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遺物の採集された寺泊・北曽根周辺の地図と赤丸が採集地点 圃場整備事業が終わり、水田から拾われた石などが棄てられている。ここから、中世、近世の珠洲焼片や陶磁器片が採集された。 縄文の鏃(やじり)や古代の須恵器、土師器片が採集された排水路 採集地から南に望むことができる横滝山 左の白い尖ったものが縄文の鏃 道路に棄てられた石の中からみつかった珠洲焼片と陶磁器の碗の底部 《寺泊・北曽根第二踏切の北から縄文の鏃など採集》5月30日、久しぶりに長岡市寺泊の北曽根地域の圃場整備事業の実施されている地域を歩いてきました。 すでに、一部で、発掘調査が行われた痕跡と、多くの柱穴の跡と思われる土に埋もれた円が無数に残っていました。 しかし、圃場整備が行われた水田周辺の調査は行われなかった模様で、道路に農家が拾い上げて棄てたものであろう石ころの中から、中世珠洲焼の甕片や擂鉢片が見つかりました。 また、新たに掘削した幹線排水路の路肩や斜面から、縄文時代の鏃や古代の土師器、須恵器片なども採集されました。縄文の鏃が1点のみで、縄文土器片は見つかっていません。 縄文の鏃のみが出土しているところでは、見附市の釈迦塚地内、北陸高速道路の東側の水田があります。ここも古代の須恵器、土師器片が多く出土した場所です。 北曽根の現場の近くでは、白鳳時代の寺院跡とされる「横滝山遺跡」に、縄文時代の遺跡が重なってありますし、先ごろ、新潟県県央歴史研究所が発見し、発掘調査が行われた大河津分水路工事現場でも、縄文時代の土器片が出土しています。 1点とはいえ、この北曽根の地域から鏃が採集されたことには大きな意味が出てくるものと思われます。
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考古長岡市近隣
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ここ中野地域は、今では東、中、西の三地区に分かれているが、もともとは一つの集落で、現在、この地域に住む人々は、中世以降、近世に入植した人びとの末裔で、古代の歴史はほとんど記憶さ 越後平野の沖積地に住む人々同様、この地域は「昔海だった」と信じて疑わず、圃場整備事業などで、排水路の掘削や、畑の取り崩しなどで、須恵器や土師器の破片が大量に出土するのを見て、初めて、奈良・平安時代の昔から、広い地域に人びとが進出して、開墾していたことを理解する程度だ。 さて、中野の各集落を表面採集して回り、いよいよ、中野東の集落の東と西を歩いた。東は、これまでにも報告の通り、微量にとどまっている。 しかし、西側は、江戸時代の古地図を見ても畑が多く、畑を取り崩したところから、須恵器、土師器、時には中世の珠洲焼の破片が出土している。 今回、南北に走る町道中野大口線と幹線排水路のさらに西側に足を踏み入れた。南の地域で、古代の須恵器、土師器の破片を採集できる畑や水田があったからだ。想定通り、東西に掘削された排水路の現場から、写真のような遺物が 中野地域では、まだ古墳時代の遺物は微量しか確認されていないが、少なくとも、奈良・平安時代には、スケールの大きな遺跡の展開が見られ、ともすると中之島地域の中心的な集落の一つだったと考えられる。 大きな船が開発されて、信濃川、刈谷田川の船運が盛んになり、次第に中之島側の中之島町や、見附側の三林町など、刈谷田川の船着場が栄えるようになったのだろうが、それまでは、中野の開発が著しい。まだ、墨書土器など、官吏の役所的な遺跡は見つかっていないが、今後の調査の進展が待たれる。それにしても、長岡市の同地域の遺跡調査は、あまりにもずさんで、せっかくの沖積地における古墳時代、奈良・平安時代、そして中世の発展経過を知るサンプルとなるのに、ほとんど破壊されたことは残念なことだ。 下に参考のため江戸時代の延享二年の「中野東の絵図」を添付する。左側が南、右側が北になる。中野東の畑、水田、居屋敷、あるいは中野中の畑、居屋敷などが、遺跡のあった場所と注目されるのだが、いまは畑は姿を消している。 注 はじめの地図と延享の絵図は拡大してご確認ください。 |
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そこで、きょう2月1日、時折、小雨もしくは雪の舞う天気だったが、思い切って釈迦塚町に足を運んだ。一昨日はまだ白い雪に覆われていた水田も、一昨日、きのうと降った暖かい雨のせいで、すっかり消えて、表面採集にうってつけ。 ただ、平成の圃場整備事業を終えて数年が過ぎ、畦に草が生えなかなか表面採集は難航。釈迦塚町の集落の南、大坪(?)あたりの墓地周辺で、宝筺印塔と五輪塔の残欠を重ねた石塔ややや新しい五輪塔の残欠を重ねた石塔の二つがあった。以前、この近くで珠洲焼の擂鉢片を拾った記憶があるが、先に述べたように手元に資料がない。近くの畑で、須恵器や近世陶磁器などを採集しただけに 結局、釈迦塚町を歩き回り、十軒の遺跡を訪ねたが、十軒でも珠洲焼を拾っているが、きょうは須恵器の甕片、坏片しか拾えなかった。 やむなく、貝喰川の西側、見附市三林町の太田遺跡を歩いて、ようやく、1点、珠洲焼の甕片を拾って、釈迦塚町周辺の表面採集を打ち切った。 |
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中之島地区の図書館に電話で問い合わせたがなかったので、見附市図書館に寄ったのだが、職員に尋ねたところ、同図書館にもなく、釈迦塚町の町民に電話を入れて地元で保管されているというのを確認してもらった。何でも、年1回、8月17日の釈迦堂のご本尊ご開帳の日に公開展示しているだけという。 それは止むを得ないことだが、相手の方がどんな方かと、電話を替わってもらい、直接、お話した。時間があれば遊びに来て下さいということで、小1時間、ゆとりもあったので、早速、釈迦塚町へ。 ところが、僕は記憶になかったが、相手の方、いまはAさんとしておこう、Aさんは、僕を知っているという。なんでも、すでに5、6年以上前になると思うが、僕が、見附市三林地区の圃場整備事業に当たって、圃場整備事業の行われる前と後に、三林地区と貝喰川を挟んだ十軒(地名)地区を表面採集していた折に、僕に会っているという。 表面採集中に、地元の方を見掛けると、よく声を掛けて土地の様子をお聞きするので、その際も、そんなことだったのだろうか。 Aさんは、電話を聞いたとき、すぐ僕だと分かったという。僕のこのブログを訪問されているし、見附市在住の郷土史家で村山半牧研究の第一人者Mさんとも旧知の仲という。郷土史の話などをうかがいながら、釈迦塚も明治の耕地整理や今回の平成の大圃場整備事業で、地形がまるで変わったと、話してくださった。 僕も、釈迦塚地区は随分と歩いた。市史などに掲載されている写真以外では、釈迦塚の古絵図は見ていないが、Aさんの話は、僕が歩いて確認してきた遺跡の存在とほぼ一致する。そして、地域の人たちが苦労して編纂・発行した浅野家文書を中心とした郷土の歴史研究をまとめた「開村400年 釈迦塚の歴史」を譲っていただき、「世間は狭いし、知らぬは己ばかりなり」と、改めて、人と人の縁の不思議に思いを馳せて、おいとました。雪の消える頃に、ぜひ一度、釈迦塚から三林に掛けて、一緒に現地を歩いていただきたいとお願いするのだけは忘れなかった。 |
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《中之島地区の中野東集落、西の水田、畑の圃場整備現場から古墳時代などの遺物》 中之島地区、中野東の集落の西側で行われている圃場整備事業現場から古墳時代から近世までの遺物が採集された。緑色の〇で指示。 同集落の善正寺の南の水田より採集の古式土師器片、高坏の破片か。 水田の土砂をブルで押した土の塊から採集。奥は土砂を盛り土した新しい畑。 さらに南の盛り土した道路より、赤色の土師器片が、微細ながら多数採集された。古墳時代と見られる。 盛り土された道路。 南側の畑が多かった一帯の土を盛り土した場所や、排水路掘削土の中から、土師器片や須恵器、近世陶器片などを採集。奈良・平安時代と近世の遺跡が存在した可能性がある。 遺物を多く含む盛り土。 地元農家の話では、いずれも、圃場整備に伴う周辺の土で、他地域からの搬入土はないという。
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