越後・蒲原平野の歴史と文化

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(中之島・宮内下村の須恵器、土師器採集の畑)

信濃川の沖積地における人びとの入植の歴史を見るために、長い間、信濃川、猿橋川と刈谷田川の中洲に形成された中之島の遺物の分布状態を調べてきました。

前回は、信濃川と猿橋川が並行して流れる右岸の河岸段丘上に発達した品ノ木(ぼんのき)集落の北、古墳時代前期の遺物の採集状況をお伝えしました。

今回は、この品ノ木よりも、少し北側、信濃川、猿橋川の下流方向に下って、宮内下村という集落周辺を歩き、戦前、戦後、何度か耕地整理が行われた中で、まだ、昔のまま残っている小高い畑地で、平安時代の須恵器、土師器を採集しましたので報告します。

宮内下村は、住民の話では、近隣の島田、宮内、並木新田の各村から、転居してきた、比較的新しい村だそうです。しかし、新発田藩の正保4(1647)年の絵図面には、横山と中野の集落の中間に四枚橋という集落があったことが分かっています。

今回、遺物が採集された畑は、宮内下村の北の畑地ですが、これまでにも、宮内下村の東、すなわち横山の西ということになりますが、この一帯に残る畑(一部水田)から、須恵器と土師器などが相当量、採集されています。

そこで、少し離れていますが、今回の畑に着目、採集活動を行いました。まず、最初に、宮内下村の集落の南と北の排水路を歩いて、少量の土師器などを採集。間違いなく、古代から人が住んでいたことを確認。目的の畑周辺の排水路からも採集することができました。

そして、畑に至って、目が点になりました。以前から、畑の一部の土砂が掘削されて、搬出されたようですし、今も、新たに掘削されています。以前掘削されたと見られる雑草が生え始めた部分と、新たに掘削された地面の双方から、写真の遺物を採取することができました。

三条市教委の専門家の見立ててでは、平安時代前期から9世紀後半に掛けての遺物ではないかという観点です。

写真の右側、上段のものが須恵器です。右側がやや焼きが甘いようです。下段は、須恵器と同じ当具で叩き目の施された土師器です。単に焼きが甘いというのでなく、明らかに焼成法が異なっている土師器と見てよいでしょう。

信濃川が上流部、中流域で河岸段丘を発達させて流れ降り、沖積地に出るや大きく乱流していたことが、添付の地図の集落の様子からもうかがえます。その右岸、昔は沼地で、人が住めなかったと言われてきた一帯ですが、先般の品ノ木遺跡をはじめ、今回の宮内下村にしても、古墳時代、あるいは平安時代前期には、人びとが入植して、開墾しているわけです。

以前にも書きましたが、越後の歴史は、来年のNHK大河ドラマに登場ということで、話題になっている直江兼続ですが、上杉謙信亡き後の御館の乱、その後の、上杉家の会津、直江家の米沢への移封によって、ことごとく失われ、今に多くの謎を残しているのです。

御館の乱も、勝てば官軍で、上杉景勝が正統と受け止められていますが、上杉謙信の重臣の多くが、上杉景虎(小田原・北条氏康の七男)に付き、勢力としては圧倒的に強かったのですが、謙信の死の後、すぐに上杉景勝方が、春日山城(軍資金)を抑えたことで、御館の乱の展開が変ってきたとされます。

いずれにしても、越後の歴史解明は、御館の乱以前を解明するのが大きな仕事になってきます。考古学の立場からは、庶民の入植、開拓の歴史を遺物、遺跡から解明していくことでもあります。

地図上の品ノ木と関根の集落の間に、「関根新田」という集落があったのですが、度重なる信濃川の氾濫で、村がことごとくなくなり、元禄6(1693)年、信濃川の島状だった、現在の脇川新田に移住していったというのです。江戸時代でもそのようですから、中世では、もっと失われた集落、あるいは居住地があったものと予測しなければなりません。

中之島は、信濃川流域、特に沖積地の人々の歴史を探る格好のフィールドなのです。「現在、住んでいる人びとの祖先が入植、開墾するまでは越後平野は海だった」などという、俗説は改めてもらわなければなりません。

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青い○が、遺物採集の畑

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土砂が掘削されている畑

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畑の掘削された土砂のしたから採集された須恵器、土師器(外側)

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同(内側)

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《信濃川・猿橋川の右岸に古墳時代前期の遺物(長岡市品ノ木地内)》
先日、ブログ「さわやかな1日、長岡市中之島に遊ぶ」で紹介しました、長岡市の旧中之島町品ノ木地内の火葬場跡周辺で採集した遺物は、三条市教委、加茂市教委の埋蔵文化財担当者と検討の結果、古墳時代前期の遺物であることを確認しました。

そこで、上の地図の赤い○の位置を見ていただくと分かるとおり、信濃川、猿橋川の右岸でも、最も川筋に近い位置であり、信濃川、猿橋川の中流部、沖積地であっても、すでに古墳時代前期には、人びとが進出して生活を営んでいたことが分かります。

地図の上段、8の杉ノ森遺跡では、すでに古墳時代前期の遺物が出土しておりますし、高畑、横山の集落でも古墳時代の遺物が確認されています。これまで、考古学の専門家も、この横の自然堤防上に遺跡が展開し、古代の道も考慮されてきました。

しかし、今回、品ノ木の集落の北側にまで古墳時代前期に人びとが進出していたことを考えると、今後更に信濃川、猿橋川右岸の河岸段丘、自然堤防を注視していかなければなりません。当研究所の発見から本格的な発掘調査に発展した燕市と長岡市にまたがる大河津分水路河川敷内の平安、古墳、縄文の各時代に渡る五千石遺跡の存在が、かつての信濃川左岸の自然堤防上に展開していたことも合わせて、大河の流域の遺跡展開をもう一度、初歩的な段階から本格的に調査しなおす必要性があるでしょう。

この品ノ木では、諏訪神社側は、一段低く、火葬場跡地は、逆に一段高くなっていて、圃場整備事業後も、この段差は解消されずに残っており、高い方の排水路4箇所で、かなりの範囲にわたって遺物が散乱していました。特に1と2の写真の位置から、破片ながらかなり大きな遺物が採集されております。いずれも、古墳時代前期の遺物包蔵地として、ひとつにくくってよいのではないかということになりました。

今回、初めて当研究所で表面採集を実施したのですが、段差の大きな地形、火葬場跡、神社が近くにある、南側に現在の品ノ木集落が展開しているなどから、有望な地形と見て的確に採集することができました。ただ、写真でも分かるとおり、除草されている畦側は発見できるのですが、緑の草が生い茂っているところは、すでに草丈が伸びてほとんど確認できません。今度の冬か、来春の雪解けを待って、再度、表面採集しなければなりません。

いずれにしろ、文字通り、信濃川、猿橋川と、刈谷田川に挟まれた「中之島」の沖積地の遺跡展開が、人家の込み入っている中条集落、市街化している中之島の国道沿いなど一部地域を除けば、ほぼ把握できそうな段階まできました。関係者の今後の更なる研究が望まれます。

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古墳時代前期の遺物 

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古墳時代前期の遺物

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遺物採集地の1

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遺物採集地の2

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遺物採集地の3

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遺物採集地の4

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諏訪神社

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向かって右手が、火葬場跡
《中之島村史に「新しい村」とされている上沼新田から珠洲焼の擂鉢片など》

昭和63年に刊行されました「中之島村史」は、各時代の専門家の手により、学術的な裏づけを元に編纂されましたことは評価されます。しかし、すでに考古学が相当の成果を上げていた時代に、村域の遺跡分布調査が十分に行われなかったため、すでに、地域の関係者が昭和36年、まだ考古学が地方にあってはほとんど省みられなかった時代に、地道に地域に伝わる伝承や古文書などを調べ上げて、村々の生い立ちを記録しました「中之島村郷土史」に比べ、いかにも血が通っていない気がしてなりません。

考古学の埒外にいる僕でさえ、最近そう思うのですから、多くの良識ある研究者の皆様は、胸に手を当てて考えてみるべきです。誌史編纂ブームに乗って、地域の研究にあまり手を染めていない、いわゆる「研究者」と呼ばれる方がたによる誌史編纂の安直さを反省、検討を加える必要があります。

さて、きのう3月30日にブログアップしました中之島の上沼(うわぬま)新田の西北側の古代の須恵器、土師器、中世の珠洲焼、砂目トチンの見られる陶器などを洗ってみました。写真のごとく、珠洲焼は、明らかに中世の遺物です。

上沼新田の集落は、「中之島村史」では、「第五章中之島の村々とその成立」で、「第二節新しい村々」に掲げられています。それは、「中之島村郷土史」の内容を整理したに過ぎません。

今は平成の大合併により中之島村は長岡市ですが、村史編纂の当時は、南蒲原郡中之島村で、考古学の担当者がいたとしても、これは新潟県が強く指導する立場にあったはずです。にもかかわらず、なんら昭和36年当時と進歩しない村々の生い立ちの記述に、驚くばかりです。

「中之島村郷土史(後)」に、土質土性を分類した地図が載っています。これらを見ると、真野代新田から上沼新田に掛けて、僕が歩いて、見てきた場所の土質と一致します。ということは、この図を見ると、少なくとも、平安時代以降の人びとの住めそうな場所は想像がつきそうです。

今回の大掛かりな圃場整備事業の進行のなかで、なぜ、新潟県は、本格的に中之島地域の遺跡分布の調査に力を注がなかったのでしょうか。中之島村は、まさに、越後平野の沖積地にあって、大河信濃川と東山丘陵から流れくだる猿橋川、刈谷田川によって形成された大きなデルタ地帯です。古代、あるいは中世の人々の開墾による進出を捉える大きなモデルです。

大合併で新潟市となった白根市の白根郷は、下流部における沖積地の展開を見るモデルなのですが、考古学的な調査の進展を見る前に、どんどん宅地化が進んでいます。中之島郷は幸い宅地開発はまだ、さほど進んでいません。市町村合併により、長岡市となったわけですが、果たして長岡市で本格的な調査を実施するだけの力があるかどうかは、僕には分かりません。

いずれにしても、中之島の遺跡分布は、非常に魅力的で、やりがいのある仕事。ぜひ、歴史観のある考古学担当者が担当して欲しいものです。


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きのう3月30日のブログにも掲載した採集地の写真です。畦を挟んで、畦と両側の水田から遺物が採集されています。珠洲焼などは、特に宅地に近い側に見られました。須恵器、土師器については一帯に広く分布しています。

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上の2点には卸し目が見られます。左側は、わずかに下の部分に見て取ることができます。真ん中の右側は片口か擂鉢の口縁部でしょうか。中央と下の左側は珠洲焼の壷もしくは甕片で、平行叩き目があります。右下は砂目トチンのある陶器(肥前焼でしょうか)で、中世末の陶器と見てよいでしょうか。年代観は、時とともに変りやすいので、素人の僕にはできかねます。決定的な判断は考古学専門家にお願いしたいと思います。
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中之島地区の遺物採集地の地図

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元屋敷の排水路路肩より土師器片を数片採集

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元屋敷の排水路より東を望む

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上沼新田の北西の水田畦に須恵器片、土師器片散乱

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一帯の畦や水田中より採集の須恵器、土師器、珠洲焼、近世陶磁器の破片など採集

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採集地より、南側の集落を望む

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採集地を含め、東側を望む


《長岡市中之島・上沼新田周辺で遺物採集》

3月30日は、正午から長岡市(旧中之島)の上沼新田集落の北側、元屋敷と集落西側の北の水田畦や水田で、遺物を採集。

はじめは真野代の八幡宮境内の前の畑より須恵器片を採集していますので、そこからスタートしましたが、真野代では遺物を発見できず、東側の水田地帯を排水路の畦を中心に徹底的に歩きましたが、上沼新田まで、遺物を発見できずじまいでした。

上沼新田で、地元の人に、昔、上沼新田の集落が北側にありました元屋敷跡を尋ね、圃場整備前は、茶碗の欠片などがたくさん出たという話を聞きました。元屋敷跡周辺を歩きましたら、排水路の路肩、数箇所で、 微細な土師器片を採集。残念ながら形状の分かるものはありませんでした。

その足で、これまで多くの遺物を採集している、上沼新田の西側の外れを流れる排水路の下流部を歩き、北側の水田と畦から須恵器、土師器、珠洲焼、それに近世陶磁器の破片を一定量採集しました。上沼新田の集落周辺は、かなり広いエリアで遺跡が眠っているものと推察されました。

午後4時まで、実に4時間に及ぶ表面採集でしたが、元屋敷と上沼新田の周辺の新しい遺物採集地を発見でき、新たな自然堤防の方向を確認することができました。今後も引き続き遺物採集の必要性がありそうです。報告まで。
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中之島村時代の昭和36年7月30日に、中之島村公民館が発行した、前、後2巻の「中之島村郷土史」の後巻です。地域の人たちの手による地元に残る資料を基に編纂された貴重な記録です。

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同巻所収の延享2年(1745年)丑6月、長岡御願所節三本木御役所差上申扣のなかの中野東の絵図

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日曜日の3月16日、中野東の南、横山集落の北側に掘削された排水路の西側。このたびの圃場整備事業で、昨秋から、畦の黒色土中より珠洲焼の擂鉢片などが採集されていたところ。今回、雪解け後、初めて表面採集しましたら、珠洲焼片はもちろん、須恵器片なども採集されました。

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採集された珠洲焼片や古い国産陶磁器、瀬戸・美濃でしょうか。

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上の珠洲焼の擂鉢片、2点をアップしてみました。いずれも口縁部ですが、手前の擂鉢の口縁部には、波型の櫛目が刻まれています。奥の1点は形状は似ていますが、波状文がありません。中世も比較的後期の様相を見せています。


《長岡市中之島の中野東並びに横山に興味覚える》

旧中之島村は、このたびの平成の大合併で長岡市と合併しましたが、本来の行政エリアは南蒲原郡であり、三条市などと同じでした。そのこともあって、見附市とともに、僕の主要な表面採集活動エリアとして、早くから注目していました。

特に、中世南北朝時代に後醍醐天皇の勅命を受けて足利尊氏討伐に立ち上がった新田義貞軍に加わった池氏、その祖とされる池頼盛の伝承が色濃く残る中之島村には、特段の興味を覚えています。

また、中之島村時代の考古学の遅滞ぶりは眼に余るものがあり、刈谷田川右岸の大圃場整備事業の進展のなかで、事前の遺跡調査が十分でなかったため、多くの遺物包含層が破壊され、大量の遺物がいたるところから採集されるにいたりました。

今回の横山集落の北の排水路も、特に西側に及んで、古代、中世の遺物が出土し、そのまま、横山集落の西に存在する島田集落の一角に、古代の遺物包含層が展開してます。

いずれも、古い絵図の残っているなかの東の南側に隣接する集落で、この中野東の古絵図の写しが、極めて重要な示唆を与えてくれます。

圃場整備事業が、もっか、進行中ですが、現在まで、古い排水路の流れが残っていたのです。今回、この横山集落の来たの排水路は、発掘調査の対象といされませんでしたが、遺物の出土状況から、この場所か、その近くに中世の住居跡が存在したことは確かでしょう。

島田集落の東側の古代の遺物包含地は、まだ圃場整備事業が進んでいませんが、長岡市の今後の対応が注目されます。

中野は、現在、東、中、西の3集落に分かれていますが、元来、中野集落1つで、近世の石高も群を抜いて高く、米中心の産業形態の時代には、中之島にあって重要な集落だったことがうかがえます。

中之島は、まだまだ遺跡調査はこれからで、報告すべき事項の多い地区です。

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