越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

考古新潟県央地域

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三条市南入蔵周辺の地図 赤く囲ったところが南入蔵遺跡 (地図を拡大して見てください)

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このほど採集した古代の土師器並びに須恵器の破片 表

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このほど採集した古代の土師器並びに須恵器の破片 裏

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残土が搬入された古代の遺跡が眠る水田

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遺物の出土状況

新潟県三条市の南入蔵遺跡は、南入蔵集落の南側の畑地と水田とに広がり、水田側は、かねてから平成の圃場整備事業によって、土師器、須恵器の破片などが出土した古代の遺跡で、集落に近い畑からは、青磁碗、瀬戸美濃、天目茶碗、鉄釉のかかった壷など茶道具や、珠洲焼の甕やすり鉢の生活雑器の破片が採集される中世の遺跡とからなります。

平成の大合併が行われるまで、南入蔵の集落部分は旧三条市地域でしたが、水田部分は旧栄町地区で、行政区の境目だったので、新潟県県央歴史研究所で、圃場整備の段階で遺跡の存在を確認して、両市町に報告しましたが、発掘調査は行われずじまい。古代、中世とも相当量の遺物が採集され、特に、中世は茶道具などバラィテーに富む器種の組成で、有力者の居館が近くにあることが想定されます。採集した遺物は、いずれも三条市教育委員会に寄贈してあります。

さて、今回、同遺跡脇の市道を走行し、古代の遺物が多く出土した水田側の一角に、小砂利の混じった残土が持ち込まれ、攪拌された状態になっていましたので、残土に遺物が混じっているか、また、掘り返された土から遺物が拾えるかチェック。

予想通り、残土からは遺物は見つからず、掘り返された土から、上記の遺物が採集されました。圃場整備や暗渠排水の工事によって、古代の遺物が相当量出土したのですから当然です。

この遺跡の西側を大面川が流れ、川を挟んで、入蔵新田、蔵内、あるいは茅原、東光寺など広い区域で、古代と中世の遺跡の展開が見られます。添付の図面に印を落としますと、見事なほどの遺跡の存在に、驚かれることと思います。またの機会に、遺跡を落とし込んでブログアップしてみたいと思います。

蒲原丘陵と大面川の存在が、この一帯に古代から人々が多く進出し、土地を開墾し、住居を構え、集落を形成してきたことが分かります。集落の範囲は、古代の方が広がり、中世、そして現代の方が縮小されているのが、遺物の散乱の状況から推定できるのです。

平成の大合併で、旧三条市と旧栄町が合併し、三条市となったことから、これからの調査の進展が期待されます。その意味でも、今回の採集資料は少量で、なおかつ古代の遺物だけでしたが、ここに紹介しておくものです。

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かねてより、遺物を採集し続けている遺跡の1つに、三条市東大崎地内の古代から近世までの遺物が拾える遺跡があります。特に中世の遺物としては、珠洲焼とともに、青磁碗の破片なども採集できます。すでに三条市教育委員会に報告済みです。

今回、12月16日に改めて遺跡を訪ね、排水路の中や水田中より、遺物を採集しましたので紹介します。排水路は、気温が下がり、とても冷たいのですが、藻や微生物などが死に、水が澄んでおりますので、底がよく見え、冬ならではの成果が得られます。水の中に素手を入れて取るのですから、昔の人が川の水で大根を洗ったときの冷たさが分かります。

この遺跡の南東には、早くから発見されている古代の犬川原遺跡があり、南西の方向、数百メートル離れた西大崎地内には、下町遺跡という中世の鍛冶工房跡が発掘調査によって明らかになっています。いわゆる大崎鋳物師の跡としてはじめて確認された遺跡です。

現在は、国道403号線によって西大崎と東大崎に別れていますが、もともとは、同じ大崎地域で、この周辺だけでなく、広く鋳物の残滓が採集されます。ここでは、鋳物の残滓としていますが、一般には、第二次的なタタラの残滓としています。

砂鉄から鉄を取り出す製鉄の第一次タタラではなく、鉄屑などを溶かして再利用する際の第二次的なタタラ、もしくは鋳型を作って鋳物を作った後に壊した残滓とも取れるもので、今後、引き続き調査が必要です。

写真は上から、遺跡の現場、残滓、遺物の写真です。遺物の写真は、左側2列が土師器、須恵器など古代の遺物、右側2列が、珠洲焼き、灰釉陶器、青磁片(右端の1点)などです。
  
《そこに住む人がまず喜びを》


佐藤―遺物の展示は面白くない。というのに反論はないか。津南の「なじょもん」では、子どもと一緒に1年がかりで、100万円くらい掛けて、地域の古老から縄をなうことをしている。
また、電灯を消させて、闇の中で、灯に向かうのはどういうことかを学ばせる。僕の資料館では、展示品を手に撮って見てもらう。壊れてもいいから、見て、舐めてと子どもたちにけし掛けてやっている。ふるさと三条でできるかどうか。

岡村―日本の考古学の片寄りが顕著で何を伝えたいかが伝わってこない。過去を伝えるのでなく、自分たちの住む土地の特色を分かっていること、それを外の人たちに分かってもらうことが必要。
 
近藤―任意団体は、心を合わせることが難しく、会員が減っているが、諸橋轍次先生は、「衆を集めるものは思い、力を出しやすい」とおっしゃっている。保存会は私で五代目だが、会員を150人ほど増やし、400人を超えた。観光で人から来てもらうには、まず、そこに住んでいる人が、喜びがないといけない。地域の人が喜びを感じられる場にした。

北村―遺跡を管理する立場として理解していただきたいのは、文化財は国の文化財保護法、地域の条例に基づき、そのままの形で残していこうというのが第一義。国、県も史跡については、地域から、今回のテーマのように、活用したいので現状を変更したいと上がってくる。遺跡を壊さないようにしながら、地域の人の暮らしや活用についてかなり弾力的に考えている。

金子―(下田地区の)高城が上手くいっている。ヒメサユリの方が有名になった。登山道も整備され、袴腰山まで登る。五百川まで抜ける道も完成して、登山、史跡めぐりに活用されている。五百川に抜けて、「いい湯らてぃ」に入ってくると1日の疲れが取れる。1つの遺跡の名前を活かすのでなく、いろんな面かを工夫して使っていただくとありがたい。五十嵐小文治館もゲートボール場に活用して、保存会の会員が増えるのは喜ばしい。八十里越には、源頼朝が鎌倉幕府をつくったころ、越後支配をするのに整備したという「鎌倉街道」という別名もある。わらべ歌にも歌われていた。北越戊辰戦争のとき、河井継之助が歌を詠んだのは有名。

國定―シンポジウムは難しい。とかく発言の奪い合いで話がまとまらない。きょうは、同じ方向性に向かっているので、思いを強くした。ここ150年くらい、日本人が日本人らしくない文化を取り入れて急速に変化してきた。それぞれが、なぜ、日本人なのか、日本人の中でも三条人なのか、そこを知ることが確固たる王道をいくころ。今だからこそ、古いものを求めて、新しいものを生かしていく。子どもたちが三条を知り、誇りを持って、古いものを訪ね、新しいものにストーリーを求めなければならない。「虫も殺さぬ大化の改新」と年号だけ覚えてもしようがない。なぜ、三条の文化、産業なのか、それがブランド力の基礎になる。
 遺跡を訪ねることは、産業、伝統を生かすことにつながる。伊勢神宮の式年遷宮は、長く技術を伝承るために、あえて20年に1度、取り壊して建て替えている。観光、地場産業の活性化、技術の伝承など、ストーリーを展開していきたい。         (おわり)
《ポテンシャル高い土地の記憶》

山井―産業人の立場から、遺跡、歴史をどう活用していくか。合併した三条市にとって、きょうは歴史的な日になった。岡村先生の話を聞いていて、三条市がもっと好きになった。三条の町の歴史を誇りに思えるのは贅沢なこと。

三条市が日本中に、あまり知られていないということで、三条商工会議所では、地域ブランド委員会を設けて、取り組んでいる。われわれ自身が、三条を愛せるようになり、それを発信していく。まちのブランドを縦糸として発信していく。

いろんなブランドがあるが、ブランドのある会社は、かならず創業者を大事にしている。「こういう人が、こういう志を持って事業を興した」というのがないとブランドが成り立たない。

「三条のまちの創業」である2万数千年前からの土地の記憶があり、土地のポテンシャルが非常に高かった。歴史の最先端の意義を持つ遺跡が出てきている。あらゆる時代でもポテンシャルが高かった。「具体的にこんなことができるのだ」ときょう気付いた。

赤鉄鉱を、日本で一番早く最初に使ったまち、製鉄も日本最古かもしれない。替刃式の石器もあった。大崎鋳物師の作った鍋も非常に形が美しい。アメリカのダッチオーブンのような形ですね。

岡村―常に先端を行っていた地域ですね。先端を行くということは、勝つことであり、「最後まで残った」と言うことも、地域の光だった。

山井―食材もふんだんにあった。三条の産業は、土地の記憶にあっていたから、産業が伸びてきた。

岡村―それぞれの土地にあったものは何か。現在、急速に土地の記憶を忘れ去っているのでないか。今の価値観で目にかけられなかったものもある。高橋一夫前三条市長は、「食が大事」と「縄文どじょう」を手がけられている。


《観光とは地域の光を見ること》

杉野―生涯学習のインストラクターとして、地域のことを探り、宝を見つけ、誇りに思う。エコミュージアムの考え方はフランスから入ってきたが、地域の産業などを野外博物館などとして、地域の人や他から訪れた人に、あるがままの姿を見せ、紹介する。
 まちづくりを二十年くらいやってきたが、新しいもの、ないものねだりではなく、その土地にあるものを徹底的に使いこなすまちの達人が大切。

岡村―観光というと、酒を飲んで、旨い物を食べてという温泉旅行をイメージする。しかし、中国の易の本を読むと、地域の光を見るのが観光。自分たちの光がなんなのか。おもてなしの心を持って、外に伝えていく。明治の人たちが、ヨーロッパを見に行ったのは、ヨーロッパの光を見に行ったのです。もう一度、地域の光を。

遠藤―NPOとしても、下田に、50箇所以上の湧水があることから、水を生かす、風景を生かすことを考えている。長野(下田地区の小字名)の嵐渓荘の水は塩水。日本には岩塩はないと言われているが、塩分の濃い塩水はある。素焼きのカップ状の器に塩水を入れ、煮詰めていく。三十分くらいで塩ができる。

下田に塩水があるので、体験もできる。遺跡といっても、出土した遺物はガラスケースに入っていて手に取ってみることができない。最初見ると、2回、3回と見にこない。触れられるのでないと。子どもたちにも八苦調査をやらせる体験学習も。遺跡から器のカケラなどが出てくると感激する。
 
縄文人は航海をしていた。モンゴロイドが南へ行ったのがポリネシア人。貝や竹などを使って海図を作っていた。昔の人が航海する時、カヌーに波が当たる波長を見て沖に出ていいとか、近くに島があるとか分かった。昔の人は何を考えていたのかを考えると、いろいろなヒントがある。              (つづく)
    

 

文化遺産を教材として生かす

中澤―平成10年から13年にかけて、森町小でお世話になっておりました。その前、新潟県埋蔵文化財調査事業団にお世話になっていました。教員から出向して、お世話になったわけです。
下田村(現在合併して三条市に)は歴史の宝庫だと聞いておりましたが、周辺の遺跡を調べさせていただいた中で、豊富な地域素材だと感じました。専門家でないので、調査研究を分かりやすく、面白くということを趣旨に説明し、子どもたちにも還元できないかと、森町小学校時代は教頭だったので、素材にさせていただいた。
子どもたちがもっと面白がるように、調理してみることにアプローチしましたが難しい。遺跡は現場に行っても、畑とか丘陵とかでイメージが湧かない。授業時間も一時間くらいしかない。
子どもの目がきらきらと輝いた教材は二点あって、ひとつは、先人の知恵や技術に触れたとき。15,000年も前に、石を打ち欠いて刃物を作り、切れなくなると入れ替えて使っていた。今のカッターナイフのよう。
もう一つは大谷地和紙づくり。教科書に和紙作りが載っていますが、大谷地の和紙作りを再現した。大谷地の和紙は村上藩の御用紙だった。材料の楮(コウゾ)が残っていたのと、大谷地の吉田トミさんが、和紙を作った経験があると言うので、訪問して子どもたちが聞き取りした。使い古した鍋を使い、煮て繊維をほぐし、漉き舟がなかったので、市販のものを使い、葉書大の和紙を完成させたとき。
当時の人たちの知恵と技術を体験したなかで、味のある紙、一枚の紙の大切さを実感できた。50年間作られていなかった消滅した文化財を教育に取り入れることができた。教科書に載っていること同じことが、身近にあるなど。

金子―大谷地の全戸が冬には和紙を作っていた。

岡村―民俗的なものがたくさんあるが、日が当たっていなかった。この地域の美しさを感じた。山や田園の美しさ。皆さんにとって当たり前のことかも知れないが文化的景観。文化財をトータルに見て、地の記憶を文化財として生かしていくことが大切。  


新羅から渡来、弥彦に上陸?


遠藤―20代から山の暮らしをしている。山に入るとき道具を持っていかない。縄文人が大好き。縄文時代が1万年続いたということは、1万年、変らずに暮らせるほど豊かだった。農耕民族が広まってくることで土地の奪い合いが起こり、権力が生まれた。道具が急速に進化した。
縄文人は緩やかに暮らしていた。知恵がなかったのではなく、知恵を持っていた。道具に頼らず暮らしていた。石や木を使って、山に入るのが遊びで、知恵が及ばないと自分の負け、ゲームとして楽しんでいる。
巨大な岩があると、何日も火を焚いて岩を熱くし、水をかけて急速に冷やして割っていた。岩に煤が付くとまだ岩の芯まで熱が入っていないことが分かる。熱が入ると煤がペロッと剥がれる。
アメリカの人骨、土器などを見ると、九千数百年前、縄文人がアメリカ大陸に入っている。この辺(越後)が、北と南の接点という話がある。1万数千年前まで、日本から、シベリア、アメリカ、そして南米チリまで縄文人が渡っている。周辺で遊んでいた人たちが冒険者として渡って行った。「アメリカの土地は俺の土地だ」と主張していいくらい。
10年くらい前から北五百川の山の上に住んでいる。真下に五十嵐川が流れている。弥彦山も見える。弥彦山と粟ヶ岳、守門岳、古代人の目に、弥彦の山から粟ヶ岳、守門岳が見え、真ん中を川が流れている流域があるのが映っていた。『鉄の道』としてつながっている。
粟は、「青」「会う」とか、人が入ってはいけない神聖なところ、守門は「すもり」で、朝鮮語で、スサノオの山、牛頭(※五頭に通じるか)もスサノオのことと言われている。朝鮮の新羅から出雲に入ったとされているが、僕は、日本海から弥彦に上陸したのだろうと考えている。弥彦の神は、片目であった。片目の神は鍛冶であり、上手く結びつかないかと考えている。遺跡を探ると遺物が出てくる。過去を見ることは今につながって、未来を見るのでないと遺跡は生きてこない。
        


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