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土曜日の12月1日正午頃、三条は雨でしたが、西の方、与板の空は雲の切れ目が見えましたので、与板城の周辺の表面採集に出発しました。与板は雨が上がっていました。 今回は、前回、アップした三浦長泰の描いた与板古城図の下側から登りました。少し上ると、法立寺側から登ってくる道と一つになり、そのまま登りました。やがて気が付くと「おせん清水」のところに出ていました。これは正面の神社のところから登ってくる前回歩いた道と知らないうちに合流していたことになります。 そのまま、本丸まで登りますと、紅葉が半ば散り、後半分は枝についていて薄日に映えて美しかった。落葉松が散り敷いて、雨に濡れていますが黄金色に輝いていました。 海音寺潮五郎の揮毫になる石碑や直江山城守兼続の揮毫を彫り込んだ石碑などを写し、本丸内を遺物を探して歩きましたが、落ち葉に覆われ、地山の見えるところは少なく、成果なし。 道標に従って、大きな堀切を越え、二の丸から三の丸へ。そこからさらに大きな空堀を越えて、千人溜の広い場所に出ました。そのまま南に歩いたら、山沢から登ってくる林道に出ました。右手に行けばのろし台ですが、霧雨が降り始めたので左に下りました。 山沢の水田に出ました。その一角に畑がありました。山沢から逆に千人溜、三の丸、二の丸と行けば、本丸に攻め登れるのですから、この辺りに見張り小屋か、常時人の住む家があるはずだと、畑に転がる石までもよく見ました。焼き物はありませんでした。 さて、沢を下り、右手に諏訪宮。山沢を左に曲がって、少し行きますと、前に古代の遺物が出ました城山腰の下の畑と墓地。その斜面から珠洲焼のすり鉢片1点を採集しました。いよいよ、中世に人が住んでいた証が出てきました。 城山神社などもあります。なぜ、こんな位置にと思いますが意味があるのでしょう。建物は安っぽいですが、拝殿と奥の院の2つがきっちりとあります。 その辺りから城山の縁の平地に多くの現代の住居跡(家が取り払われて空き地になっているのです)や畑がうかがえました。きっと昔から人々がこの辺りに住んでいたのだろうと、畑を歩きましたら、素彫りの排水路から、緑色の釉薬は薄いが、縁がぎざぎざになっている青磁でしょうか、皿の破片を採集しました。 この日は、これくらいにして与板城めぐりを終えました。 写真は、上から2枚が本丸の紅葉、3枚目が海音寺潮五郎の揮毫になる石柱、次は安っぽいつくりですが、拝殿、奥の院のある城山神社、次が山沢の諏訪宮の龍の彫り物。口の中に、まだ赤い色が残っています。珠洲焼のすり鉢片の出土した城山腰の下の畑と墓地の傾斜地。最後は青磁の皿か?何時の時代の?
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考古長岡市近隣
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与板城の縄張りなどは、城郭研究家によって、詳細に調査されていますので、僕としては、過去に、頂より一段下から、珠洲焼の壷片が1点採集しているだけで、それ以上の考古学的な収穫は今のところありません。 むしろ、与板城が中世の山城であれば、戦争を意識し、城山(じょうやま)の周辺の構え、居館ばかりでなく、人々が住んだ遺跡を訪ねたいと、機会を見て歩くようにしています。なかなかまとまった時間が取れなかったのですが、たまたま、先週の25日、日曜日は好天にも恵まれ、すでにブログに掲載済みですが、城山の北側、神社の登り口から眺めて、川を挟んで対岸の沢から土師器片1点を採集していますので、もう一度歩きました。 遺物の採集はゼロでしたが、この沢で、排水路の周辺の水田を修復していた古老に出会い、ここが「備後沢で、昔、備後守という武士が住んでいた」と聞いているという話を聞きました。さらには、この沢の西の傾斜地、今は林になっているが、昔、ここに阿弥陀瀬に通じる古道があったということも聞きました。 そして、一本上手(西側)の沢が「竹ノ小路」、その一本先に「弥ノ小路」があるといいます。「竹」は「館」、「弥」は「屋」かもしれません。そして、帰ってから与板町史を開くと、備後沢の向かって右手に、「立ヶ入」、「立」は「館」と読めます。これらの地名がありました。本来、与板城と関係した地名ばかりだと感じました。しかし、この3つの地名のところに遺跡の指定はありません。 これまでも、与板町史や遺跡地図などを見ながら、これらの地名を見ていたのですが、現場に立って、古老から話を聞いていますと、むしろ、この地名に囲まれている山が気になりだしました。 車で、竹ノ小路からトンネルを抜け、阿弥陀瀬へ回り、旧道には「冬期間通行止め」の標識はありましたが、雪がないのだから行けるところまで行くことにして入りました。与板川に降りる道は、通行止めで通れませんが、幸い、大坂塔や陣ヶ峰方面は通行止めの柵もなく通れました。 大坂塔のある辺りは、先ほど下から見上げた山の頂で、どうみても、空堀のような人工的な加工の跡が見て取れます。もちろん、城郭研究家が見て、城跡としていないのですから、素人の僕が口を挟むことはありません。 ただ、裾野の沢に「入」や「小路」があるのですから、何かしらの構えがあっていいというのは僕の想像です。 大坂塔まで、50メートルほどもあたでしょうか、歩いて空堀のような窪みに囲まれた一段高い頂を見ると、写真で見ている大坂塔は、見事に崩れていました。中越沖地震による被害でしょうか。紅葉の間からこぼれる秋の日差しに、いかにも哀れな姿でした。 今回は、大坂塔のある頂から、東の森林公園側に降りませんでしたが、時間があれば、森林公園の裾野をめぐって、備後沢まで降りて見なければなりません。古老の言っていた古道が気になるのです。 大阪塔については、中世山城や要害とは直接関係ないので、後で記すとして、いよいよ面白くなる大坂塔周辺の地名と地形です。 写真は、上から、備後沢の向かって左手の傾斜地を通っていた古道跡、林道の尾根に立てられた標識、空堀のように見える窪地、地震で倒れた大坂塔です。最後は、備後沢などの地名が記入されている地図です。 katiiさんのご要望に応えて、享和2(1802)年、三浦長泰の描いた「与板古城図」を添付します。地図と同じに右手が東になるように、あえて90度回転させて添付しました。すべてに古城図が残っているわけではありませんが、与板城は、江戸時代に描かれたにしろ、残っているので、参考になります。 追加の宝筺印塔の刻字は「宝筺印陀羅尼経塔」とあります。
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Kanoさんが、いま、岐阜県各務原の山田寺(さんでんじ)遺跡から出土した古代寺院のものと見られる軒丸瓦の研究に取り組んでおられます。 僕の知識では対応してあげられませんが、ここに、長岡市(旧寺泊町)の横滝山廃寺跡から出土した軒丸瓦の拓本を、手元にある寺泊町史資料編1「原始・古代・中世」のなかから、写真を撮影して添付します。 佐渡の小泊窯で焼かれた軒丸瓦は、先般、佐渡旅行の際に、佐渡博物館で撮影してきた軒丸瓦をすでにブログにアップしてありますので、そのページ http://blogs.yahoo.co.jp/niigata33_rekiken22/4591218.html を覗いてもらいたいと思います。 なお、寺泊町史は、軒丸瓦について、概要次のように紹介しています。 いずれも楔形の間弁をあらわす高句麗系の単弁8弁蓮華文の軒丸瓦であるが、文様は異なっている。 1の瓦当部はほぼ完形で、直径18Cm 、弁区径13Cm、弁幅2・5Cmである。蓮弁の弁央には細い稜線が通り、弁端は反転し、弁間には楔形の間弁をあらわしている。中房は径5Cmで、蓮子は一部に欠損部があって、明確ではないが、1プラス6と推定される。外区は、幅1・5Cm、高さ1・4Cmで、周縁に一重圏がめぐっている。瓦当の裏面はナデ調整で、丸瓦部との接合方法はは不明である。 2は瓦当部の上半を欠いている。直径13・5Cmの小型品である。単弁の8弁蓮華文・弁央の稜・楔形の間弁はいずれも線的に表現されている。弁区径9・5Cm、弁幅1・5Cmである。中房は圏線で囲まれ、直径4・5Cmで、蓮子は風化して不明である。この瓦当文様は1の瓦当文様が簡略化したものと考えられている。
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白鳥の写真をアップしましたが、その際、表面採集に訪れたのは、長岡市(旧中之島町)上沼新田地内の中之島川改修工事に伴い架け替え工事が行われている上沼橋建設用地です。 今年に入って中之島川の改修工事が本格化、すでに上流部の改修で、川を拡幅するため掘削した黒色土中より、須恵器、土師器など古代の遺物が出土していました。 また、上沼橋の架け替えに伴い、同集落のふれあいセンター前の中之島川の拡幅で、やはり黒色土中より、遺物が採集されました。 この段階で、長岡市並びに新潟県に報告済みですが、その後も工事は順調に進められ、現在左岸の橋台の建設のため、かなりの規模で掘削が進められています。 すでに、土砂は排除されて、確認のしようはなく、コンクリートで固められ、掘削面も確認できない状態です。 しかし、再度、中之島川側の斜面を丁寧に確認。写真の壷の口頚部が採集できました。今まで、同所で採集した遺物とともに、ここに紹介します。 上沼新田は、名前の通り、昔は沼地で、人が住んでいないとされた場所で、江戸時代に新田開発が行われたとされていました。 ところが、集落内はもとより、集落西側の排水路工事に伴い大量の須恵器、土師器の破片が出土し、古代から人々が進出していたことが分かりました。中之島町時代のことで、遺跡指定されないまま、圃場整備工事を完了しています。 信濃川、猿橋川と刈谷田川に挟まれた川中島、中之島町地域ですが、確かに上沼、赤沼、大沼、下沼などの地名の通り、沼地が多く、全体にデルタの様相だったと思われていましたが、その川中島の各所から古墳時代から中世までの遺物が採集されています。白鳥の群れていた辺りも遺跡が広がっています。 蒲原平野における沖積地の発展の過程をしるために、新潟市(旧白根地区)などとともにないがしろにできない遺跡群なのですが。 写真上から、上沼橋上手の中之島川改修部分。向かって左の水面上部が遺物包含層、その箇所の掘削土より採集の糸きり底の土師器など、次は、今回採集の壷の口頚部1点を角度を変えて2枚撮影してみました。
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ヒスイの勾玉作りに熱心な方がいるのだなというのを知りました。 ところが、先日、三条市教委主催の「さんじょう遺跡物語」を見学しましたら、縄文時代の道具の復元にとても熱心で、石鏃をタールで矢竹の先端に固定した弓矢、鹿の角で作った大型の鏃を木の棒の先に付けて、ヤスを作って展示していました。タールで石族を接着すると丈夫で簡単に取れなくなる。ヤスで鮭を実際に刺して捕らえたらうまくいったそうです。縄文人の知恵は、今考えるよりずっと高度だったことが分かりますね。 ちょうど、勾玉を飾りとして展示していました。あれ、これ本物?と尋ねましたら、「これが一番高価」と係員。 本物のヒスイに、縄文時代に身の回りにあった素材を使って、方法を模索しながら、穴を開けたものだそうです。制作過程まで見ていませんので、あしからず。 三条市内の弥生時代の遺跡から出土した勾玉(ピンボケですが)を参考のため、紹介します。 写真上が、このたび三条市教委の職員の制作した勾玉、下が弥生時代の本物の勾玉です
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