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<KIYO−SATOさんのコンサート> きのう10日ときょう11日午後6時から、三条市の保内公園熱帯植物園で、KIYO−SATOさんのコンサートがあるというので、間に合うように午後5時半に家を出た。 コンサートを知ったのは、今朝、ツイッターにフォローしておいたKIYO−SATOのツイートとブログを開いてみたからだ。 もちろ、KIYO−SATOさんと面識もなく、ツイートとブログ以上には、どんな人かも分からず、三線で、「竹田の子守唄」や「蘇州夜曲」などを演奏するというし、もちろん沖縄の唄も演奏するだろうと興味深かった。 ぎりぎり会場に飛び込んだ。夜、ライトアップするというので、きのうと違い10度以上も気温が下がっているので寒くないかと心配だった。 会場に着くと、屋外では、しょぼくれた男性がギターをかき鳴らしながら歌っているが、聴衆は3人ほど。 KIYO−SATOさんは、熱帯植物園を入った正面、建築用の足場で組んだ特設ステージ、背景には熱帯植物とこのために立てられた青竹が雰囲気をかもし出していた。 和服姿のKIYO−SATOさんは、すでにステージ上の椅子に腰掛け、三線の音合わせ中で、挨拶する時間もなかった。 もちろん、KIYO−SATOさんは、僕を知らない。間近に迫って、デジカメで写真を撮る僕に、「何者ぞ!」という目線で見る素敵な写真が撮れた。 沖縄の唄で演奏が始まり、途中で、外で演奏していた男性が「一緒に演奏させてくれませんか」と申し出た。それで、前庭の竹のオブジェを造るために、滋賀から応援に来た造園業者で、拓郎といい、ギターを弾きながら歌っていることがわかった。彼が演奏し、歌ったたのは、阪神・淡路大震災の歌「満月の夕べ」と、自分のオリジナル曲の2曲で、KIYO−SATOさんが三線で伴奏した。後で、HPで調べて分かったが、「満月の夕べ」を三線一本で歌った人がいるのだ。 ともかく、その後、KIYO−SATOさんの、門出を祝うオリジナル曲「ひとの喜び」(正確な文字はわかりませんが)や「花」を歌って第一部を終えた。第2部との間の時間に、名刺交換した。 第2部は、熱帯植物園に赤い花を咲かせている芭蕉の一種「美人蕉」に掛けて、沖縄の布「芭蕉布」と同名の歌や、「蘇州夜曲」、「涙(なだ)そうそう」などを歌った。あっという間に時間が来て、拍手のうちに終わるというので、アンコール。それまで座って歌っていたが、アンコール曲の「島育ち」は、立ち姿で歌った。着物姿がライトにひときわ映えた。 午後8時8分終焉。歌と歌の間のトークもとても面白かったが、取材でなく、初めて聞かせもらおうという気軽さだったのでノートもなく、時折、携帯のメモ帳に書き込む程度で、もったいなかった。 |
無題
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<三岸節子の作品> 三岸節子没後10年展が、4月19日まで、高島屋大阪店で開催中で、22日から5月10日まで、日本橋高島屋で開かれる。晩年、新潟市内のデパートで開かれた展覧会を見て、感動したので、なんとか、日本橋高島屋の展覧会は見ておきたいと思っていた。 きのう8日、そんな思いが通じたのか、燕市にあるに日用品雑貨の卸商社のオフィスを訪問したら、作家の名は忘れたが、棚に大きな「福獅子」があって、壁に、三岸節子の作品が掛けられていた。 早速、そばまで行って、写真を1枚。この会社の社長さんの奥さんで専務取締役が、洋画を描き、光風会の中央展に出品していたほどで、さすがに飾る作品も違うと、写真を撮った後も、しばらく鑑賞していた。 話は変わるが、オフィスの空き地に種を撒いた椿が、10年以上たって、花を咲かせ始めた。椿の木下に落ちている実を拾ってきて撒いたもので、どんな花が咲くか、咲いてみないと分からないのだが、とにかく、4、5本が花を開いた。写真を撮ったのだが、近すぎたのかピンボケで掲載できないが、スイセンや雑草の西洋タンポポなど黄色の花と、椿のピンクの花が好対照だ。
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<ツイッターにはまって夕食を食べ損ねた> |

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刈谷田川の五百刈(赤字)、中興野と山吉周辺地図、緑の箇所が土師器など採集地 五百刈集落では、「養老6年(西暦722年)中之島発祥の地」という石柱が建てられているほどで、地元の旧庄屋「浅野家」では、そのように言い伝えられていると言う。ところが、考古学的に見て、同地域の杉之森、高畑、横山などの微高地の遺跡群から、すでに古墳時代の遺物や奈良・平安時代、中世の遺跡群が明らかになっている。 また、新潟県県央歴史研究所の地道な表面採集調査によって、信濃川と平行して流れる猿橋川右岸の品之木(ぼんのき)集落からも古墳時代の遺物が採集されている。同じく猿橋川右岸の坪根集落では、微量だが、平安時代の土師器と思われる破片が、集落脇の排水路から採集され、今回、採集地に近い猿橋川河川改修現場からも、微細だが2点ほど土師器片が採集されている。 そこで、五百刈、中興野集落内と対岸の山吉集落の刈谷田川の改修現場で、なんとか、せめて奈良・平安時代の須恵器や土師器の破片でも採集できないかと挑戦したが、収穫はゼロ。下流部の中之島集落内の刈谷田川改修現場では、すでに報告の通り、須恵器、土師器片を採集しているので、期待したが無理だった。 何故、伝承はあるのに、遺跡が見つからないのか。刈谷田川が暴れ川で、蛇行しながら、時に決壊するなどで、字形が変わりやすい。加えて、昭和36年ころの豪雨で、五百刈集落の一角が破堤、大改修が行なわれ、今回平成16年の7・13水害で、再び大改修が行なわれたため、五百刈、中興野の集落とも、昔の家屋敷や畑が潰れ、地形が一変しているため、遺跡が探せない状態。 ただ、偶然なのだが、五百刈集落の旧庄屋浅野家、中興野集落の旧庄屋吉田家のご家族から、伝承についてうかがうことができるなど、収穫もあった。 山吉集落では、刈谷田川改修では、ほとんど地形が変わっていない。集落内での遺物採集はできなかったが、集落の東、新幹線の近くの水田排水路から、須恵器片と土師器片を1点ずつ採集。よやく山吉集落近辺に古代からの人びとが住んでいた痕跡を見つけることができた。今後の調査が重要だ。 中世の三条城将山吉氏の出身地と見ているので、なんとか中世遺跡の存在を確かめたいのだが、地域に館跡などの伝承は全くない。 五百刈集落の一角に建てられた中之島発祥の地の石碑。旧庄屋浅野家のご家族は、本来は、この屋敷内に建てたかったと言う。 浅野家の屋敷も度重なる刈谷田川の改修で、畑や屋敷地が削られ、現在は、家ぎりぎりに堤防が築かれている。屋敷は周囲よりかなり高く、昔の庄屋屋敷の面影をとどめている。家は数度焼け、菩提寺も焼けて、古い過去帳、文書などは伝わっていないと言う。惜しまれる。 この南無地蔵尊の社も、この位置より右手の刈谷田川沿いにあったが、堤防新築で、50mほど移動させられた。新しい境内に米山塔があって、「右長岡通」とあって道標を兼ねている。この碑ももちろん、旧南無地蔵尊の社にあったものを移動させられた。 畑仕事をしている農婦に声を掛けたら、たまたま、中興野集落の旧庄屋吉田家の方だった。品のよい言葉遣いで、なまりがないが、家付き娘だったということで、祖母から家の歴史などよく聞かされたと言う。吉田家は、戦国時代、武田信玄に攻められ信州から越後に落ちてきた村上一族で、はじめ中之島の長呂集落に落ち着き、その後溝口藩の役人となり、この中興野の土地を賜って、移り住んだと言う。浅野家ほどではないようだが、刈谷田川の築堤で畑が削られたと言う。 改修でまるで流れが変わった刈谷田川。守門岳など上流部の雪解け水を集めて緑色した流れが春らしい。この川が、雨季になると、まるで狂ったような濁流となり、随所で越水、破堤を起こして、中之島、見附地域の人々を苦しめる。 見附市山吉集落の東南、新幹線近くの水田地帯の排水路路肩に土師器片や須恵器片がそれぞれ1点ずつ出土した。これまで、全く地域の遺物、遺跡の伝承すらなかっただけに、ようやく手掛かりが見つかった。刈谷田川は暴れ川で蛇行を繰り返していたのだから、自然堤防は、現在の堤防脇の集落よりも、東南にあったと考えることもできる。もちろん、新幹線のあたりは、すでに後背湿地であると言う。その縁辺が鍵になる。 微細だが、土師器片に間違いない。このほか須恵器片も1点採集したが、平安時代のものか、中世須恵かは、さらに専門家に確認する必要があるようだ。周辺に近世の磁器片も微量落ちているが、ほとんど採集しなかった。 |
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<カレーパスタ>きょう4月1日お昼に、知人と燕市の商店街の一角にあるレトロな軽食喫茶「ロンドン」に行き、勧められるままに「カレーパスタ」を注文。生活習慣病を直すには、生野菜を食べるという一項があって、普段あまり生野菜を食べないのですが、きょうは大喜びで、生のサラダ(当然)を食べ、カレーパスタに舌鼓。隣の三条では、もっか、伝統の味「カレーラーメン」を売りにしていますが、カレーパスタもおつなもの。最後にスープ付で、楽しいランチでした。
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