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《新潟市黒埼・雪梁舎美術館》 新潟市が、春にしては大雪に見舞われた20日、黒埼にある雪梁舎美術館に、マイセン展を見に行ってきた。 17世紀の終わりごろから今日まで、連綿と続くドイツのマイセン窯。シノラズリ(中国趣味)による陶磁器生産、世界の最高峰を行く、18世紀ころの、伊万里焼など、ジャポニズムの影響を強く受けた時代、そして新たなマイセン焼きへと進化。20世紀末には、柿右衛門様式を真似る域から、黙っていれば、マイセンと気付かないほど精緻で美しい陶磁器を生み出すまでになった姿を楽しんできた。 |
無題
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新潟市美術館で開かれている中国吉林省長春市出身で、この春、新潟大学大学院美術科を修了する画家志望の王暁麗さんの作品展。 王暁麗さんの作品展は、全く予期していなかった卒業記念の個展で、会場に本人も居られて、話を聞きながら鑑賞。 北華大学芸術学院美術専攻卒業後、深圳で五年間勤務の後、新潟大学に私費留学、引き続き、ロータリー米山奨学生に採用され、同大大学院美術科で二年間学んで、今春修了するという。 作品はデッサンから、アクリルや蔦の紅葉などを接着剤で付けるあるいは、刺繍のように糸で縫い上げるなど、さまざまな技法を駆使したコラージュなど。抽象的な造形から、具象的な表現まで、大胆な構図で、色彩も華やか、若さがみなぎっている。作品は展示会終了後に販売、売上金の全額を、新潟南ロータリーを通じて東日本大震災の被災地に贈るという。 |
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ローカル紙「越後ジャーナル」に掲載の「蛇の目・須坂の旅」12回分を書き上げた。 長野県須坂市は、新潟県三条市から、高速道路で、わずか2時間。人口5万人ほどと小規模な街だが、雪もなく、とても素適な街だ。 もともと、三条城の堀直政の三男、堀直重が、1万石の須坂藩初代藩主で、三条城は、一国一城令で江戸時代初期に、破却となったが、須坂藩は、明治にお廃藩置県まで存続。明治には、養蚕、生糸生産で栄え、昭和になってからは、富士通の企業城下町として栄えて来たという。 富士通の撤退後、蔵造りの街として、観光に力を入れているが、観光開発以前から、遊びにいているので、とてもいい街だと思う。 須坂の料亭「能登忠」 須坂・銀座通りの「Cafe Waraku」 須坂クラシック美術館展示の宮内典子さんの作品 能登忠の懐石料理は器も美しい 茶室作りの部屋で、障子の向こうは「にじり」 お吸い物は、美しい漆の椀で、とても美味しかった |
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【facebookに魅了されています】
今まで、ブログとツイッターで、楽しんでいましたが、ツイッターのユーザーが、いつのまにか、つぶやかなくなり、姿が見えなくなるので、知人に、どうしてだろう?と尋ねると、異口同音に「実名のfacebookがいいからでしょう」というので、きのうの夜、思い切って、登録。Facebookのことは何も分からなかったのですが、ブログ、ツイッターでトレーニングしてきたことから、曲りなりに、親友を探し出し、一晩で形になりました。 きょうは、三条市にある知遊堂で、「Facebook完全活用マニュアル」を買ってきて同店に併設された喫茶コーナー「BARISTA CAFFE(バリスタ カフェ)三条店」で、おいしい「コーヒーゼリースムージ」を食べながら、ゆったりとした時間を過ごしてきました。 ツイッターとFacebookの違いも少し分かってきました。なんとか、若い世代と情報交換しながら、続けていきたいと思います。 ちなみに、Facebookの日本のユーザーのうち、65歳以上は1%だそうです。 |

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【旧分水町(燕市)の中島地内、十王堂裏墓地の中世骨壷】 彼岸の中日も終えた9月24日、中島地内の十王堂の裏手にある墓地を訪ねました。 今年の夏、同墓地から須恵器の甕の破片を数点採集。平安時代の人の生活した痕跡がある以上、必ずや中世の遺物もあるだろうとの狙い。 彼岸の中日に合わせて、墓地の回りは草も刈られ、整理されていた。雨も降って、遺物の表面採集には最適の状態だった。 そこで、古そうな墓の周りや、逆に整備されていない墓などの周囲を隈なく探した。意外にも、墓石というよりも、御影石のカケラのような物が一個置かれ、その前とも、脇ともいえない位置に、花や蝋燭を立てる道具が置かれていた。花は備えてなく、この彼岸の中日には、この墓をお参りした人がいないらしい。 よくみると、その御影石のカケラのような物の下から、珠洲焼特有の叩き目文のあるの甕のカケラが覗いていた。 瞬間、「あった」と小躍りした。しかし、誰かがこの墓地を管理し、この墓も、もちろん誰の墓か分からないだろうが、心ある人が時にお参りしている。 したがって、丁寧に御影石のカケラをどかし、状態を確認。写真を撮りながら、状況を確認した。 骨壷は、2個で、1個が先に埋められ、その骨壷を欠くようにして、後の骨壷が埋められていた。 後から埋めた骨壷は、すでに口縁など上部が欠けていたが、幸い欠けたカケラが重ねられていた。先に埋められた骨壷は、すでに上部が欠けて、カケラも見あたらない。 墓地の南側の中央にあって、多分、かなりの有力者、開基の僧か、開基檀那の墓ではあるまいかと想像した。 残念なことは、この骨壷の上にあるはずの、五輪塔などは、そのひとつも見つからない。誰かが持ち去ったものか、土の中に埋めてしまったものか。 とにかく、欠けた口縁部を持参し、洗って写真撮影した後、燕市埋蔵文化財の担当者に渡して、状況を報告しておいた。 ここに、その墓地の状況を撮影した写真をアップする。新しい遺跡であることは間違いなく、一字一石経の石が出た新堀の中世墓地とともに、登録し、しっかりと調査してほしいものだ。 |




