越後・蒲原平野の歴史と文化

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考古長岡市近隣

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《長岡市の新潟県立歴史博物館で、久しぶりに考古学ざんまい》
1月27日、寒気も緩み、雪も降りませんので、長岡市の新潟県立歴史博物館で、26日から開催されている速報「新潟の遺跡と佐渡金銀山」展を見に行ってきました。

後期旧石器時代後半の小千谷市内の真人原遺跡や縄文時代中期前葉から中葉に掛けての十日町市内の幅上遺跡にはじまり、弥生時代や古墳時代、中世、あるいは近世に掛けての遺跡の発掘調査の概要をパネルと遺物で紹介しています。

今回は、同館周辺の雪の状態と、民間信仰の対象となる藁の鍾馗様、幅上遺跡や糸魚川市内の大角地遺跡の出土遺物などをブログアップします。

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新潟県立歴史博物館のある長岡市関原の丘陵地は、新潟県でも雪の多い地域です。この近くの馬高遺跡から、火炎式土器と呼ばれる土器が発見され、一躍全国に知られるようになり、この近くの丘陵上に新潟県立歴史博物館が建設されました。見晴らしのいい丘陵地ですが、冬は、新潟県内でも雪の多い地域として知られ、この日も、蒲原平野の雪はごくわずかでしたが、関原はこの通りの雪でした。

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新潟県立歴史博物館を降雪時期に訪ねたのは初めてのことで、屋根の形状や、建物の脇にコンクリートで作られたトンネル状の通路がある意味がはっきり分かりました。雨の場合も確かに助かるのですが、雪が降ったときには、ここしか駐車場から会場入り口に通じる道がなくなるのです。それだけ積雪が多いのですね。

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会場に入りましたら、速報[新潟の遺跡と佐渡金銀山」展の入り口に、藁で作られた鍾馗様がお出迎えです。立派な一物と、黒い丸の書かれた睾丸がひときは目を引きます。民俗学、欠かせない重要な資料です。

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玉の素材となるヒスイ。ヒスイの原石は、昔も今も、新潟県の姫川から採集されました。

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姫川に近い、糸魚川市の大角地遺跡より出土の最古のヒスイ製品で、石器の加工に使われたたたき石。


同じく大角地遺跡出土の滑石製の耳飾



十日町市の幅上遺跡出土の縄文土器(縄文時代中期前葉から中葉)。同遺跡は4700年から45000年前の遺跡。
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中之島の中野中集落、集落の東側から北側に掛けての水田もしくは転作した豆畑などから採集の土師器片。先に示したように2箇所で重点的に採集し、他にも広く散らばっていた。

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同上の遺跡から採集の須恵器。ほとんどの場所で、須恵器と土師器が混在していた。右側1列は、珠洲焼の片口片、すり鉢片、もう1点は、皿と思われるが、無釉状態でなにか。

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中野中の北側で、中野西の境界付近で採集。ただし珠洲焼1点は満福寺の道を挟んで西側の畑の畦より出土。唐津焼の砂目とちんのある高台付の皿は、中野中の熊野神社の北側裏手水田より採集

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中野中集落にある伊吹大明神裏の畑地で採集の遺物。土師器、須恵器の破片が主だが、右側2点は、珠洲焼の片口並びにすり鉢片。
左側の下は須恵器の高台坏の蓋の縁辺です。なかなか幅広い年代の遺物が採集されますので、一帯の畑は今後丁寧に採集しなければなりません。

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それぞれの遺物の出土状況の例

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同上に同じ

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同上に同じ

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上の皿を表から撮影。中世の灰釉皿に似た形状なのですが、釉薬の痕跡がなく、墨を使ったような跡も残っています。さりとて墨書土器などに見られる墨を磨った跡とも違うようです。

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同上に同じ
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長岡市中野中の遺跡展開

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もっとも遺物が多かった水田の一帯

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第2に遺物が集中していた豆畑(元は水田で、豆畑に転用)

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古刹、満福寺

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満福寺の市道を挟んで西側の畑の畦で発見の珠洲焼片(小ぶりの甕?)

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満福寺の境内にある五輪塔その1(いつころのものか?中世五輪塔にしては少し大きい。三条市の本成寺にも、遠山金四郎の五輪塔と言われるものがあるが、大きめだ)

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満福寺の境内にある五輪塔その2

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伊吹大明神

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伊吹大明神の北側に展開する畑と遺物(須恵器、土師器、珠洲焼など)

長岡市中之島については、合併前の中之島町時代から、遺跡確認が的確に行われてこなかった地域の一つです。新潟県の埋蔵文化財担当課では、今年度初めころ、県内全体の遺跡確認を行ったばかり、新たな遺跡が確認されたと、成果を強調していたのですが、地道に遺跡確認をしてきた僕の目からは、信じがたい放言としか受け止められず、次々と、新たな遺跡を報告してきました。しかし、効果は余りありませんでした。

それなら、無視。僕がブログを立ち上げて、全国各地の愛好者と情報交換していくほうが的確と、年齢を考えず、ブログに挑戦した動機です。今となっては、大いに感謝しています。ブログの世界を知ることだでき、こうして多くの人と、交流できるようになったのですから。

話が、少し本題とそれましたが、中之島については、長い間、地道に歩き、旧中之島町にも報告してきましたが、どうも、当を得ません。長岡市と合併して、少しはましになるかと思いましたが、長岡市の埋蔵文化財担当課も、合併しただけで、新たな体制作りができないようです。

中之島については、圃場整備の途上で、次々と遺跡が破壊されています。やがて、全貌をご紹介しますが、国の行財政改革の一環で、予算が削減され圃場整備が遅れているだけに、農業関係者の苛立ちもますますつのっております。

的確な情報と、重点を絞っての発掘調査、それと、表面採集による遺跡確認を合わせて行っていかなければ、大事な「中之島」の遺跡の全貌が把握できないでしょう。なぜ、中之島地域が重要であるのか。

それは、信濃川と、並行して流れる猿橋川の2本の川と、一方は蒲原丘陵から流れ出る刈谷田川に挟まれた中之島は、いわば蒲原平野の歴史、特に古代と中世の遺跡の展開の謎を解く鍵が秘められているのです。

広い地域に、古墳時代の遺跡が少しと、広大な地域に展開する古代の遺跡、そして、多くは、現在の集落と重なる中世の遺跡。これらは、何を意味しているのか。それが分かると、蒲原平野の発展過程の一つの謎が解けるのです。新潟平野全体が古代と中世の間に、かなり頻繁に、それも大きい規模で冠水した可能性がある。(これはこのごろ僕が強く意識し始めたことなのですが)。

古代人が、開拓に進出した広い地域に比べて、中世の館や集落後は、エリアが狭く、なおかつ、比較的、盛土したような、周辺の地域より一段高い傾向が見られます。もちろん、近世では、それがもっと高くなり、極端な場合は、蔵だけでも水害から守るために、さらに一段高く土を盛り上げた「水倉」という様式を生み出します。

なぜ、古代人は、今から見れば低い土地に進出し、中世以降、比較的高い場所に撤退しているのか。これは、歴史を説く上で重要なキーワードになりえると思うのですが。

その意味で、中之島地域を、圃場整備事業の進展と相前後しながら、丁寧に表面採集し、遺跡発見の報告を、関係方面にしているわけです。

今回、遺物については、掲載しません。写真添付が2Kを超えるとブログアップできず、エラーになるのです。採集した遺物を洗い終わりましたので、乾きましたら、遺物の出土状況と合わせて添付します。僕の中野中の遺跡分布調査は今年の春1回と、今回の2回で、まだ始まったばかりですが、この状態です。新潟県の考古学関係者は何を考えているのでしょう。問題提起します。
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ピンクの丸の位置が見附市坂井町、高梨家墓地周辺遺跡。赤い四角は三条市の南入蔵遺跡。

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秋耕を終えた高梨家墓地周辺遺跡の水田、すでに墓地は取り崩されてないがこの辺がもっとも中世の遺物が採集できる

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高梨家墓地周辺の遺跡から、発掘調査済みの国道8号線、坂井遺跡方向(家の向う)を望む

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高梨家墓地周辺の水田から採集の珠洲焼のすり鉢片。左側2点が底、右側が口縁部


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高梨家墓地周辺の水田から採集の珠洲焼の甕と壷の破片。左が壷片、右が甕片


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高梨家墓地周辺の水田から採集の土師器、須恵器の破片。

きょう12月22日は冬至。朝陽が差したかと思ったら、放射冷却で、気温がさがっていたため、日差しの暖められてて上る蒸気が霧状になって、しばらくの間、先が見えないほどになった。

やむなく、正午頃まで部屋でごろごろしていたが、今年残された少ない時間、特に雪が降らないうちに調べなければと、長岡市中之島町方面へ向かった。途中、国道8号線の坂井遺跡手前から、旧8号線に入ったら、ところどろこ、水田が秋耕を終えていて、早いころに紹介した高梨家墓地周辺の水田が気になって立ち寄った。



案の定、高梨家墓地周辺の水田からは、すでに長い期間掛けて、何度も表面面採集してきたのに、まだ、片手では持ちきれない遺物が採集された。この遺跡は、圃場整備前から、中世珠洲焼や、須恵器の破片が採集されるところだが、なおざりな調査で、結局、本格的な発掘調査が行われないまま、見事に破壊された遺跡。

特に、高梨家墓地のあったところは、小字名が@屋敷で、誰が見ても中世屋敷跡と考えなければならない場所だった。多くの土砂が掘削されて、西側の畑地に盛られ、その盛土の中から多くの須恵器、珠洲焼の破片が採集されたし、掘って整地された水田側からは、馬も、こうして、須恵器や珠洲焼の破片が採集できる。以前には、青磁碗の破片も採集済みで、中世屋敷跡の遺跡は跡形もなく破壊された。

中世屋敷跡は、多くは、近世の住居址のように盛土されて、周囲の水田より一段高いのが普通で、それだけに圃場整備事業で、ことごとく破壊された可能性が大きい。特筆すべき事柄だ。考古学関係者はこの事実をどう受け止めるのか。ただ、「生活面が確認されないから遺跡はない」とするとしたら、中世考古学は何も語れないことになる。失われた遺跡の怖さである。

与板城周辺を訪ねる

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きのう12月9日午前中、小雨の中、与板城へ向かいました。初雪もすっかり消えて、ようやく、直江兼続はじめ、直江一族の居城の全体像をこの目で確かめる段です。雪がいつ降るか分からないだけに、多少の雨は気にしておれません。

頼りは、享和2(1802)年に制作された三輪長泰の「与板古城図」です。(今回、写真は、あえて逆さにして添付します。道路側から、登るとき、便利な見方です。絵図をクリックしていただくと拡大して見ることができます)前回、この地図を頼りに本丸まで登り、そのまま三ノ丸から大空堀を越えて千人溜を経て、山沢に出ました。

今度は、城山(じょうやま)神社の脇から、道なき道を掻き分けて、城山腰から下の沢を眺めながら登り、曲輪、空堀などの見事な城備に驚きながら、三ノ丸まで登りました。三ノ丸と二ノ丸の間の空堀を下って、来た道へ回るようにして戻り、崖崩れしている城山腰側の急斜面を、用心深く下りました。枯れ草に覆うわれていますが、空堀も曲輪も、見事に昔の面影をとどめており、地形を上手く利用しながら、鶴が羽ばたくような形に城を構えていることが見て取れます。見事と言うほかありません。

一度、城山神社まで戻り、そこから土塁の内側と想定される丘陵の裾野を歩きました。宅地化されているといわれていますが、案外畑のままで、またかつてあった住宅などが不便さからか、立ち退くなど、中核部分を望むことができました。

残念ながら珠洲焼などの遺物はほとんど採集できませんでした。ただ、前回、城山神社下の排水路から青磁の皿の破片を見つけましたが、今度は、もっとも中核となる部分から、青磁碗の破片を採集しました。

城山神社の下の水田より採集していた灰色がかった近世の陶器皿片は、唐津(肥前焼)で、トチンがあります。蛇の目のものは近代まで存在しますが、トチンのものは、早くに造られなくなるとされ、時代考証に役立ちそうです。小片ですが、後日、写真アップしたいと思います。

いよいよ、土塁で区切られた部分と丘陵の裾野までの間に、人が住んでいた跡を想定できるところまできました。今後は、珠洲焼の甕や壷、片口などを捜すことが大切です。

「与板町史」では、この城は、文明年間以降としています。西暦1469年から1486年までの期間ということになると、足掛け18年の幅があります。一方、上杉氏の会津移封と直江氏の米沢移封が、慶長3(1598)年といいますから、文明年間の末から数えても100年以上ということになります。

その割には、遺物がほとんどない。三条市の大崎要害山、大面城の周辺など要害の地の裾野、加茂市の長福寺など丘陵縁辺の寺院跡からは、珠洲焼や青磁、白磁、瀬戸美濃、あるいは、越前焼などの遺物が相当量、採集されています。
なぜ、この与板城の裾野、特に土塁がめぐらされていた内側から遺物が採集されないのか。

居館として使われた時期が100年などでなく、案外短く、かつ戦などで焼き払われていないとか、あるにはあるが、土砂崩れなどで埋没しているとか、理由はいろいろ考えられますが、さらに調査を重ねていく必要があります。

ついでに、外側の土塁の外(絵図の下側)で、宅地化されていない、水田地帯を歩きました。城山神社の沖の水田から、土師器片が3点採集できました。城山神社の向かって左手、墓地と畑から土師器片、須恵器の坏片、珠洲焼片を採集していますから、一連の遺跡かもしれません。

歩くことで、三輪長泰の図が、享和2年に描かれたにもかかわらず、実に正確であることが分かりました。太い黒で描かれた四角の印は、櫓の跡と思われますが、いずれも、一定の広さの削平地があり、ここだなと確認できます。ただ、曲輪の斜面が石積みのように描かれていますが、土の斜面です。

直江兼続の城を見たい人は、単に、向かって右手の、比較的、整備された登山口から本丸に登った後は、左手の城山神社にいたる道なき道を歩いて見られることをお勧めします。未整備なだけに、戦国時代の城の備えの見事さを知ることができます。

絵図に、遺物採集地を朱記しました。あわせて本丸、二ノ丸、三ノ丸と書きましたが、これは現地の標識の記載で、中世城郭の場合、主郭、二ノ曲輪、三ノ曲輪とするのがよいでしょう。手書きに慣れておらず、醜い点、ご容赦ください。

写真は、上から、三浦長泰の絵図、城山神社、二ノ丸と三ノ丸を区切る空堀、三ノ丸の下から城山腰の崖崩れ現場を望む、館があったと想定される土塁の丘陵側に通じる現在の道、畑から出土下青磁碗の破片の外側と内側、出土地の上段から俯瞰、出土地の状態、土師器出土の水田から、城山をの望む。
写真下2枚は、城山神社下の水田で採集した灰釉陶器の表と裏です。表には、トチン目が見られます。

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