越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

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早くから、書きたいと思い、書庫に「見附市新潟町」を設けておきましたが、なかなか書くゆとりがありませんでした。
というより、この新潟館跡は、早くから館跡として知られながら、伝承もなく、郷土史家の鳴海忠夫さんが「新潟館跡と小古瀬館跡」や「見附市新潟館跡ー地籍図と遺物から見た中世居館の実態」などで詳しく取り上げておられ、それに尽きるといえるからです。
しかし、鳴海さんが、珠洲焼、陶磁器類を110点あまりも採集した時点では、まだ、館跡は、堀田が掘られて形は変わっていたようですが、明治26年調整の更正図の面影をとどめていました。
いまでは、圃場整備の一環で、完全に畑になり、堀田も埋められました。
整備されるに当たって、見附市教育委員会では、小さな排水路を掘り、U字溝を伏せる部分だけ、申し訳程度に発掘調査しましたが、おおよそ、館跡全体を把握できる発掘調査ではありませんでした。
当研究所では、整備前と整備後、館跡を歩いて、表面採集を続けてきました。鳴海さんが110点に及ぶ遺物を採集した後にもかかわらず、相当量の遺物が採集され、特に、整備後は、畑より相当量の遺物が採集されました。
整備後に採集した遺物を珠洲焼、青磁、瀬戸美濃などの陶磁器、越前焼などに分けてみますと、かなり長い時期にわたることが分かってきました。
また珠洲焼には、○の窯印のあるものもあれば、越前焼も火をかぶったらしく、外側の釉薬は溶けてなくなり、白い地肌を見せているものが多いなど、なかなか多彩な様相を見せています。
また、館跡だけでなく、周辺地域の表面採集も幅広く続けてきた結果、新潟館跡から東に離れた蒲原丘陵の縁辺にまで、中世の遺跡が展開していたものと思われる、思い掛けない遺物が採集されました。
それらを逐次、調べていくことで、中世の見附市新潟町の村の様子が見えてくるかもしれません。
当研究所の手に負えない一面もありますが、遺物を見ながら、楽しいコメントをお寄せください。

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知己の考古学関係者に先ごろメール配信しました見附市今町地区の遺跡発見のための表面採集のレポートを公開します。
文体が、ブログの「です・ます調」ではありませんが、ご容赦ください。また、遺物の年代観などにつきましては、書庫「見附市坂井町」にある、「これくらいで驚かないでください3」を改題「見附市坂井町・高梨家墓地周辺の遺跡」に添付の写真により、考古学関係者の分析をお願いいたします。

見附市今町地区・刈谷田川右岸の遺跡についての補完表採報告
2007・8・30
新潟県県央歴史研究所

はじめに
 
見附市の刈谷田川右岸地域においては、昭和45年から17年間にわたって、266億5000万円の巨費を投じて行われた国営刈谷田川右岸農業水利事業に引き続き、県営圃場整備事業が、長期間にわたって続けられ、見附市、旧栄町、旧三条市の一部合わせて4560ヘクタールの水田地帯は、景観が全く変わってしまった。
 用水路はもとより、排水路も大きく改変され、水田中に点在した畑はことごとく削平された。
 従って、圃場整備事業実施以前の表面採集によって、的確に遺跡分布が確認されていなかった地域において、多くの遺跡が破壊されることになった。特に上流部で比較的、海抜の高い地域である見附市、旧栄町で遺跡の破壊が顕著となった。
 見附市教育委員会においても、極力、削平される畑地、掘削される排水路用地などを中心に、圃場整備事業の着工前に、試掘、本発掘を展開したが、圃場整備事業があまりにも広大な地域で一気に進められてきたため、ほとんど手が回りきれない同情すべき状況にあった。
 特に、水田、特に、同市教委が、後背低地と位置付けている、自然堤防上に展開する現集落の周辺地域の水田において、排水路掘削並びに暗渠工事に伴う掘削によって、遺物が露出、あるいは、排水路の掘削面に遺物包含層が確認さられるなど、遺跡の破壊の痕跡が随所に見られることになった。
 ある意味では、遺跡破壊の進行という不幸な事態が、平成5(西暦1993)年以来、県央地域で、継続的に表面採集のみを行ってきた当研究所にとって、未確認遺跡を確認する機会になりえた。もちろん、当研究所の活動が始まったのは、国営事業の完了した後だったことから、肝心の大規模な用排水路工事に伴う遺跡破壊には立ち会うことができなかった。

今町地区・刈谷田川右岸の遺跡について
 
 今回は、今町地区でも、刈谷田川右岸の北陸高速道周辺を重点に考察する。
 まず、見附市教委が、これまでに発刊した報告書をもとに、周知の遺跡を確認し、それを補完する意味で、破壊された遺跡での遺物の採集並びに包含層について記述したい。
 
周知の遺跡

1) 坂井町地区の遺跡 坂井遺跡、坂井砦遺跡、八方遺跡
2) 釈迦塚町地区の遺跡 釈迦塚遺跡、大坪遺跡、細田遺跡

坂井町地区の遺跡の考察
見附市坂井町の遺跡


 見附市教委では、もっぱら、国道8号線の東、坂井町の現集落の南側について、遺跡調査を進め、早くから確認されていた坂井遺跡のほか、排水路掘削、畑の削平に伴う八方遺跡、砦跡といわれる畑地などが削平される坂井砦遺跡などを発掘調査。
 発掘面積には自ずと限界があり、その周辺地域でも、遺跡が破壊されたものとみられる遺物の出土が確認された。
 それはそれとして、ここでは、旧国道8号線から西側、北陸高速道の東側の地域について触れる。
 まず、旧国道8号線と貝喰川の間に広がる水田地帯について。まず、すでに完全に失われたが、水田中に高梨家墓地が存在した。この辺りには、屋敷跡の地名も残っていた。
 圃場整備前には、この土盛りされた高梨家墓地の上から、須恵器、珠洲焼などの土器片(以下、すべて破片で省略)が採集され、周辺の水田中からも須恵器、土師器、珠洲焼などの土器が採集された。
 見附市教委でも、この高梨家墓地の周辺を試掘したようだが、ごく限られた範囲で、本発掘は行われなかった。ところが、この周辺の土砂を、西側の畑地に盛土し、その盛土から多くの須恵器、珠洲焼の土器が採集された。また、掘削され、表土をはがれた水田からも、須恵器、土師器、珠洲焼、青磁などの土器が採集され、さらには、暗渠工事のための掘削でも、破片が出土している。あわせるとおびただしい量にのぼり、明らかに遺跡が破壊されたものとみていい。
 また、高梨家墓地から北北西に400mほど離れた排水路周辺が、第2の遺跡破壊個所として確認された。この地域は、見附市教委の報告書に添付された「地理的環境」では、後背低地とされている。
 圃場整備事業の着工以前に、小規模な農業用排水路などから土師器などが表面採集されていたことから一部試掘を行っているが、ここも、高梨家墓地周辺同様、本発掘は行われなかった。
 ところが、排水路の掘削によって、掘り上げられた土砂や掘削断面から多くの須恵器、土師器が出土、遺物包含層も明らかとなり、遺跡が確認された。このたび、暗渠排水工事に伴い、柱根が数点出土、当研究所では木製品の保存は不可能なので、一点を三条市教委に、採集した須恵器も合わせて提出。
 その後も、大量に須恵器、土師器、珠洲焼、中世もしくは近世の陶磁器なども採集。遺跡の区域がほぼ明らかになった。
 この地域で特に留意すべき点は、西側に貝喰川が北流し、北陸高速道と交わる。ところが、この北陸高速道の西側においても、貝喰川両岸地域から、須恵器、土師器などが出土しており、排水路の掘削面から遺物包含層が明らかになっている点だ。地籍は下関町中割となっている。貝喰川の旧流路が分からないが、ともすると、北陸高速道、貝喰川で現在区切られた形になっているが、もともとは、一つの遺跡群かもしれない。
 次に、貝喰川の左岸になるが、かつて小学校のあった跡地の南西側の排水路工事に伴い微量だが、須恵器などが採集された。また、神社に至るまでの宅地に隣接した畑の排水路などから珠洲焼も採集され、いずれかに遺跡が存在しているはずだ。この神社より、西側、北陸高速道の近くに、広くないが、須恵器、土師器の出土地がある。これは、北陸高速道の北側に開ける下関町の遺跡とつながっている可能性がある。
 土器の種類については、現物を参照し、時代考証の検討をお願いしたい。(以下も同様)

下関町地区の遺跡の考察

 下関町の遺跡については、見附市教委に全く登録されていなかった。たまたま、刈谷田川と並行して走っている県道見附分水線沿いに立ち並ぶ下関町の集落に、刈谷田川の形成した自然堤防ではなかろうかと関心を持ち、集落のもっとも北側の家の屋敷畑と墓地周辺を散策。微細に破砕された土師器を発見。その後、圃場整備によって排水路が掘られたことから、遺跡の存在を確認できた。しかし、水田側は、ぬかるような泥状主体部は、屋敷畑側とみられ、破壊は最小限に免れている模様。
 むしろ、下関町の集落より東側、北陸高速道に広がる水田地帯に、多くの遺跡の分布が見られ、特に、先に紹介した坂井町の遺跡群と関連して、注目すべき展開を見せている。
 下関町一帯で採集した遺物は、三条市教委に寄贈済みで、後日、明らかにされるだろう。

釈迦塚町地区の遺跡の考察
 
 釈迦塚町地区では、見附市教委が平成7年度事業と遺跡範囲の確認調査を行った段階で釈迦塚遺跡、細田遺跡、大坪遺跡など、集落周辺の水田、畑地などの遺跡が確認されていた。また、地元で、縄文土器の出土の話があったというが、確認調査では縄文時代の遺跡の確認できなかったという。
 ところが、釈迦塚町の集落の北側、北陸高速道東脇の水田一帯で、一本目の大きな排水路が掘られた段階で、須恵器などの土器が出土。また、この排水路と北陸高速道の間の、水田用の小さな排水路から土師器の細かい破片が多く採集される状況だった。また、水田中に土饅頭が一つ存在していた。
 こうした状況から、水田の表土を削って平坦にする工事が始まった段階で、一帯で表面採集。土師器片が採集された地点を中心に、地山の茶色の土層上に薄く広がる黒色土層から、須恵器、土師器などが、大量に出土。土器の破砕状態から、長く土中に眠っていたものと推定できた。また、ブルドーザーで地ならしされた後も、採集が可能で、特に、鏃など縄文時代の遺物も採集された。肝心の縄文土器片は採集されなかったので、縄文時代の遺跡とは断定できないが、見附市教委が、地元で縄文土器が採集されている話を確認していることから、当地点ではないかと推測された。
 特に、釈迦塚遺跡よりも、北陸高速道の西側、刈谷田川の自然堤防上に展開している三林町の水田から、縄文土器片を数点採集しており、また、隣接する旧栄町の水田からも縄文時代の遺跡が確認されていることなどを考え合わせると、この地点での縄文時代の遺跡の存在も可能性が高い。
 土饅頭は破壊されたが、削平された後は、土色の地山が露出、遺物は確認できなかった。
 遺跡は、集落の北側で、北陸高速道の東脇から排水路までと、一部排水路の東側にも展開していた。
 見附市教委では、この排水路の東側で、集落の北側畑地のみを発掘調査したが、水田部分は調査していない。発掘調査して得られた遺物と、当研究所で採集した遺物を比較検討しておく必要がるだろう。
 なお、当研究所では、新しい遺跡を「細田遺跡」としていたが、見附市教委では、釈迦塚遺跡の東、土盛りのしてある地帯を「細田遺跡」としているので、当研究所の発見した遺跡は、明らかに位置が異なり、別名を付す必要がある。(続く)
 
なお、遺物の写真等は、後日、整理して送付いたします。

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いま、大河津分水路の可動堰建設に伴い発掘調査が行われている大河津分水路の五千石遺跡に注目が集まっていますが、当研究所が、五千石遺跡の発見の端緒になった燕市分水地区の下中条集落と、長岡市寺泊の北曽根集落の西側の境界を流れる幹線排水路周辺の古代、縄文時代の遺跡の存在については、あまり知られていません。
当研究所では、北曽根地区の周知の遺跡群がどちらかというと、集落の東側の畑に集中していることから、集落の西側にも注目してみました。
たまたま幹線排水路工事が行われて間もなかったことから、排水路の路肩や隣接する小さな排水路、あるいは下中条集落の周辺の水田畦などを表面採集し、微量ですが縄文時代の遺物と、古代の遺物を相当量採集したのがきっかけです。
それが、堤防の外側(河川側)で行われていた大河津分水路工事現場にも眼を向けるきっかけになりました。当時、市町村合併前で、分水町でしたので、分水町役場に届け出、県の指導で発掘調査の運びとなりました。
ただ、肝心の下中条地区、北曽根地区については、下中条地区は、周知化されましたが、長岡市の北曽根地区については、どこまで周知化されたのか分かりません。
今年の夏から、いよいよ、北曽根地区の西側で圃場整備事業が始まり、当研究所でも注目していたところ、9月23日の表面採集で、北曽根集落の西側、幹線排水路の南側の工事現場で、20センチほど表土を剥がしたところに、黒色土の遺物包含層が露出しているのを確認しました。
近くで、排水路を掘るところでは、試掘調査が行われたようですが、遺物包含層が露出したところは、多分、表土を剥がさず、土盛りする場所だったのでしょう。試掘調査は行われませんでした。しかし、もともと畑が多く、地盤が高かったため、掘削したのだと思われます。
露出したのは、一部で、全体の遺物包含層の面積は想像つきませんが、一応、露出している遺物と、脇に積まれた土砂の中から採集できる遺物は拾い集めてきました。
圃場整備事業に伴う遺跡調査の難しいところで、畑を削平するとか、排水路を掘るところは試掘調査されますが、建前上、削らないとする水田などは試掘調査しないことが多いのは、当遺跡に限りません。
できれば、試掘調査や本調査をしなくとも、せめて、立会いをして、遺物包含層の確認くらいは心がけてほしいのです。
そうでないと、発掘調査されたところだけが遺跡とされ、破壊された遺跡の存在は記録に残らず、全体の展開が把握しきれなくなるからです。
文化行政の面での、重点地区の遺跡発掘調査と違い、建設事業に伴い破壊される遺跡の発掘調査の限界であり、後世に憂いを残すことになると思うのですが。

須恵器の翼について

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書庫「見附市坂井町」に収納してある「翼でしょうか」について、「ぼんぼこ」さんから、貴重な情報が寄せられておりますので、ここで、一度整理し、また翼の折れた尾羽の方と裏側から撮影した写真も掲載したいと思います。
まず、県内にある類例として、2002年1月に発行された「新潟県考古学談話会会報」第24号に、小林弘様が資料紹介として「新潟県北蒲原郡豊浦町堤上窯跡採集の鳥形と須恵器」と題する研究を掲載しておられます。
それによると、新潟県北部にある五頭連峰の西側にある笹神、真木山丘陵群のひとつ陣が峰を山頂とする丘陵の先端、眼下に広がる水田との変換点付近の用水路で採集された須恵器などのなかの1点として「鳥形須恵器」を取り上げて、研究成果を示しておられます。
欠損した一部分であり、後に、窯で焼台に転用している。表面には、6本の沈線を平行に施して羽根を表現していると指摘されています。
当研究所の鳥形の須恵器は、ブログ左の画像に掲示しているもので、「見附市坂井町」の「翼でしょうか」を参照いただければ、さらに大きな画像を見ることができます。
そして、折れた尾羽の方から撮影した写真2枚と、分かりにくいでしょうが、裏側から撮影した写真1枚を今回添付したいと思います。
尾羽の方から撮影した写真の1枚は、後ろ正面から、もう1枚は、少し斜めに翼の文様のある方から撮影してみました。
小林さんが採集された鳥形須恵器が、窯の焼台に再利用されているというご指摘のように、採集地の近くに須恵器窯が存在しているのですが、見附市坂井町の方は、蒲原丘陵から遠く離れた貝喰川の右岸で、まったくの沖積地、消費地の遺跡と見てよいと思います。何の目的で使われていたのか、ますます興味が深まります。
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見附市坂井町の高梨家墓地跡周辺の水田や水田の土砂を掘り上げた畑の土などから、須恵器、土師器はもとより、大量の珠洲焼の甕やすり鉢、片口の破片、少量ですが越前焼、それに中国から輸入されていた高級品の青磁碗の破片が採集されました。
これまでの古代の遺跡から一気に中世の遺跡に飛躍しますが、高梨家墓地跡周辺に古代の遺構と合わせ、中世の屋敷が存在したことが確定的になりました。
もちろん、地籍集成図を見れば、下屋敷、腰巻、馬場野などの小字名があり、中世屋敷跡の存在を想定するのが考古学関係者でなくとも必然なのです。
特に、現在の国道8号線を造成するバイパス工事に当たって、新潟県教育委員会と財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団が、「坂井遺跡」として発掘調査を実施した結果、報告書では同遺跡を中世の遺跡とし、さらに「まとめ」で「坂井遺跡の周辺に集落から現れた居館が存在した可能性があるのでは」と推定していました。
圃場整備事業が行われるまで、水田の中に、ぽつんと小規模な土饅頭型の墓地があり、上には近現代の墓石が築かれていました。
周辺からも、須恵器とともに珠洲焼の破片が採集されていたばかりか、その土饅頭の表面から須恵器、珠洲焼片が採集できました。
なぜ、水田や墓地の表面から須恵器や珠洲焼の破片が拾えたのか。考えられることは、今回の大圃場整備事業を行う前に、明治、あるいは昭和の圃場整備事業で、もともと屋敷跡だったものが水田や畑に改変されて、遺跡が部分的に破壊されてしまっていたのかもしれません。
見附市教委でも、墓地の周辺の水田で小規模の試掘を行ったようですが、本格的な発掘調査は行われなかったのです。
しかし、圃場整備事業が行われ、水田が掘削されて、残土が隣接の畑に盛り上げられると、須恵器、土師器はもとより、おびただしい珠洲焼の破片が出土。
水田からは、水路跡をうかがわせる黒色土層が現れるなど、もし、仮に、すでに破壊されていた遺跡だとしても、調査の仕方によっては、中世居館の遺構を把握することができたかもしれません。極めて残念でした。
当研究所では、工事の進捗に合わせて、表面採集を続け、三条市教委に寄贈済みの遺物とあわせ、その後も、今回、ここに紹介する中世の遺物が採集できました。
すでに、木碗などが多く使われるようになっていた中世において、珠洲焼の甕、片口、すり鉢の破片や、青磁碗片などが、これだけ出土する場所は、近隣でも、居館跡と位置づけられている見附市新潟「新潟館跡」、未指定の三条市南入蔵地内の水田などごく限られています。
もちろん、すでに文献資料として、貴重な財産になっている中世「三条城」に拠った上杉謙信の有力武将、山吉氏の「三条同名同心家風給分帳」(天正5年)という、55人の給地を記した資料が残っています。
この給分帳に出てくる山吉氏家臣団の給地とされるところからは、中世の遺物が拾われ、一部は居館跡も確認されているのです。
その中に、弓下馬之助分として「三条之境村」と並んで、河野弥左衛門尉の給地として「出雲田庄境村」という名称が出てきます。これが今日の見附市坂井町に比定されているのです。
高梨家の墓地は取り壊され、今は墓地跡と言うしかありませんが、この周辺、下屋敷という小字名に、どのような武将の居館があったのか、今となっては、多くの珠洲焼などを見ながら想像するだけです。
ここで問題なのは、せっかく、県教委と財団法人新潟埋蔵文化財調査事業団で、坂井遺跡を発掘調査していながら、その後の圃場整備に当たって、地元見附市教委への指導、連携が十分に行われていなかったことです。消えた遺跡はもはや歴史を語りません。
中世遺跡に関する考古学の歴史はまだ浅く、縄文時代、古墳時代、奈良・平安時代の研究に比べて遅れているわけですが、それだけに、文献資料との兼ね合いも含めて、考古学の面から居館跡などは徹底的に調査して、鎌倉時代以降、江戸幕府が開かれるまでの、日本の動乱期、合わせて越後の動乱期の状況を知る手がかりをつかんでおく必要があるでしょう。
今後、紹介する新潟館跡の遺跡破壊の状況などでも、中世考古学の課題を指摘していきたいと思います。
さて、今回紹介する遺物ですが、多分、同じ遺跡の遺物と思われますが、畑に盛られた土から採集遺物と水田中から採集の遺物と、表面採集の段階から一応二つに分けました。
畑の盛り土中から採集の遺物を先に、水田から採集の遺物を後に、珠洲焼の甕や片口、すり鉢、そして越前焼や青磁、砂目トチンのある国産の陶磁器などの順に紹介します。最後に掲載の写真の右側、日本刀の切羽台は、いつごろの物か分かりませんが、同遺跡から採集したものなので参考に掲載しました。
土師器は少なかったのですが、須恵器も相当量採集しましたが今回は省きました。


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