところが、古代、中世では、今ほど、農地は平らにならされておらず、自然堤防など凹凸が激しく、多分、水田の面積も、山岳地帯の千枚田ほど狭くなくとも、今ほど広くなかったと思われます。 ですから、今、圃場整備事業で土をならしますと、案外、遺跡の包含層が浅いところと、深いところがあります。深いところは、排水路でも掘らなければ、確かに遺跡は破壊されません。 ところが、浅いところでは、すぐに黒い遺物包含層に当たります。そして、茶色の地山がのぞきます。圃場整備事業の場合は、畑を崩してしまうとか、排水路を掘るところは試掘、発掘調査をしますが、それ以外のところは調査できません。 したがって、今回の加茂市下条地内の太田遺跡(墨書土器の出る遺跡で、新潟県県央歴史研究所で発見した遺跡です)の場合、平安時代の遺物を多く発見した排水路は、埋め立てるというので発掘調査を行わず、それより、十メートルほど南の排水路を新たに掘る場所だけ、発掘調査しました。もちろん、同研究所が発見した遺跡と南北につながるわけです。 ところが、今回、相当量の遺物を採集した遺物包含層は、発掘調査した太田遺跡よりも、100メートルほど南に位置します。表面採集では、遺物が発見されていませんでした。そのため試掘も、もちろん本発掘も行われないままでした。太田遺跡に含まれて指定はされています。 昨年のうちに、圃場整備が行われ、現在も工事中ですが、雪で、盛り上げられた掘削土が圧縮されて、遺物だけが浮き出る状態になるのです。きょう、雪解け後、初めて現場を歩きましたら、予想通り、遺物包含層に当たったわけです. 三条市下保内の安曲遺跡の東側は、加茂市下条との境界で、加茂市側は、周知の荒又遺跡で、遺跡の東側に古墳時代が眠っていますが、多くは古代、古墳時代の遺跡が眠っており、発掘調査されました。安心しておりましたら、三条市側は発掘調査されなかった模様で、昨年から、発掘調査した割には発掘した土から遺物が多く見つかります。 きょう、確認のため、同所を歩きましたら、発掘調査されていないことが分かりました。以前の暗渠排水路の陶管がそのままですし、地層も壊されずにそっくり残っていました。遺物も、多く見つかりました。わずかの区間ではありますが、古墳時代、あるいは平安時代に沼沢の淵に営まれた住居跡と考えれば、加茂市と三条市が一緒に発掘調査して、遺跡と沼沢地跡の区分を明らかにしておきたいところでした。 幸い遺物は相当採集できましたので、後ほど、市教委の担当者と検討することにします。今回は、とりあえず、太田遺跡の南の遺物包含層の状態と採集遺物を紹介します。
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研究機関誌「越佐補遺些」に収載の野水晃子「吉田町大坪遺跡採集の珠洲焼について」の添付地図を利用し、3月2日の採集エリア、排水路、踏切名などを加筆しました。(拡大して見てください) 同日採集遺物のA 同日採集の遺物のB 採集した地域の状況 1 採集した地域の状況 2 同日採集の遺物のC 08・3・1採集の遺物のE1 08・3・1採集の遺物のE2 《燕市粟生津地区大坪遺跡の周辺で採集の遺物》 3月2日午後、粟生津地区の大坪遺跡周辺の水田で行われた暗渠排水工事現場で表面採集。これまでにも、この地域では大量に遺物が出土し、採集していますが、それでも今回の暗渠排水工事で、多くの遺物が採集されました。他にもありますので、後で追加しますが、平安時代から中世、近世と多少遺物の集中する箇所はずれていますが、エリア内からは相当量の遺物が採集されています。 特に、中世、近世の遺物が多く、古代に比べ、比較的、土器が少なくなるとされる中世ですが、擂鉢、甕、壷など珠洲焼はもとより、青磁碗など舶載陶磁器、国産の陶磁器の壷、得体の知れない赤く焼けた礫などさまざまな遺物が相当量採集されます。 地域の人の話では、戦後の圃場整備事業が行われる以前は、粟生津から高木古新田に掛けて、小高く、畑が続いていたそうです。明らかに大通川(もっと古い時代の西川の可能性も含めて)の自然堤防で、その上に、一部古代と近世、多くは中世の集落があったと想定されます。 破壊される前に、丁寧に調査が行われていなかったのが残念です。大きな遺跡群が想定されますし、高級な陶磁器が混じっていますので無視できません。それに、なぜ、この一帯から集落が消えて、長い間、畑地になっていたのか。謎のある一帯です。
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《弥彦村・矢作丘陵の稲葉塚古墳》 雪に覆われた4世紀前期古墳の稲葉塚古墳。標高42メートルで、古墳の全長26・3メートル。 一帯からは古墳時代の土師器の破片はもとより、弥生時代の遺物の破片も採集されている。見晴らしのよい高台の最も高い部分で、高地集落が営まれていたものと見られている。 発掘調査は行われていないが、ボーリング調査により、石郭の存在が確認されている。巻の山谷古墳(4世紀中ごろの前方後方墳)や同じく巻の菖蒲塚古墳(四世紀後半の前方後円墳)には石郭はなかった。
これら、弥彦から・巻に掛けての古墳群は、ひとつのブロックとして、同系列の首長クラスの墓であったろうというのが調査に当たった甘粕健氏(1990年から1992年までの3カ年間、調査を実施した当時、新潟大学教授)らの見方だ。 |




