小説・しんじゅく夜風

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しんじゅく夜風(74)

かよい塾


 ナナが、環をトイレへ連れて行っている間に、加奈子は、元彼に対し疑問点を矢継ぎ早に問い正していた。
「翼のパターンが、まるで、三千子と異父姉弟のようじゃないの!・・・」
「ちゃんと鑑定してくれたんでしょうねえ・・」
 加奈子の、不満をぶつけるような口調に、元彼はむしろ加奈子の心情を見透かしたように冷静に応じた。

「その事なんですが・・」
「三千子さんは、間違いなくご夫妻の子であることを示すパターンを表わしておりますが・・・」
「翼くんのパターンは、真に申上げ難いのですが、手塚さんのご長男の配列が色濃く出ておりまして・・」
 そう言った後、元彼は一度咳払いして続けて言った。
「加奈子さんはそのことに、お心当たりはないのでしょうか?」
 鑑定した彼の目が、加奈子の小脇に光るものを見逃さなかった。

(ということは、あの時の情事が・・)

 加奈子の脳裏に真夏の菅平を思い起させていた。
「わかったわ、教えてくれてありがとう・・」
 そうと分った以上、加奈子には、もはやそれ以上詳しく聞く必要はなかった。
「まだあるんです!」
「実は・・・」
「手塚さんのお嬢さんの配列にも、ご長男の配列が、色濃く出ておりまして・・」
「お心当たりはないのでしょうか?・・」
「え、えっ!…シッ……」

 ナナがトイレから戻ってきた。
「ナナさんは、もう聞くことはないの?」
 心なしか、気落ちした加奈子の様子を、敏感にキャッチしたナナは、消沈して首を縦に振った。
「それじゃ、きょうはこれで失礼しますわ」
「いろいろとありがとう・・」
 ふたりは、途中、こどもにジュースを飲ませただけで、何処にも寄らず、まっすぐ帰宅した。
 そして、両家のあたらしいドラマの幕開けが待っていたのだった。

 (つづく)

しんじゅく夜風(73)

かよい塾


 一般家庭にクーラーがやっと普及し始めた頃で、扇風機で猛暑を凌げれば上等といえる程度の文化的な生活だから、真夏日の夜などは少しでも風通しをよくするために、ドアに隙間をあけて置いても特に不安を抱くことはなく、隣近所の付き合いも比較的、開放的というか、みんな新しく住み始めた近所同士の好で相互扶助の触れ合う機会がいまよりも多かった。
 その結婚間もない頃の、真夏のふとした出来心の陰が、この間から、親子疑惑騒動が勃発して以来、ナナのこころに重く圧し掛かっていた。

 それは、ナナの夫が大阪へ宿泊出張に出掛けた真夏日の午後だった。
 夫の同僚で懇意にしていた佐々木の妻が、夜には夫の真一が早く帰ってくるからと、小学生の娘の真理子を、ナナに預けて親戚の通夜へ、そそくさと、出かけて行った日と同じ日だった。

 ナナは、汗まみれになって塾から帰ってきた真理子を見ると、先にきれいに洗ってから、預かっていた服へ着替えさせようと、一緒に裸になってシャワーを浴びていた。すると、チャイムを鳴らしたかと思うと、勝って知りたる他人の家を、大きな声をあげながら、つかつかと、勝手に入ってきたのが真一だった。
 真一の声を聞きつけた娘の真理子が、浴室の扉を開けて呼び止めた。
「ああ、そこに居たんですか、どうもお世話を掛けちゃって・・」
「あら、これくらいのこと、いいんですのよ・・」
 家族同士の付き合いに、裸を見られる抵抗感が、ナナには希薄になっていた。
「パパもいっしょに入れてもらったら・・」

 佐々木家は、家族3人で風呂に入るのが習慣になっているから、真理子にしてみれば至極普通のことだった。
「何を言ってるんだ・・、ナナさんと入る訳にはいかないよ・・」
「あらっ、水臭いこと仰らないで、どうぞ遠慮なく…」
「そうよパパ、いっぱい汗を掻いてるじゃん・・」
「そうですよ、一緒に浴びたらよろしいのに・・」
 この一言が、真理子が風呂から先に出た後の密室で、流離の予期せぬ情事を引き起こす結果になってしまったのだった。

 (つづく)

しんじゅく夜風(72)

かよい塾


 元彼は、ランニングシャツの上に白衣をひっかけただけのラフな格好で、検査結果の入った紙ファイルを無造作に小脇にかかえて、パタンパタンとだらしなくサンダルを引きずる音をたてて部屋に入ってきた。
「ナナさん、こちらが、例の鑑定をしてくださった方です」
 加奈子が、元彼をさらりと紹介すると、「手塚ナナです。このたびは、勝手なお願いをしてすみません・・」とナナは即座に挨拶を返した。
 彼は、ふたりとテーブルに向き合うように座ると、夫々の鑑定結果をナナと加奈子の前に提示して、その塩基配列(=パターン)の解析の方法を、ホワイトボードに記号を並べて説明しはじめた。
 ナナには、専門的な用語の解説はともかく、要は、どう見れば親子関係の確認が出来るのか、そこだけを教示してくれるだけでよかった。

 ナナは、塩基配列が印字された記録紙の、一枚一枚をくい入る様に覗き込んでは、持参したメモ用紙へ、質問したことを書き込んでいた。
 質問する言葉の端はしに、次第に緊張を高めていくナナの様子が、何故か、加奈子にまで伝わっていた。
 何しろ、彼の解説どおりに配列を解読していくと、翼の父親は洋平ではないという、全く予想だにしなかった結果(パターン)が示されていた。
 何かの間違いではないか、いや、そうであって欲しい・・。翼の父親まで推理する余裕が加奈子にはなかった。
 ノースリーブの加奈子の小脇を、汗が滴り落ちていた。

「あのー、この子にトイレをお借りしたいのですが・・」
 ナナは、子供のことを理由に、いったん席を離れて落着くきっかけをつくりたかった。
 いったい、どうしてそうなったのか、めまぐるしくナナの脳裏を過去の出来事が駆け巡っていた。

 いまから、20年近くも昔、ナナの夫の淳と大学が同じで、銀行も同期入社の佐々木真一の家族とは同じ賃貸マンションに住んでいた。
 当時は、今日のように、殺人事件が日常茶飯事に発生する事もなく、落着いた市民生活を営まれた時代だったから、外出時には、玄関をドアロックするけれど、屋内に人がいるのに、昼間からドアロックして、殊更安全を確認しながら、部屋で過すなど考えられない事だった。

 (つづく)

しんじゅく夜風(71)

かよい塾


「わたしの?・・そ、そんな事は、断じて有り得ません!」
「そ、そういうご心配でしたら、責任を持って調べますから、お任せてください・・」
「あらっ、そんな簡単に調べる事、出来ますの?・・」
「大丈夫です・・検体さえあれば・・」
「検体って、毛髪だけでもいいのかしら・・」
「OKです!」
「それなら、いま、持ってきてるの!・・診て貰えるかしら!」
 元彼は、加奈子の術中にものの見事に嵌められて、両家の血液鑑定を引き受けてしまったのだった。

 江川家では、シャワールームを出るときに、排水網に溜まった毛を摘み取って、塵入れに捨てることになっていたから、大体は誰の物かくらい容易に見当がついた。
 加奈子は、その中の物を、各々紙に包んで、ナナから預ってきたものと一緒に持って来ていた。

 江川家の髪は、洋平の髪には白髪が雑ざっていたし、三千子のには、長くのばした髪があったし、翼の髪は逆に短かったから、持ち込んだ毛髪が誰のものであるかは容易に判別できた。
「それでは、お預かりして調べてみましょう・・」
 加奈子の作戦どおり、事は進むように思えた。
 ところが、DNAの塩基配列(=パターン)は、加奈子を驚愕させる意外なパターンに、加奈子は、ナナと共に唖然とするのだった。


 元彼から結果がでたとの連絡があって、夏休みに入ったばかりの大学構内を、ナナは環を、加奈子は翼をそれぞれベビーカーに乗せ、強い陽射しを避けながら、彼の研究室がある理学部の建物に入って行った。
 ブラジャーの上に白衣をひっかけただけの、研究生らしい女性が、廊下を歩いてきたので、加奈子が彼の研究室の場所を訪ねた。その女性は、来客のあることを聞いていたらしく、ふたりを、いや4人を資料室のような薄暗い部屋へ案内した。

 (つづく)

しんじゅく夜風(70)

かよい塾


「ナナさん、その大学の助手の名前を分かるかしら?」
 加奈子の元彼、クラスメートがDNAの研究をしていることを、同窓会で会った時に彼から聞いていた。
 若しかすると、その助手というのは、未だにその地位に甘んじている、元彼なのかも知れない・・・。
 加奈子には、或ることが閃いた。

 加奈子は、元彼のいる大学の研究室へ電話をし、アポをとることが出来た。
 かつて自分も学んだ大学へこんな事で出かけるなんて思ってもいなかったが、元彼が役に立ちそうなんて、それこそ思いもよらぬことだった。善は急げ・・、加奈子は散歩でも行くような格好でに出かけた。
 そして、デパートのレストランのような、懐かしい学生食堂の片隅で、彼が来るのを待っていた。
 この日、嵐のような強い風が吹いたと食堂のテレビからニュース映像が流れていた。
 大学構内の並木が激しく揺れ動くように、加奈子の内心も降って沸いた不安要素に揺れ動いていた。

「わたしのお友だちが、大学生の息子さんが自分の子ではないって、今頃になって、ご主人から因縁を突きつけられているらしいのよ」
「その話を聞いて、わたしも急に心配になって…、あなたとの事があるものだから…」
 加奈子は、元彼の視線を避けるように、窓の外に見える強風に揺れる銀杏を見つめながら話し始めた。
 
「実はね、念のために、娘は主人との子だって、しっかりと確かめて置きたくて、ついでに、息子のDNAも一緒に調べてもらおうか・・、と伺ったわけなのよ!」
 加奈子が結婚したのは、彼との関係を絶ってからの事だから、有り得ない話である事は、百も承知だった。
 しかし、彼には加奈子の結婚した時期など知り得なかったから、加奈子の脅迫めいた語り口に、途端に、焦りの表情を浮べた。

 (つづく)

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