越後・蒲原平野の歴史と文化

小休止の後も、越後・蒲原平野の歴史と今にこだわり続けます。

文学新潟県央地域

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]

舜華先生のブログのコメントです。

kodaijinさん、日本は地震国だから仕方がありませんが、みな必死に立ち上がりましたね。今日一日中「この時間はこうしたわ」と考えていました。あの年の秋市民の皆さんと何か楽しみをしようと私の会「清友篆會」を立ち上げました。スタートは公民館で三人でした。震災と共に私の会も大切な事柄です。

13年前の1月17日朝、阪神淡路大震災に襲われ、芦屋に住む瞬華さんも、大変な思いをされたのですね。

江戸時代末の、文化11年(西暦1828年)新暦の12月18日に起きた栄地区、芹山を震源とする三条地震は、ごぜ口説きや瓦版などで江戸でも知られた大惨事でした。

そのとき、良寛が、歌った歌や、手紙が今に伝えられています。

良寛は三条の地震の惨状を聞くと、心配で三条まで行き、その被害の悲惨さに強い衝撃を受け、いくつかの詩歌を残しています。

三条の市にいでて
 「長らえん ことや思いし かくばかり 変わりはてぬる 世とは知らずて」
 「かにかくに 止まらぬものは 涙なり 人の見る目も 忍ぶばかりに」
 
与板の親戚である山田杜皐宛の見舞い状(誤解をかもしだしたであろう書簡)
  地震は信に大変に候、野僧草庵は何事もなく親類中死人もなくめで度候。
  「打ち付けに 死なば死なずて 長らえて かゝる憂き目を 見るがわびしさ」
  しかし、災難は逢う時節には逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。
      是は災難を逃るゝ妙法にて候。          かしこ

などです。山田杜皐に宛てた手紙は、のちのち、誤解を持って伝えれてきました。
まさに、人間の力では防ぎようのない地震。このことは、昔も今も、全く変っていないことは、近年でも、13年前の阪神淡路大震災、その後、相次いで新潟県を襲った中越地震、中越沖地震でも証明されています。

さりとて、良寛の言葉を額面どおり受け取っては、みもふたもありません。
日本が地震国であることは分かっていても、新潟県では、中越地震、中越沖地震などが重なり、いよいよ、三条地震から時間がたっているので、信濃川地震帯が暴れる番かなと、誰言うとなく案じている昨今です。

イメージ 1

イメージ 2

良寛が好きとおっしゃるKattinさん。せっかく、地元三条とゆかりの深い良寛ですので、今回も三条八幡宮の石碑などを紹介してみます。

5日から7日まで、三条市にある真宗大谷派三条別院のお取り越しで、門前に、高市や植木の店が並んでいます。このころになりますと、温暖化が進む以前は木枯らしが吹き、冬支度が始まったものです。
いまでは、お取り越しを迎えても木枯らしも吹かず、霰、霙の降るような寒い日もまだありませんが、やはり、冬型の気圧配置になったきょう6日はやや冷え込んでいます。
自分の部屋でじっとしていると体が冷えるので、きょうのお茶は、自分でインスタントコーヒーでも入れて飲みながら、良寛の「焚くほどは風がもてくる落葉かな」(三条で読まれたもので、三条市元町・日吉神社の境内に石碑があります)ではないですが、体を温めながら入力します。

写真は上に、前回、ご紹介しなかった三条八幡宮の拝殿並びに神楽殿などの改築事業に伴い、境内に建立された托鉢の詩の新しい石碑(趣意文は下に掲載)。

写真下は、変哲もない三条の市街地ですが、街路樹が黄色く色付き、すでに茶色を帯びて散り際を迎えている葉も見られます。

前回、十字街頭の石碑の写真を掲載しましたが、その碑の拓本(三条郷土史研究会刊「三条のいしぶみ」より)は、「三条八幡宮と良寛歌碑」に添付しました。

托鉢の詩の趣意文より

今日(このひ) 食(じき)を乞うて 驟雨に逢い
暫時(ざんじ)回避す 古祠の中
笑うべし 一瓶(いちびょう)と一鉢と
生涯 しょう灑(さい)なり破家の風(ふう) ※しょうは瀟の氵がない文字
(「石碑の背面の趣意文」より)

三条八幡宮と良寛歌碑

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

きょう11月4日午後0時半から、三条良寛会副会長の長谷川金七郎さんの告別式ということで、午前中、所用もあって、三条八幡宮を訪ね、良寛ゆかりの歌碑などを一基ずつ、眺めてきました。
良寛の書は、万葉仮名の上、崩してあるので、僕などには読めない文字が多いのですが、案内板などを頼りに読んだり、家に戻って、資料を改めて確認したりです。

良寛というと、生まれ故郷の和島や修行時代の岡山・円通寺、托鉢や子どもとのまりつき、筍の話、泥棒の話など逸話を多く残した分水の五合庵などが有名ですが、実は、良寛が托鉢でよく訪れた三条の街ことは、あまり知られていません。

当時、五合庵から、托鉢に訪れるとしたら、蒲原でももっとも繁華だった三条が、僧侶、文人墨客、あるいはスポンサーとなる商工業者なども多く、多くの足跡を残しています。

また、良寛の書を広く世の中に知らしめたきっかけは、三条出身の幕末、勤皇画家、村山半牧です。半牧は、良寛の書のすばらしさを見出し、出版しようと考えますが、自らは、勤皇の画家ということで、幕末、追い詰められて、見附の地で自害して果て、目的を果たせませんでした。

それ以後のことは、村山半牧公徳碑の案内板に詳しいので写真を掲載します。
もちろん、三条八幡宮だけでなく、宝塔院の境内や、日吉神社の境内などにも、良寛ゆかりの歌碑が建てられています。
今回は、三条八幡宮の境内に建つ歌碑の中から、2点と、半牧頌徳碑の案内板を紹介します。

写真は上から、改築なった三条八幡宮の拝殿、境内の池の中にある厳島神社境内に建つ現代文で書かれた歌碑、乞食(こつじき)の詩として知られる「十字街頭」の碑と、その碑の拓本(三条郷土史研究会刊「三条のいしぶみ」より)、十字街頭の碑の案内板、半牧の頌徳碑の案内板です。

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]


.
kodaizin
kodaizin
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

標準グループ

過去の記事一覧

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事