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第76回大会 発表者募集

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有馬義貴氏によるパネリスト報告の要旨をご紹介します。

「作り物語の〈時代〉─『狭衣物語』成立の背景─」             
 
 『狭衣物語』の冒頭部には、源氏の宮を思慕する主人公狭衣の描写の後に、「この頃、堀川の大臣と聞こえさせて関白したまふは」云々という一文がみられる。ここに見える「この頃」という表現について、例えば、「この物語の設定した時間・空間を近時仮構に限定する方法で、「今」を宣言して、現代物という意識を発現したもの」(三谷榮一氏「物語の冒頭表現の推移とその方法─後期物語文学論序説(下)─」『國學院雑誌』一九八九年四月)、「現在を意識している」(新潮日本古典集成)もの、との見方がなされている。
 『狭衣物語』には成立当時の人々にとって身近な時代が反映していることも指摘されるが、実際に「近時仮構」がなされているもの、あるいは、「今」、「現在を意識している」ものであるとして、「昔」について語る物語とは異なる、そのような時代設定がなされた物語は、どのように享受されうるものだったのだろうか。また、そのような物語は、いかなる時代状況、文化状況のもとに生み出されたものだったのだろうか。
  上述のような疑問を足がかりとして、作者圏・享受者圏といったこと、また、他の物語文学や、「近時」のことを記したものとしての日記文学及び『枕草子』のありようなども意識しつつ、『狭衣物語』という作り物語の性質について考察する。そして、そのような性質の作品が成立した藤原頼通の時代とはいかなる時代であったのか、考えてみたい。
 
高橋由記氏によるパネリスト報告の要旨をご紹介します。

「頼通時代の後宮文化 ─『四条宮下野集』とその周辺─」          
 
 後冷泉天皇の皇后寛子は、関白頼通四十五歳のときに生まれた実子で、唯一の女子である。隆姫女王所生ではないためか入内以前の寛子の動静は知れないが、永承五年(一〇五〇)の入内および翌年の立后に関して、『栄花物語』巻三十六「根あはせ」は「殿のかく御心に入れさせたまへること」「女房の装束など、いひつくすべき方なし。」「靡かぬ草木はいかでかあらん。」と記す。関白頼通の全面的な後見のもと、入内以後の寛子は非常に華やかな後宮生活を送ったと思われる。
 その寛子の後宮生活・後宮文化の一端を垣間見せる資料が『四条宮下野集』(以下、『下野集』)である。『下野集』の世界は『枕草子』に似ているといわれる一方、『下野集』には寛子本人の登場やことばは多くはなく、詠歌もない。そのため、寛子の印象は薄く、『枕草子』にみる中宮定子のような圧倒的な存在感はないように思える。しかし『下野集』には少ないながら寛子の言動が記されており、文化圏の女あるじとしての寛子の姿をみることができる。本発表では、後宮での文化生活を活写したことでは共通する『枕草子』からの影響あるいは世界観の連続と、一条朝とは異なる頼通時代の後宮文化のありようの両面を『下野集』から考えたい。
加藤静子氏によるパネリスト報告の要旨をご紹介します。

「和歌宰領者としての頼通 ―和歌六人党藤原範永という視座から―」      
 
 頼通二度目の歌書蒐集に関係する「納和歌集等於平等院経蔵記」(惟宗孝言)は、延久三(一〇七一)年九月頼通八十歳の時のもの。「経蔵記」では、狂言綺語も讃仏乗の因、転法輪の縁となる、和歌集等を経堂に納めて歌集中の「貴賤道俗」は自分の願念に牽かれ極楽往生を遂げて欲しい、「適々吾を知るの者あらば、遍く成仏の縁を結ばん」と閉じる。範永・藤原経衡・四条宮下野・橘為仲の家集や十巻本類聚歌合などが納められたという(『後拾遺集前後』)。頼通晩年の歌と人への思い、和歌宰領者としての壮大な総括がうかがえる。
 本報告では、頼通自身の和歌活動を踏まえ和歌宰領者としての側面を照射しつつ、和歌六人党の一人範永から、頼通の和歌文化圏を裾野まで明らかにしたい。六人党は清新な叙景歌を詠み、白楽天に傾倒、院政期和歌に影響を与えたが、彼らは、源師房に庇護され、勅撰集を願って関白頼通とは距離をおいたと指摘されている。しかしながら、範永は、頼通・師実父子に長年にわたり家司として仕え、頼通をはじめ、師房・師実・その他が主催する歌会に参加する。主催者「その他」も、実は頼通文化世界の基層をなす人々で、関白頼通が作りあげた人脈の驚くほどの強固さ広さがある。六人党の他メンバーも、範永同様に頼通と彼が関与する人々の家政機関・中宮職等に属し、和歌活動も頼通文化圏内にある。看過できない受領層歌人たちに光をあてることで、頼通和歌世界の実相を明らかにしたい。
和田律子氏による基調講演の要旨をご紹介します。

「藤原頼通の文化世界 ─文化発信と知の共有の基層─」                                                                          
 頼通文化世界は、個個の文化活動が、人的環境の連鎖のなかで享受者を意識し、先行作品および当代の清新なことばや発想の共有を前提に、世に提示されたところに特徴のひとつがある。
  本報告では、如上の特徴を切り口として、頼通文化世界が、かつて言われていたような、頼通中心の一大血族集団による協調融和的(犬養廉氏)な、平穏で、しかし、新鮮味に乏しい世界であったのではなく、「協調融和」のなかで、知の共有を前提として、当代の文化の流行を積極的に取り込みながら文化活動の裾野を広げ、頼通の意思を強く反映した、活発な文化活動を展開した時代であったことを確認する。その際、『枕草子』世界との近接性なども視野に入れておきたい。
 はじめに、頼通の生涯とその事績を概観し、頼通が主導して文化世界を完成させてゆくさまをたどる。つぎに、文化世界の人的環境について、成立した作品と交差させながら見取り図を示す。そこからは、村上源氏や中関白家等との紐帯も含めた、道長時代とは異なる頼通中心の人脈の広がりが浮かび上がり、その人脈が文化世界の形成と知の発信・共有に深く関与していることがみえてくるであろう。そのうえで、『更級日記』『四条宮下野集』にみられる歌合との関連性を例としてとりあげ、頼通文化世界における知の共有の実態の一端を提示し、頼通文化世界の内実について言及する。


8月20日(土)シンポジウム「藤原頼通の時代と文化世界」の趣旨文をご紹介します。今回のシンポジウムを統括する、司会の横溝博氏が作成したものです。

『更級日記』の作者・菅原孝標女は、藤原頼通の時代を生きた人でした。藤原道長の息・頼通の時代は、後一条・後朱雀・後冷泉天皇と続く、三代・五十一年にわたる長期政権のもと、数々の文化活動が展開された時代でした。とりわけ後冷泉天皇の時代には、皇后寛子・中宮章子内親王・女御歓子を戴く内裏後宮を始め、斎宮・斎院や宮家などにおいて数多の文化活動が営まれ、活況を呈しました。
 和歌においては勅撰集こそ編まれませんでしたが、『栄花物語』に見られるように、内裏歌合が再興され、高陽院水閣歌合や皇后寛子春秋歌合などの晴儀歌合から私的歌合に至るまで、大小様々な歌合が開催されたことは、『廿巻本類聚歌合』に記録されているところです。相模や能因が歌壇を主導する中、伊勢大輔・出羽弁・橘為仲・康資王母・小弁・藤原頼宗・源経信といった歌人らが活躍したのもこの時期です。藤原範永を始めとする和歌六人党の革新的な作歌活動も注目されます。『四条宮下野集』『出羽弁集』には、時に『枕草子』的とも言われるような女房と男性官人との歌による密接な交流が窺えます。一方、物語文学に目を転じれば、六条斎院禖子内親王の「物語合」の開催に見られるように、新しい物語が競作されました。『狭衣物語』には和歌と散文が融合した当代一流の表現が見られます。『更級日記』はそうした時代に書かれた日記でした。これら貴族社会における文化活動の多くが、文芸に理解のある頼通によって牽引され、領導されたのです。頼通の時代はまさに王朝文化の爛熟期であり、頼通の時代を考察することは、広く平安時代の文化文芸を考えることにもつながると言えましょう。
 今回のシンポジウムでは、頼通の時代を概観するとともに、同時代の文学テクストから見えてくる様々な文化現象に着目することで、「頼通の時代を考えるとは何か」をめぐって、問題意識を共有していくことを目指します。歴史、文化、宗教、建築、美術、等々、様々な領域から注目されている中、文学研究の側から何を明らかにしていくのか、問いかけていきます。

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